8 王のもてなし

 本滞在中の近辺管理は紫波しは騎士副団長のリュアンが責任者のようで、自ら星の姫セレイリを部屋まで迎えに来ると、そのまま会場となる広間まで案内をしてくれた。


 途中、回廊に飾られた絵画や彫刻を指し示し、あれやこれやと説明をしてくれる姿に、好感を覚える。きっと、エレナが好むと思い、気を利かせてくれているのだろう。滞在用の部屋から広間まではさほど距離がないようで、早々に切り上げられてしまったリュアンの蘊蓄うんちくが、名残惜しいほどであった。


 侍従が星の姫セレイリの到着を室内に告げ、重厚な扉を二人掛かりで開く。眩しいシャンデリアの光と、宴の優雅な音楽が降り注ぐのを想像したが、反して室内は落ち着いた光度に保たれ、流れるのは少人数で奏でる弦楽器の控えめな旋律だった。さらに、立食の宴とばかり思っていたのだが、食堂のように長テーブルが中央に陣取り、着飾った招待客が座している。


 最奥を見遣り、すでに波の王オウレスと思われる壮年が着席していることに気づき、恐縮する。


「陛下、こちらが星の姫セレイリでいらっしゃいます。星の姫セレイリ、あちらにいらっしゃるのが我らが波の王オウレスです」


 エレナはドレスの裾をつまみ、膝を折る。


「お初にお目にかかります。お招きにあずかり光栄でございます」


 慣習的に、神の子らは、おおやけの場で個人名は明かさない。星の姫セレイリ星の姫セレイリであり、俗人としてのエレナは神の前では不要なもの。それは波の王オウレス岩の王サレアスも同様だ。


 王は軽く頷いて応え、客人に席を勧める。侍従が引いてくれた椅子に腰掛け、周囲の押し隠した好奇の視線を受け流すため、わずかに口角を上げ、胸を張った。成人の歳とは言え、まだ十五になったばかりの星の姫セレイリは、あどけなさの残る姿ではあったが、その身分に相応しい振る舞いを教え込まれていた。


 好奇の視線は、いつものように斜め後ろに木立のように気配を消して立つ、星の騎士セレスダにも向けられていた。通常、近衛が食事の場で主のすぐそばにいることはないだろうが、星の姫セレイリとその騎士の慣習を耳にしていた来賓達は、視線を向けるだけで何かを口にすることはなかった。


「遠方までよくおいでくださった、星の姫セレイリ。あと数日滞在してくださるようでしたら盛大に宴会を、と思っていたのですが。明日も朝早いでしょうから、こういった形式の方が、良いかと思いまして」

「お気遣いありがとうございます。とても素敵な雰囲気で気に入りましたわ」


 微笑んで頷く波の王オウレスは、細面のさっぱりとした顔立ちの男だった。王と言われれば岩の王サレアスの、筋骨隆々とした姿が脳裏に浮かんでしまうエレナからすると、なんとも意外な気分だ。薄暗がりの中で燭に照らされた瞳は、青。おそらく、強い日差しの下では、透き通るような淡い水色だろう。歴代の波の王オウレスは、波の御子オウレンの印として、もっと深い色合いの瞳を持っているはずなのだが。


 十年前の岩波戦争の折、この男は神官職についていたという。先代の波の王オウレスと王妃、一人息子である王太子が敗戦後に処刑された後、オウレアスはかつてのように、聖サシャ王国の一地方に戻るはずだった。それなのに現在も王位が継承されているのは、オウレアスの民心を統治するには波の神オウレアの加護が必要だと判断されたからだ。


 当時、王兄おうけいであったが、神の加護の印である身体的特徴を受け継がなかったために王位継承権がなく神職にあった彼が、新王に抜擢されたのにはそういった背景があると聞き及んでいる。波の御子オウレンの血筋は他に存命しておらず、国民はそれを受け入れたのである。


 テーブルを囲む賓客は、王の家族と、波の神殿の要職者。他は上級の廷臣で、紹介を受けたが全員を記憶するのは不可能だった。周囲で繰り広げられる、表面的な会話に相槌を打ちながら、時にご要望通り上品に笑い声を立ててみれば、場の雰囲気は悪くない。それでも、心底歓迎されているわけではないのは、肌を刺す空気感でよくわかった。岩波戦争の傷は、まだ癒えていない。


 会話の内容は大したことのない宴であったが、食事はやはり美味で、エレナとしては二点、舌の記憶に残る物があった。一点目は、塩の大地でも育つという、塩味のある奇妙な緑色の野菜を食したこと。二点目は、生まれて初めてお酒を嗜んだこと。


 すでに女性の成人年齢である十五歳になってはいたが、成人の儀が終わるまではと、食卓に上がるのはいつも果実酒ではなく果汁だった。


 禁じられているわけではないので、目の前のグラスに注がれた紅玉のような液体を少し口にしてみると、びりびりと舌が痺れる感覚の後、喉が焼かれるように熱くなった。言うまでもなく、最高級の果実酒だっただろうが、飲み慣れないエレナにとっては、その熟成した香りも甘味に混ざる苦みも、特別美味しいものには思えなかった。むしろ、匂いはなんだか古い部屋を連想させた。


 そんな様子で、料理毎に新しい果実酒が注がれるのでもったいなく、全て飲み干す必要がないとは知っていたものの、かなりの速度で口にしてしまった。


 普段なら、岩の王サレアスかイーサン王太子、いなければメリッサやヴァンが窘めてくれるだろうが、国賓として招かれた晩餐では、さすがのヴァンも主に進言することはできなかったようだ。あとからヴァンに言わせれば、靴先で椅子の足を小突いたり、咳払いをしてみたりしてたしなめようとしてくれたらしいが、緊張感も相まって酔いの回ったエレナには、虚しくも意に留められなかった。


「それにしても、星の姫セレイリが早々にご帰国されてしまうのはとても残念ですわ」


 言ったのは王妃だったか。顔がほてりぼんやりとしてきた頃合いだったので、無様な姿は見せられぬと、エレナは水を飲んだ。王妃の言葉に、星の姫セレイリとして相応しい返答を思案し、口を開こうとした時だった。

 

 不意に、どさりと重い音が響き、心なしか地面が揺れた。酔いのため、幻聴が聞こえたのか。それともエレナ自身が倒れたのか。本気でそう思ったのだが、皆の視線を追い、背後を振り返って、絶句した。


 星の騎士セレスダが、床に倒れこんでいた。


「ヴァン」


 酔いは一瞬で醒めた。血の気の引いた身体を叱咤し、慌てて助け起こそうと椅子を引いて、それから置かれた状況に思い至る。波の王オウレス、属国オウレアス王国の重鎮たち。集まる視線。彼らを前にして、軽卒な行動はできない。不安で震えそうになる声を、腹に力を入れて抑え込み、その場で立ち上がり頭を垂れる。


「……私の騎士が、大変失礼をいたしました」

 それから、心を鬼にして、振り向きもせずに言う。

「彼を、楽な場所へお願いします」


 侍従や他の近衛に助け起こされたヴァンは、焦点の定まり切らない視線で主君を見遣ったが、微動だにしない華奢な背中から、意思を汲み取り、ただただ精一杯の礼を王に送った。


「誠に、申し訳ございません。……波の王オウレス、皆さま方」

「良い、気にするな」


 気分を害した様子はなく、むしろ困惑した声音の返答に一先ず安堵したようで、ヴァンはそのまま大人しく場を辞する。扉が閉まる音が、エレナの胸に重く響いた。


「それで」


 形式じみた憂いの視線を扉に向けた後、王妃が首を傾ける。


「何のお話をしていたかしら」

「……私の滞在日程の話ですわ、王妃陛下」


 そんなことよりも早くヴァンの様子を確かめに行きたかったが、ままならぬ身に焦燥感が募る。いよいよ心労で痛みだした胃をテーブルの下でさすりながらも、胸から上は完璧な星の姫セレイリを演じ上げ、宴は円満に幕を閉じた。


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