6 城内旅行

 最初に案内してもらったのは、城の地下だった。厨房の横にある小さな石段を下ると、湿度が高い場所に特有の空気がねっとり肌に纏わりつく感覚に包まれ、さらに下ると嗅ぎなれない臭いが鼻につく。


 呼吸が辛いほどの悪臭ではないが、心地よい香りでもない。何の臭いかと問えば、リュアンは最下部の壁面に取り付けられた燭台に手燭の火を移しつつ答える。


「塩水です。この辺りの土壌には塩分が多く、海水のような水が湧くのです。だから、首都では農業ができません。周辺に農村がないのは、これが原因です」


 リュアンは説明しつつ、足元に滾々と湧き出た水を指先で掬い、自らの口に運ぶ。それから肩を竦めた。


「舌が痺れるくらいの塩気ですよ。試してみますか」


 好奇心から一歩足を踏み出したエレナだが、黒岩騎士の一人に制止されて肩を落とす。よもや、この場で害されるとは思わなかったが、毒見が済んでいないものを口にするのは控えよということだろう。


 あからさまに警戒をされても気分を害した風もなく、リュアンは説明を続ける。


「塩の噴水というものをご存じですか。こちらを水源として城下の広場に流れ出て、波の神オウレアゆかりの聖水として民衆に親しまれている水です。聖水と言っても、仰々しいものではありません。この通り大量に湧き出るので、民はこれを汲み、自宅で煮詰めて食卓の塩にしているくらいです」


「それは面白いですね」


 思わず声を立てて笑うと、リュアンはしてやったりと口の端を上げる。


「冗談ではありませんよ。別の者にも聞いてみてください」


 エレナは笑いを引っ込め、気まずさを掻き消すように咳払いをした。


「これは失礼を。……それでは、真水はどうやって街に引いているのですか」

「良いご質問です。お見せしましょう」


 一行はリュアンに促され、来た道を戻る。やや湿った石段を下るときには、足を滑らせないよう壁面に手を添わせ、ゆっくりと歩を進めたものだが、上りとなれば、足取りは気楽だ。段数もさほど多いわけではない。普段から運動量が多いわけではないエレナでも、難なく厨房の横まで辿りつくことができた。


 だが、次に案内された螺旋状の階段を見上げれば、こちらは一筋縄にはいかなそうだ。一行は中庭の鮮やかな花々を横目に眺めつつ、外れの塔の足元に来ていた。


 風に塩分が乗るからか、やや錆色が目立つ鉄の錠を開き、塔の内部に足を踏み入れると、想像よりも小ぎれいな室内に安堵する。こういった施錠された古い塔の内部は、埃と黴と蜘蛛の巣で溢れ返っているというのが定石だろうが、ここは王宮内。当然のことながら、定期的に清掃が行き届いているらしかった。


「この塔を登りきると、首都の城壁の外まで見渡せるのです。我が国自慢の水道橋が見えますよ。上がりますか」


 右回りの螺旋階段を見上げれば、陽光が差し込むため、目がくらんで終点が直視できない。それでもかなりの段数があることは確かだ。気が滅入りかけたが、こんな冒険の機会は一生ないかもしれない。付き合わされる騎士たちが不憫でもあったが、エレナは顎を引いて、階段に足をかけた。


 道中は想像よりも苦難に溢れ、途中で脹脛ふくらはぎを攣る事件が起きたものの、なんとか天辺に辿り着き、光の中に踊り出た時には、苦痛の分だけ感動が増すようだった。


 エレナは感嘆の声を上げ、斜めに降り注ぐ陽光を仰ぎ、それから開放的な気分で両腕を伸ばした。ここ数日、日中はほとんど馬車の中に座っていたため、爽やかな風の心地よさは一入ひとしおだった。心なしか、聖都よりも気温が低いようだ。やはり、北の大山脈から吹き込む寒冷風の影響か。


 星の姫セレイリの様子を見守っていたリュアンは、しばらくしてから賓客を壁面に促す。エレナの肩ほどの高さまである石の壁は頑強で、体重をかけたくらいでは崩れる気配もない。それでも、気を張っている黒岩騎士に配慮して、リュアンはさりげなく、少し離れた場所から街を指さした。


「これが首都の全容です。赤レンガの街と呼ばれる理由がわかるでしょう。王宮の堀、街の堀と門を越えれば、そこは塩害のため草木のほとんど育たぬ砂地です」


 目を遣れば、砂地と言えども点々と木々が生い茂っている。確か、塩分濃度の高い土地でも水があれば育つ種類の灌木だったはずだ。


 そして灌木の間に大きく弧を描き、幾百本もの脚で屹立するのは巨大な石橋。その上を流れるのは、人でも物資でもなく、北の山脈から流れ出る雪解け水だ。夕暮れに向けて傾く日差しを受け、心なしか赤く染まる水道橋に、エレナは目を奪われる。南では、真水の地下水が豊富なので、このような設備を造る理由がない。北の民の知恵と根気の産物だ。


 感嘆の声を上げてから目を輝かせる星の姫セレイリを微笑ましく見守っていたリュアンだが、不意に遠く空と大地の境目を見遣った。それから空気の匂いをすん、と嗅いだようだった。


星の姫セレイリ、そろそろ夕立がありそうです」

「どうしてわかるのですか」


 驚いて目を向ければ、リュアンは小さく笑った。


「長年の勘です。私の天気予測は当たりますから、そろそろ室内に戻りましょう。晩餐の準備も必要でしょうし」


 リュアンの言葉に異論はない。短時間とはいえ、かなり楽しんだ。礼を言って、あの螺旋階段に戻ろうとし、ふと近くを見下ろすと、王宮の庭園に人の姿があるのが目に入った。少し目を凝らすと、若い男女のようだ。もう少しじっくり見て、思わずエレナは脚を止める。二つの影は睦まじく寄り添い合っているように見えた。視力には自信がある。二人とも、見慣れた姿だった。


「どうされましたか」


 何事かと、黒岩騎士の一人がエレナの視線を追おうとしたのを、慌てて身体で遮る。


「な、なんでもない。さあ、早く戻りましょう」


 怪訝そうに、なおも塔の下を覗こうとする騎士だが、エレナは手を振って彼らを追い立てた。どうしたのか、と聞かれても答えられない。エレナ自身が、理解できていないからだ。あの人影は、ヴァンと星の宮の侍女ではなかったか。でもどうして。エレナが知らなかっただけで、二人は親密な仲だったのだろうか。いや、そんな気配はなかったけれど。ならどうして、あんなに親密そうに。エレナの思考は、螺旋階段と同じくらいに、同じ場所をくるくる巡っていた。

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