2 熊と彼女と僕①
※
国家行事とは奇妙なものだ。大人数でぞろぞろと列をなし、
騎士の選抜から、一年も経たない時期だったが、狩りには参加しないとはいえ
ハーヴェルは寡黙な男で、当時年の頃は三十代半ばだったか。ヴァンが正式に一人前の騎士になれば、黒岩騎士団に戻り重鎮として働くことになる、有能な男である。ヴァンが選抜で選ばれる以前は、彼が代理でエレナの近辺の安全管理をしていたため、二人は気心知れた仲で、間に入るのがなんとも気まずかった記憶がある。
年齢的なものもあるだろうが、傍から見れば親子か、
なぜそんな噂話が横行してしまうのかと言えば、この男が口下手で、自分のことや近辺のことをあまり語らないからだろう。エレナの母親……前任の
周囲から、エレナの父について問われた時も、彼は言葉すら濁さず、知らぬ存ぜぬの一点張りだったため、逆に疑惑を呼び、彼が実の父だとの噂が生まれたのだった。無論、ヴァンだけでなく、エレナもそんな噂は信じていないらしかった。
さて、そんな職務に忠実なハーヴェル卿ではあったが、彼も
「ねえヴァン。ちょっと森に入ってみようよ」
「だめだよ。絶対に入ってはいけないって、ハーヴェル卿も言っていたでしょ」
「ちょっとくらい大丈夫だよ。ほら、早く」
腕を引かれ、仕方なく離席する。肩越しに振り返ると、少し離れた場所でハーヴェルが神妙な表情で話し込んでおり、こちらの動きには気づいていないらしかった。
エレナのお転婆にも大分慣れてきた時期だったため、ヴァンは渋々従い、
長い冬が終わり、雪の下で芽吹きの季節を待ちわびていた若草が一斉に萌ゆる時期。木々のさざめきと、遠くで流れる渓流の微かな流水の音が、心地よい。胸いっぱいに空気を吸い込めば、言いつけを破っている背徳感は少し薄れた。エレナの方には最初からそんな気持ちはなさそうだったが。
「見て。
目を輝かせて行ったり来たりする様子に、呆れ交じりの笑みが零れる。
純白に金糸の精緻な刺繡が施された神殿の
エレナは確かにわがままな面を持ち合わせているが、同時に、どこまでなら主張しても問題がないかという境界線を、自然に
「あれはカワセミじゃないかな」
「セミ?」
「夏に出てくるやつじゃないよ」
二人はそのまま奥に進む。人間が通れるように下草がなぎ倒され、木立がさほど密集していない林道であるので、子供二人で歩いていても、危険な様子は全くなかった。だから、ヴァンは忘れていたのだ。この森には、狩りに来た。つまり、狩りの獲物となり得る獣がおり、それらを捕食する大型の生き物もいるのだということを。
森が深まる毎に、道は獣道の体を成し、木々が陽光を遮断し始め、比例して足元は暗くなる。徐々に目新しい物もなくなって来たので、ヴァンは戻ることを促すが、エレナは不満気だ。
「抜け出してから大分経ったし、今頃大騒ぎになっているかも」
「うん……ちょっとだけ待って」
何かを探すように注意深く周囲を見回すエレナに、首を傾けた。
「探し物?」
「あのね、野苺ないかなって。去年、イーサン殿下と探したときは、こんな感じの森に生えてたから」
ヴァンは一瞬言葉に詰まる。苺が好きなのはエレナではなくヴァンだったので、きっと贈ってくれるつもりだったのだろう。前回野苺をもらった時にも言えなかったことだが、ヴァンは苺は好きだが、野苺は嫌いではなくとも大好物というわけでもない。もちろん今回も口には出せなかった。
「野苺は、まだなっていないと思うよ。あとひと月かふた月くらい後かな」
エレナは驚きに目を丸くして、こちらを見上げる。幼い世間知らずな姫は、植物の生育時期については念頭になかったらしい。これは、帰還を促すには良い流れだ。
「ほら、やっぱりそろそろ帰ろう。これ以上遅くなったら、ハーヴェル卿が偉い人に怒られて……」
「ヴァン!」
こちらを見ていたはずのエレナの視線が少し揺らぐ。顔が徐々に引きつり、凍り付く。その視線を追って、背筋に悪寒が走るのが分かった。背後には、大人の人間よりずっと大きな熊が。柔らかな子供の肉を切り裂こうと、今まさに立ち上がったところだった。
咄嗟にエレナを茂みに突き飛ばし、自身は反射的に腰の剣を抜いて熊に向き直る。見習いとはいえ
「ヴァン、逃げよう」
震える声でエレナが言うが、背中を向ければ敵に襲い掛かる隙を与えることになってしまう。
「僕が止めるから、君は逃げて」
「い、嫌だよ」
横目で視線を向ければ、蒼白な顔で震える少女は、逃げろと言っても立ち上がれない状況と思われた。熊に視線を戻せば、冬眠から覚めたばかリなのだろう、身体がやせ細り弱々しくも見える体躯だが、ごちそうを前にして
ヴァンは剣を握り直し、腹に力を入れる。恐怖に足が
もう一度、茂みに目を移す。涙に塗れた黄金色の、縋るような視線に射すくめられ、ヴァンは覚悟を決めた。
「目を瞑っていて」
言って、剣を掲げて熊に襲い掛かる。薄らぐ意識の中、知らない誰かの声が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。最後に見たのは、敵の鋭い爪の鈍い光と、剣の鈍色が重なり合う光景だった。
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