9 眠れぬ夜


 今宵は目が冴えて落ち着かない。晩餐後、周囲が気の置けない者のみになったとたん、ヴァンの様子を問いただしたエレナに、こうなることを予想していたメリッサは娘の背中を一撫でし、微笑んだ。


「今は眠っていますが、大事ありませんよ。おそらく過労でしょうと、宮医が」


 様子を確認しに行きたかったが、過労が原因なのであれば、そっと寝かせてあげた方が良いはずだ。気持ちを落ち着けるため、ハーブティーを淹れてもらい、天鵞絨ビロードのソファに深く腰掛ける。侍女を下がらせると、温かな湯気に混じる香りを吸い込みながら、背もたれに頭を預けて目を閉じてみた。


 眠れはしないものの、たかぶった気持ちはやや落ち着く。冷静になると、顔色の悪いヴァンを休ませなかった自分に怒りすら湧いてきた。確かに出立前から激務だったようだし、疲労が溜まっているだろうことは簡単に想像できたはずなのだ。


 一人悶々として、どれほどの時間が経っただろうか。扉の外で、低くひそめた話し声が聞こえた。深夜の番についているのは、黒岩騎士の誰かだろう。しばしの問答が続き、間が空いた後、片方が何事かを発してから、廊下を歩いて行く足音が聞こえた。全てが微かな音だったので、眠っていれば全く気付かなかっただろう。夜中に護衛番が代わるのは、妙なことだった。


 滅多なことはないだろうが、ここは慣れぬ土地。念のため状況を確認しようとして腰を上げる。丸腰で敵と遭遇したらどうしようと思い、しばしの思案の後、熱々のポットを抱えた。扉に耳をつけてみる。廊下からは物音一つ聞こえない。エレナは意を決して、扉を豪快に開いた。


「え」


 思わず驚きの声が漏れる。扉の横に立っていた今宵の当直は、もっと驚いたようだ。曲者と思い、反射的に動いたのだろう。抜き身の剣が目にも止まらぬ速さでこちらに向かってきたが、鼻先から拳一つほど距離を置いて、鈍色の光は止まる。目を丸くしてこちらを見つめた瞳が、揺れた。


「申し訳ございません、星の姫セレイリ。とんだご無礼を」

「何しているのよ、こんなところで」


 周囲をおもんぱかって潜めた声ではあるが、怒気を含んだ主君の言葉に、騎士は慌てて納剣のうけんする。胸に拳を当て、深く頭を下げた。


「ごめん、まさか君だとは」

「そうじゃなくて」


 エレナは怒りを抑えるため深呼吸をしてから、抱きかかえたままのポットを置きに室内に戻る。こんなもの持って、滑稽にもほどがある。小さな円形のテーブルにそれを置いも、彼は扉の側で捨てられた子犬のように立ちすくんでいた。


「何やっているの。早く入りなさいよ」

「いや、僕は仕事が」

「今夜の護衛は他の人にお願いしたはずよ、ヴァン。大方、無理言って代わってもらったのでしょうけど」


 十中八九、先ほどの会話は、夜の番を代わる代わらないの交渉だったのだろう。部屋で休めと言いたいが、大人しく聞く性格ではないだろうから、室内で座っていてもらった方が安心だと思ったのだが、ヴァンは頑なな様子だ。


 仕方なく、騎士の腕を掴み、強引に室内に連れ込み、扉を閉める。一人掛けのソファに座るように促し、彼が渋々従ったのを見届けると、自分も向い側に腰を下ろした。


「明日のために休んで、と言っても聞かないでしょうね」

「さっき休んだし問題ないよ。その……晩餐の時はごめん」

「反省してるのなら、すぐに戻って寝るのね。明日は他の人を連れていく訳にはいかないのよ。あなたじゃないとダメなの。そういう決まりなんだから」


 ヴァンの返答はない。エレナは溜息交じりに、棚から手ずからカップを取り出し、ポットから黄緑色の液体を注いだ。爽やかな匂いが広がる。心を落ち着かせる作用のあるお茶だと聞いていた。


 精緻な文様のソーサーに乗せられ、無言で差し出されたカップを、ヴァンは躊躇いがちに受け取った。


「まあ、お茶の相手になってくれるのなら許してあげないこともないわ」


 ヴァンが一口嚥下えんげするのを見届けてから、自分も一口含む。温かなものが胃に落ちると、心がゆっくりとほぐれるようだった。


「それで、体調はどうなの。少しは良くなった」

「大分良くなった。心配させてごめん」

「心臓が飛び出すかと思った。危うく、大勢の前で取り乱すところだったわ」


 ヴァンが肩をすぼめ、再度「ごめん」と呟くので、これ以上責めるようなことは言えない。


「言っても仕方ないし、もういい。それよりどうしたの。あんなに身体が丈夫だったヴァンが、体調を崩すだなんて。やっぱり、無理させすぎちゃったかな」


 指摘されて、彼自身も疑問に思っていたようだ。思案気に視線を彷徨わせてから、微かに首を傾けた。


「なぜかは分からないんだけど、この国に来ると少し気分が悪くなるんだ。今日の件で決定的だったのは多分……塩の噴水の水を飲んだ時と、波の王オウレスの顔を見た時かな」


「塩の噴水、飲んだの? 生水なまみずに当たったのかしら。陛下のお顔は……それ体調と関係あるのかしら」


 エレナの言葉ももっともだと思ったらしく、ヴァンは頭を掻いた。


「うん、確かにそうだよね。水も飲用のところじゃなくて噴水からそのまま汲んじゃったから……」


 それから、あ、と声を上げ、ふと思い出したように、腰に括り付けた巾着から何かを取り出す。固い手のひらに乗せられたのは、水色のかわいらしい包装。そのまま差し出され、よく見てみると、中には円形の何かが入っているようだ。くれるのだろうか。視線で問えば、彼はにこやかに頷いたので、両手で受け取る。袋を開けてみると、香ばしい匂い。焼き菓子のようだ。


「わあ、おいしそう。……買ってきてくれたの」

「うん。君は外に出れないのを残念がっていたから。それを食べて少しでも旅行気分になってくれたらと思って。塩のお菓子だってさ。甘いのに塩気があって、サシャではきっと食べたことがない味だ」


 外に出たいとは明言してこなかったはずだが、エレナの態度は分かりやすかったようだ。少し頬が熱くなったが、菓子の袋を胸に抱いた。


「ありがとう。嬉しい」


 言われたヴァンの方が嬉しそうだったので、終日感じていた心の靄は、ほとんど消え去ったようだった。彼も一人の人間だから、全てを共有することはできないけれど、これほどに心が通じあっていれば、それでいい。彼が、それを煩わしいと思うようになった時、身を引けばいいのだ。いや、あえて離れなくとも、星の姫セレイリであるエレナは、この世からいなくなるはず。その時に、ヴァンにも友人や恋人がいれば、安心していなくなれると思った。


「……今日のことだけど。一緒にいた侍女とは、昔から仲が良かった?」


 虚を突かれたように言葉に詰まったヴァンを見て、エレナは慌てて付け足す。どうして共に出かけたのが侍女だと知っているのか説明しなければ、まるで見張っていたかのようではないか。


「違うの。たまたま庭園を見たら、二人がその……」

「ああ、見られちゃったのか、恥ずかしいな」


 あっけらかんとして笑い、彼は続ける。


「恥ずかしいんだけどほら、塩の噴水を飲んでから具合が良くなくて。なんとか庭園まで帰ったんだけど、倒れそうになって肩を貸してもらうことになったんだよ。サーラには悪いことしたな」


 内容を頭の中で咀嚼するまで、呼吸たっぷり三回分は要した。ではあれは、親密に寄り添っていたのではなく、介抱してもらっていたということだったのか。自分の勘違いに顔が熱くなる。ヴァンはこちらを見て、別の心配をしたようだ。


「どうしたの。酔いが回ってるみたいだよ。顔が赤い」

「大丈夫! じゃあヴァン、その侍女……サーラとは以前からの仲じゃないの?」


 その問いかけの真意は分からなかったようで首を傾けて、彼は笑った。


「僕に友達がいないのは君が良く知っているでしょう」

「それは昔の話でしょう。それに親友ならイアンがいるじゃない」

「彼は別だよ。それに友達というより……。まあなんだ、懐かしいな。君が最初の友達になってくれた日。もう何年前だろう」


 ヴァンが思い起こしているのはきっと、彼が星の騎士セレスダになったばかりの頃のことだろう。月蝕の儀が終わった直後、二人がまだお互いを理解していなかった頃のこと……。

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