5 シャーラエルダ②

 イワンデイルの方も、記憶にある母子が、ヴァンに関係のある人物である可能性に思い至ったのであろう。もしくは、一人で徘徊されるより、共に行動した方が住民が安心すると思っただけかもしれない。


 老町長の申し出に甘えさせてもらい、その曲がった腰を追う。斜め後ろを歩きながら、ヴァンは町並みを改めて観察した。


 思いの外広い町だ。一人で歩いていた時は大通り周辺しか通らなかったが、町長の案内でやや奥まった道を進むと、表通りよりもさらに寂れた雰囲気で、流れで連れてきてしまった馬の蹄の音が反響する度、場違いな気分になる。


 墓地に面したその区画には、暴風が吹けば倒壊してしまいそうな、小さな集合住宅が何棟か辛うじてその形状を保っていた。住人がいなくなって久しいのだろう。窓枠には硝子も板もなく、洞のようにぽっかりと口を開け、砂混じりの風を飲み込んでは逆の開口部から吐き出していた。


「どの部屋だったかは記憶にないのですが、この辺りの区画に住んでいたはずです。この町にやってきた時にはあの子はまだ乳飲み子でしたね。父親のことは質問してみたこともなかったと思います。町長として、移住者の暮らしを気にしてはいましたが、当時からこの町には余裕などありませんでしたから、あまり詳細は覚えていないのです」


 おそらく、少年が波の印を持っていなかったら、こうして記憶に残ってすらいなかったのだろう。


 ヴァンは手綱を石柱に括り付け、町長に一声かけてから建物の中に入ってみた。階段にも廊下にも細かな砂が降り積もり、靴底がじゃりじゃりと音を立てるほど。扉も外れたり開いたままになっていたりするものがほとんどで、いかにもな廃屋であった。


 いくつかの部屋を覗きこみ、過去の手がかりがないか探ってみたものの、期待外れである。それであれば、ヴァンに藍色の徽章きしょうを寄越した黒幕の潜伏した痕跡でもないかともう一巡してみたが、やはり何の手がかりもなかった。これほどに床に堆積物があるということは、この建物には長らく人が踏み入っていないことを示唆していた。


 彼らはなぜ、ヴァンをシャーラエルダに導いたのか。「行けば分かる」と奴は言った。言われた通りに訪れてみても、分かったのは、おそらくこの地に縁があるということだけ。仮に彼らがヴァンの記憶喪失を知っていたとして、思い出させて何の得があるだろう。ただの親切ということではないだろうから、意図が読めず、いよいよ時間の浪費に嫌気が差してきた。


 ヴァンは風化しかけた石段を踏み抜かないように慎重に歩を進め、イワンデイルの元に戻った。どうだったか、と問う藍色の目に首を横に振って答える。イワンデイルも肩をすくめて残念そうにしてくれる。


「本日は突然押しかけてしまい申し訳ない。ご厚意に感謝します」

「いいや、お気になさらず。何か少しでもお役に立てればよかったのですが……」


 温厚な町長に礼を言い、別れを告げようとしたが、ふと思い出して最後のついでにと、懐を探った。例の徽章を取り出し、皺だらけの老人の手のひらに手渡した。


「町長殿、最後に一つお聞きしたいのですが、この紋をご覧になったことはありませんか」


 期待せずに問うてみたのだが、予想外にも老人は息を吞んだ。それから、ヴァンの手にそれを戻し、両手で上下から丁寧に包み込んで、徽章をしっかり握る形にヴァンの指を折り曲げさせた。


「波の紋ですね。オウレアス紛争のずっと前、波の御子オウレンの地位が継承されていた時代、御子の略式の紋として使われていました。正式な紋は波形の緩やかな優美な模様で、それはあなたもご存じでしょうけど。昔は彫刻の技術も乏しいので、この簡単な三重線を利用していたのです」


「よくご存じですね」

「これで伊達に年を食ってはおりませんもので。それにこの町にはこの紋が標された碑があります。この石はどこで?」

「知人がくれました。この紋を辿れば、その……」


 どのように説明すべきか、上手い言葉が見つからず口を閉ざしたヴァンの横顔を眺めた後、不意に老人が歩き始めたので、馬をそのままにして、曲がった背中を追う。


 ほどなくして、廃墟に隣接する墓地の柵を越える。古びてはいるものの手入れの行き届いた、この町の人々の人柄が知れるような墓石の間を進んだ。


 円形に広がる墓地の中心部。形状からして、最も古くからあるだろう円心の位置に近い石の前で立ち止まり、イワンデイルが痛む膝を庇いつつ更に腰を屈めたので、その横にしゃがんで視線を合わせた。


 風化の激しい石は、もとは角ばっていたのだろうが、今は隅がまろやかな曲線を描き、時の流れを感じさせる。その表面に、こちらも風雨の浸食を受けてはいたが、辛うじて三重の弧を描く溝が彫り込まれ、その窪みに青い塗料が塗り込まれていた痕跡が見て取れた。弧の開口部は右斜め上。どうやらこれが、波の紋の正式な見方らしい。


波の御子オウレンに縁のある方の墓石ですか」


 イワンデイルはゆっくり首を振る。


「いいえ、これは彼らの慰霊碑です。八十年前までこの町は、波の御子オウレンを多く輩出する町でした。彼らは選任された時点で波の宮に行きますから、お役目を終えられても、ご遺体が戻ることはありません。特に昔は今とは違い、自給自足の時代で塩害や不漁が民衆の生活を大きく揺るがしてきましたから、若くしてその身を神に捧げる方が多かったのです」


 イワンデイルは指先で紋をなぞって続ける。


「御子を輩出するのは、町にとって光栄なことです。しかしながら……誤解を恐れずに申し上げれば、家族にとってはやはり複雑な気分なのですよ。波の宮に行った息子が老人になるまでお役目を勤め上げたのであれば、本望でしょう。ですが、親よりも若く神の元に行ってしまうとしたら……」


 親戚か先祖が、波の御子オウレンだったのだろうか。心からの苦渋を吐露した老人の、紋の上で強く握られた拳をただ見つめ、ヴァンは呟くように答えた。

「――わかります」


 同じように神に身を捧げる義務のある星の姫セレイリの側にいる者として、彼らの気持ちが痛いほど理解ができた。むしろ、己は信仰心が薄いため、そのような思考に至るのだとかねてから引け目を感じていた身なので、いにしえの波の民も同様の葛藤を抱いてきたことを知り、不謹慎にも安堵する部分もあった。


 イワンデイルは、ヴァンの同調を社交辞令と思ったのだろう、微笑んで腰を伸ばした。


「申し訳ない。老人の戯言に付き合わせてしまいました。さて、何か手掛かりはありそうですか」

「少し、調べても?」

「もちろん」


 イワンデイルの見守る中、ヴァンは慰霊碑を様々な角度から観察する。ところどころ欠けてしまっているため、手掛かりかと思い目を凝らしたところただの風化だった、ということが何度かあったが、碑の右上側面の一角に、小さな文字が彫り込まれているのに気付いた。町長に問うてみると、彼は肩を竦めた。


「これは……以前はなかったと記憶しています。いったい誰がこんな罰当たりな」


 彼の言葉には同意しかなかったが、やっと見つけた道標だ。その小さな文字を読み上げる。


「シャポックラード。いや、シャポックラント?」

「聞いたことがありませんね」


 ひっかき傷のような細い掘り込みのため、中々に読みにくい。ヴァンはその文字を脳裏に刻み込み、手の中の徽章の裏に刻まれた文字と見比べてみた。筆跡が酷似している。


 「シャポックラント」これが次なる手掛かりに違いない。それも意味合いの不明なたぐいの手がかりだ。また地名なのだろうか。悠長にこのような謎かけに付き合ってやる暇はないのに。


 ヴァンは苛立ちを抑え込み、イワンデイルに丁寧に礼を述べる。老人は頃合いを察したらしく、右手を差し出したので、ヴァンはそれを取り、固く握手を交わした。


「あなたにお会いできてよかった」

「こちらこそ。何とお礼をすれば良いか」

「それでは一つ頼まれていただけますかな」


 ヴァンは頷いて促す。イワンデイルは遠い、心穏やかな過去を回想するように目を細めた。


「この紋を辿り、もし例の母子に出会うことができたなら……いつでも戻って来なさいと伝えてもらえますかな?」

「承りました」


 母子がヴァンの縁者であるのならば、失われた記憶を追う中で出会うことができるかもしれない。彼らが何者で、なぜこの町を出たのかはわからないが、遠くに自分を受け入れてくれる人がいるということは、大きな心の支えになるだろう。


 ヴァンにはあいにく、そのような故郷はないが、今では星の宮がそれである。大切な場所を守るため、でき得る限りのことをしなくては。謎かけの先に何があるのか不明ではあるが、この単語について首都に戻り次第調べてみようと思った。


 馬を迎えに行き、町の出口に向かい、ひび割れた石畳を進む。イワンデイルが見送りのため隣を歩いてくれているので、住民の視線の中に含まれる警戒感は、かなり薄れたようだった。町を出て塩の大地を蹴る馬に跨り、馬上から最後の別れを告げる。イワンデイルは最後まで、温厚な笑みを絶やさなかった。


「あなたも、いつでも再訪をお待ちしておりますよ。また、お会いできますように」


 その言葉は、ヴァンの耳に、心に、深く刻まれた。

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