4 シャーラエルダ① 


 手綱を引いて、軽快に弾んでいた馬の脚を強引に止める。急な指示に棹立さおだちになった馬を宥め、門もない小さな田舎町を馬を引いたまま進むと、見慣れぬ来訪者に住民の警戒感むき出しの視線が集まった。


 道中、ぼんやりと物思いに耽りつつ来たところ、距離はさほど負担に感じなかった。例の男が言った通り、首都からは日帰りでの行き来が可能らしい。ヴァンは今、シャーラエルダの町に訪れていた。


 万が一に備え、供を連れてくることも考えたが、ただでさえ首都が不穏な状況である。不確かな情報に基づく調査のため、人員を割くことは避けたかった。


 ヴァンに害をなそうとするのであれば、このように回りくどいことをする必要はないし、星の姫セレイリを狙うのであればまだしも、その付き人を襲う理由など考えつかない。また、大勢に囲まれでもしない限り、半端な刺客であれば、返り討ちにする自信もあった。


 シャーラエルダの町は、荒廃した印象のある、古い石積みの家屋が並ぶ町並みである。町に足を踏み入れた途端、ヴァンは確信した。きっとこの町に来たことがある。記憶を失う前の、幼少の頃に。


 名前やその他自身に関わる情報の幾つかを除き、八つの歳より前の記憶がないので、この町にいたのはほんの幼い頃に違いない。それでも、終戦から十年しか経っていないのだから、旧知の者がいまだ暮らしている可能性があり、何等かの情報を得ることができるのではないか。


 期待感を抱く一方、謎の不届き者にそそのかされてここまでやって来てしまったものだから、この選択が正しかったのか答えのない自問を続けている。胃の中に重い石を飲み込んだ気分だった。


 町を歩けば、どこか記憶が刺激される場所があるのではないかと思い、半刻ほど無作為に足を進めてみたものの、手掛かりはない。また、反体制派を思わせるような不穏な空気も一切なかった。


 あの狂人は、この町に指導者はいないと言った。言葉通りに捉えるとするのであれば、直接的な手掛かりになる物は用意していないに違いない。次の目的地に関する道しるべがあるのかとも考えたが、残念ながらその手の物も見当たらなかった。


 さすがに星の騎士セレスダの徽章は外しているものの、馬を連れて、明らかに武人と分かる出で立ちで町を徘徊する男に、いよいよ住民の視線が厳しくなる。無理もない。国境に近い辺境の町であるということや、古びた町並みから察するに、この町は岩波戦争時にも甚大な被害を受けたのだろう。帯剣をした部外者を、警戒するなと言う方が無理な話だった。


 灰色の町並みを巡り、何の手がかりもないまま一刻が過ぎようとした頃。さすがに首都へ帰ろうかと馬を引いた時、やや腰の曲がった老人がこちらへ向かってくるのに気付いた。


 年相応の皺が刻まれた、柔和な印象の老人。髪はまばらになり、ところどころ残る毛髪は白いものが目立つ。衣服は清潔そうではあったが色あせており、裕福な印象は全くなかった。それでも彼は、紳士的に笑みを浮かべる。


「騎士様がこのような田舎町にいらっしゃるだなんて。何かお探しで?」


 おそらく、周囲の住民が怯えているのを見かね、声をかけたのだろう。どのように誤魔化そうかと思案したが、男の目を見た途端、不意に鼓動が止まるような感覚に襲われた。次いで血の気が引き、目の前が真っ白になる。倒れる寸前で馬にもたれかかり、頭を下げて脳に血を行き渡らせれば、辛うじて意識を保つことができた。


 先日から、身体が言うことを聞かない。医者の言う通り、果たして本当にただの過労なのだろうか。


「おお、どうされました。お加減がよろしくないのですか」

「いえ、大丈夫です。失礼いたしました」


 息を整えてからもう一度、老人の眼を見つめる。間違いない。深い藍色の瞳だった。オウレアス王国建国前は、波の御子オウレンの選定は、波の加護を受けた証である藍色の瞳を持つ男子の中で行われてきた。丁度、星の姫セレイリが黄金色の瞳の女子から選ばれるように。


「ああ、この町には稀に生まれるのですよ、波の印を持つ者が」


 その言葉で、不躾な視線を向けてしまっていたことに思い至り、ヴァンは頭を下げた。


「申し訳ない。非礼をお許しください」

「いや、良いのです。他所よそから来られる方は、みな同じように驚きますから。……まあ、最近は子供の数も減り、最後に藍色の瞳の子供が生まれたのも大分前になりますがねえ」


 衰退する町に憂いを含んだ視線を向ける老人に、かける言葉もない。困惑させてしまったことに気づいた老人は、自嘲気味に笑った。


「いやはや、無駄話をしてしまいました。私はこの町の長をしております、イワンデイルと申します」

「僕は……首都より参りました。ヴァンです」


 老人は頷いて受け流そうとしたようだが、反射的に少し目を細めたようだった。正体を明言しなかったことが不快だったのかと思ったが、どうやら違うらしい。


「ヴァン……。失礼ながら、それは愛称で?」


 北方の民の名前は、一般に長いものが多い。イワンデイル老人も家族や親密な友人には、イワンであったりデイルであったり、愛称で呼ばれていることだろう。彼の質問の意味は理解したが、生憎ヴァンは答えを持ち合わせていなかった。


「それが、わからないのです。僕には幼少期の記憶がなくて」

「記憶が? それはお辛いでしょう」

「……できることならば、家族や友人のことを思い出したい。その一方で、思い出すのが怖い時もあるのです。実は自分が何者なのか知ってしまったら、今の生活が崩れるような気がして」


 どうもこの老人に対しては饒舌になってしまう。イワンデイルは何事か言いかけて口を開いたが、思い直したように黙り込み、しばしの逡巡の末に改めて言った。


「今が幸せだと思えるのなら、それは最も良いことです。過去はなくとも、未来は生きている限り、皆に平等に訪れますから」


 微笑むと目尻の皺がより深くなる。ヴァンがこの町来たことがあるのであれば、おそらくイワンデイルと出会ったこともあるだろう。老人の方も、ヴァンに何者かの面影を見ているかもしれない。


「町長殿、僕はおそらく、この町に来たことがあると思うのです。あなたとお会いしたことも、もしかしたら……」


 躊躇いの末に口にしてみたものの、予想に反してイワンデイルは小さく首を振った。


「どうでしょうか。確かに、昔ここに住んでいた少年の一人に、あなたに面影を感じる子がいました。名前も、似た響きだったような。だから先ほどは少し驚いてしまったのですが。……あの子が騎士様であることは、あり得ないのです」


 真意がつかめずに黙って先を促す。老人はヴァンの顔を覗き込んでから、己の顔を指さした。

「これですよ、目の色。あの子はこの町最後の、波の印を持つ少年でした」


 なるほど。ヴァンの目の色は取り立てて特徴のない薄茶色である。稀に成長ともに目の色が変わる子供の話は聞くが、それはずっと幼い赤ん坊の時期の話だ。老人の口ぶりからは、ヴァンを別人であると確信しているようだったから、他人の空似で間違いないのだろうが、名前と顔が似ている少年ということは血縁者であったりしないものか。


「失礼ですが、今その方はどこへ?」

「さて。ずっと昔に母親と一緒に町を出てしまいましたので。しかしこれも何かの縁です。もしお時間おありでしたら、親子が住んでいた区画を案内いたしましょう」

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