2 熊と彼女と僕①


 国家行事とは奇妙なものだ。大人数でぞろぞろと列をなし、岩の王サレアスが所有する近郊の森に向かい、獣を狩る。これを、数年前まで剣を交わしていた北国の国賓を交えて行うというのだから、なんとも皮肉だ。


 騎士の選抜から、一年も経たない時期だったが、狩りには参加しないとはいえ星の姫セレイリも臨席を求められた行事だったので、前任の星の騎士セレスダであるハーヴェル卿と共に、ヴァンも狩場に訪れた。


 ハーヴェルは寡黙な男で、当時年の頃は三十代半ばだったか。ヴァンが正式に一人前の騎士になれば、黒岩騎士団に戻り重鎮として働くことになる、有能な男である。ヴァンが選抜で選ばれる以前は、彼が代理でエレナの近辺の安全管理をしていたため、二人は気心知れた仲で、間に入るのがなんとも気まずかった記憶がある。


 年齢的なものもあるだろうが、傍から見れば親子か、伯父おじと姪のようにも見えた。実際、なんとも信憑性の薄い噂話ではあったが、彼がエレナの実父であるという話も聞いたことがある。しかしこれは、ハーヴェルの人柄をよく知るヴァンにとっては、信ずるに値しない戯言ざれごとに過ぎなかった。


 なぜそんな噂話が横行してしまうのかと言えば、この男が口下手で、自分のことや近辺のことをあまり語らないからだろう。エレナの母親……前任の星の姫セレイリの最も近い場所にいた騎士が、主が身ごもった子の父親を知らないなどということがあるだろうか。


 周囲から、エレナの父について問われた時も、彼は言葉すら濁さず、知らぬ存ぜぬの一点張りだったため、逆に疑惑を呼び、彼が実の父だとの噂が生まれたのだった。無論、ヴァンだけでなく、エレナもそんな噂は信じていないらしかった。


 さて、そんな職務に忠実なハーヴェル卿ではあったが、彼も星の姫セレイリ身罷みまかってから数年後に妻を迎え、子もある身。自身の邸宅で何事かあったらしく、狩りの最中に伝令に呼び出され、ほんの少しだけ、幼い星の姫セレイリとその騎士の近辺を外してしまう。その機会を逃すエレナではなかった。


「ねえヴァン。ちょっと森に入ってみようよ」

「だめだよ。絶対に入ってはいけないって、ハーヴェル卿も言っていたでしょ」

「ちょっとくらい大丈夫だよ。ほら、早く」


 腕を引かれ、仕方なく離席する。肩越しに振り返ると、少し離れた場所でハーヴェルが神妙な表情で話し込んでおり、こちらの動きには気づいていないらしかった。


 エレナのお転婆にも大分慣れてきた時期だったため、ヴァンは渋々従い、鬱蒼うっそうと下生えの茂る森へ足を踏み入れた。


 長い冬が終わり、雪の下で芽吹きの季節を待ちわびていた若草が一斉に萌ゆる時期。木々のさざめきと、遠くで流れる渓流の微かな流水の音が、心地よい。胸いっぱいに空気を吸い込めば、言いつけを破っている背徳感は少し薄れた。エレナの方には最初からそんな気持ちはなさそうだったが。


「見て。栗鼠りすがいる! あ、あの青い鳥はなんて名前?」


 目を輝かせて行ったり来たりする様子に、呆れ交じりの笑みが零れる。星の姫セレイリとして振舞っているときは、空恐ろしさを感じさせるほど大人びているのに、普段の様子はむしろ、年齢よりもさらに無邪気にも見える。


 純白に金糸の精緻な刺繡が施された神殿の貫頭衣かんとういを纏わぬ日の彼女は、いつだって奔放に振舞うし、あまりの強引さに閉口することもあるが、本当は彼女の自由になることなどほんの一握りで、暮らしのほとんどを規制されていることに、ほんの数か月共に過ごしただけで気づいた。


 エレナは確かにわがままな面を持ち合わせているが、同時に、どこまでなら主張しても問題がないかという境界線を、自然にわきまえているようだった。そういった意味では、彼女の本質はとても従順である。


「あれはカワセミじゃないかな」

「セミ?」

「夏に出てくるやつじゃないよ」


 二人はそのまま奥に進む。人間が通れるように下草がなぎ倒され、木立がさほど密集していない林道であるので、子供二人で歩いていても、危険な様子は全くなかった。だから、ヴァンは忘れていたのだ。この森には、狩りに来た。つまり、狩りの獲物となり得る獣がおり、それらを捕食する大型の生き物もいるのだということを。


 森が深まる毎に、道は獣道の体を成し、木々が陽光を遮断し始め、比例して足元は暗くなる。徐々に目新しい物もなくなって来たので、ヴァンは戻ることを促すが、エレナは不満気だ。


「抜け出してから大分経ったし、今頃大騒ぎになっているかも」

「うん……ちょっとだけ待って」


 何かを探すように注意深く周囲を見回すエレナに、首を傾けた。


「探し物?」

「あのね、野苺ないかなって。去年、イーサン殿下と探したときは、こんな感じの森に生えてたから」


 ヴァンは一瞬言葉に詰まる。苺が好きなのはエレナではなくヴァンだったので、きっと贈ってくれるつもりだったのだろう。前回野苺をもらった時にも言えなかったことだが、ヴァンは苺は好きだが、野苺は嫌いではなくとも大好物というわけでもない。もちろん今回も口には出せなかった。


「野苺は、まだなっていないと思うよ。あとひと月かふた月くらい後かな」


 エレナは驚きに目を丸くして、こちらを見上げる。幼い世間知らずな姫は、植物の生育時期については念頭になかったらしい。これは、帰還を促すには良い流れだ。


「ほら、やっぱりそろそろ帰ろう。これ以上遅くなったら、ハーヴェル卿が偉い人に怒られて……」

「ヴァン!」


 こちらを見ていたはずのエレナの視線が少し揺らぐ。顔が徐々に引きつり、凍り付く。その視線を追って、背筋に悪寒が走るのが分かった。背後には、大人の人間よりずっと大きな熊が。柔らかな子供の肉を切り裂こうと、今まさに立ち上がったところだった。


 咄嗟にエレナを茂みに突き飛ばし、自身は反射的に腰の剣を抜いて熊に向き直る。見習いとはいえ星の騎士セレスダ。腰には身の丈に合った大きさの真剣を帯剣していたが、大人の物よりも短く、間合いが近くなってしまう。


「ヴァン、逃げよう」


 震える声でエレナが言うが、背中を向ければ敵に襲い掛かる隙を与えることになってしまう。


「僕が止めるから、君は逃げて」

「い、嫌だよ」


 横目で視線を向ければ、蒼白な顔で震える少女は、逃げろと言っても立ち上がれない状況と思われた。熊に視線を戻せば、冬眠から覚めたばかリなのだろう、身体がやせ細り弱々しくも見える体躯だが、ごちそうを前にしてよだれを垂らしている。


 ヴァンは剣を握り直し、腹に力を入れる。恐怖に足がすくみそうだ。それでも、負けることはないとわかっていた。自身ですら正体を知らぬのだから。心のたがを外せば、熊一匹などヴァンの敵ではなかった。問題があるとすれば、自分ですら恐ろしいと感じる猛獣じみた姿を、エレナの目に映すことになってしまうことだ。


 もう一度、茂みに目を移す。涙に塗れた黄金色の、縋るような視線に射すくめられ、ヴァンは覚悟を決めた。


「目を瞑っていて」


 言って、剣を掲げて熊に襲い掛かる。薄らぐ意識の中、知らない誰かの声が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。最後に見たのは、敵の鋭い爪の鈍い光と、剣の鈍色が重なり合う光景だった。

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