3 熊と彼女と僕②

 うるさい。それが次に感じたことだった。


 薄っすらと目を開くと、ハーヴェルの緑色のまなこが珍しく揺れていた。彼が何事かを周囲に叫んで知らせると、砂埃を巻き上げながら、誰かが走ってくる。宮廷医のようだ。


 自分は怪我をしたのだろうか。ぼんやりと手のひらを見遣ると、乾いた血痕が赤黒い。熊の血だ。徐々に感覚が戻ってきたが、無理な運動によって筋肉が痛むだけで、目立った傷はないようだ。


 聴力が回復してくると繰り返し己の名前が呼ばれていることに気づく。顔を向ければ、顔をくしゃくしゃにして泣いている星の姫セレイリが目に入った。


 汚れるのも厭わずに側に膝を突いたエレナだが、なぜか身体中が血と土にまみれていた。怪我をしたのかと思い、血の気が引いたが、心理的に衝撃を受けている様子ではあるものの、身体に不自由そうな仕草はないので、おそらく熊の返り血だろう。


「ヴァン。ごめんなさい、ごめんなさい」


 しゃくり上げるエレナに、深く考えず手を伸ばす。その赤黒さに、自然の反射か、エレナは一瞬驚きの視線を向けた。心に冷たい風が吹いた。手を引っ込め、視線を天に戻す。どうやら、清潔な麻布の上に仰向けに横たえられていたようだ。


「……ごめん、怖かったでしょう」


 熊だけではない。記憶がない間のヴァンも、悪鬼のように恐ろしかったはずだ。自身に傷一つないのに、ここまでの返り血を受けたということは、必要以上に敵を苦しめ殺したのだろうと思われた。


 ヴァンの最初の記憶も、血だまりの中だった。岩波いわなみ戦争の終戦直後、国境付近で混乱に乗じて略奪を行っていた盗賊の一団を、子供一人で返り討ちにしたのだ。


 どうやって成し遂げたのかは覚えていない。ただ、心を手放すと、自分が手の付けられない猛獣のようになるのだということは、おぼろげながら理解していた。血だまりの中で放心する幼い少年を、聖サシャ王国の帰還兵が南方に連れ帰ったのは、何を思ってのことだったのか。


 なおもしゃくり上げるエレナに、いたたまれない気分になる。側にこんな得体の知れない者を置いていただなんて、不気味この上ないはず。


 周囲の大人を見回しても、一様に遠巻きにこちらを眺め、何事かを小さく囁き合っている。やはり年端もいかぬ少年が巨大な熊を仕留めたというのは、恐ろしいものなのだろう。ヴァンの身体に傷がないか診察をする医師の手も、少し震えているようにも感じる。


「後悔していますか、僕を側に置いたこと」


 星の騎士セレスダとして呟いてみれば、エレナの呼吸が一瞬止まったようだ。それから何事もなかったかのように鼻をすする。


「あなたは私を守ってくれたのに?」


 意外な言葉に、少女の顔を見遣れば、泣き腫らした赤い目が、本当に意味合いが分からないというように見開かれていた。その大きな瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。


「僕が、怖いでしょう」

「なぜ? 怖いのは熊よ」


 言葉が出ない。現場に居合わせなかった大人ですら、得体の知れないものを見るように遠巻きにしているにもかかわらず、この少女は全く恐れていないというのか。もしかしたら都合の良い幻聴が聞こえたのかもしれないとまで思ったが、エレナの言葉は続く。


「ヴァンは、私を守ってくれた。大人よりもずっと大きな熊から。本当は、痛いのは嫌だってずっと言ってたのに。私が、あなたに痛いことさせちゃった。……もう、私のこと嫌いになった?」


 土と汗と血に塗れた状態の中にあってすら、心の靄が綺麗に霧散していくのを感じた。誰にも受け入れてもらえないと思っていた。自分ですら、この心の獣が何者なのか、どうやって感情を制御すれば良いのかわからないのに。


 胸に込み上げるものがあり、それは喉元から鼻をつんと刺激し、目尻から涙となって溢れた。それを腕で覆えば、エレナが慌てて逆の腕に触れてきた。


「大丈夫? どこか痛いところあるの?」


 答えることができず、ただ静かに首を横に振り、心が落ち着くまで涙を流した。隣で慌てふためくエレナを宥めたのは、ヴァンの心中をおもんぱかったハーヴェルだった。


 事の経緯を後から聞いたところによれば、熊を殺した後、糸の切れた人形のように気を失ったヴァンを、エレナが引きずって森の入り口付近まで運んだのだという。


 知らせを受けた騎士が現場に向かうと、その場には切り刻まれた熊の死骸が血の海の中に浮かび、周囲の木々も紅の飛沫を浴びて凄惨な状況だったそうだ。若い騎士の中には、堪えきれずに嘔吐する者もあったという。


 そのような状況であったため、制御の利かない得体の知れない少年を星の騎士セレスダにして良いものか、当然のように議論が紛糾したらしい。それを収めたのは、ハーヴェルである。


 彼は、後任を責任をもって指導し、自制心を身につけさせると星の女神セレイアに誓いを立てた。人望にあつい元星の騎士セレスダが、常にない饒舌でヴァンを擁護するものだから、星の宮の誰もが首を縦に振るしかなかったのだそうだ。


 今のヴァンがあるのは、ハーヴェルのおかげだ。それからもちろん、ヴァンの悩みをあっけらかんと受け流したエレナの存在は、心の拠り所となったのだった。

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