4 北へ
事は、滞りなく進んだ。無事に
幸い、馬車の故障も街道の不調もなく、想定の最短日数で国境の町に入り、宿泊の後にいよいよ入国となる。オウレアス王国内、安全上の理由から王宮以外の町に滞在するつもりはないので、出立は早朝だ。入国日は日が昇りきる前に、寝ぼけ眼で馬車に乗り込んだ。
聖サシャ王国内を移動する際には、
通りには十年前の戦争の面影はなく、聖サシャ王国民と、オウレアス王国民の生活の様子には大きな差は見られなかった。もっとも、馬車を降りることのできないエレナは、ほんの小さな窓のカーテンの隙間からこっそり外を眺めるしかできなかったので、そのような印象を抱いたというだけかもしれないが。
「ねえヴァン、あとどのくらいで着くかしら」
窓枠に肘をつき、エレナと同じようにぼんやり外に目を遣っていた騎士は、意外そうな面持ちでこちらに目を向けた。どうやら、エレナは居眠りしているものと思っていたらしい。
「うーん、そうだね。思ったよりも早く着きそうだよ。もう国境を過ぎてからの旅程の半分以上は進んだはずだ」
教養の授業で地図を見て理解はしていたが、首都は国土内のかなり南方にあるようだ。オウレアス王国の北部は、人の開拓が及ばぬ、豪雪の山岳地帯であることが理由だ。山岳地帯を抜けると、星、波、岩の三神を信仰せず、聖なる剣とやらを神と
幼い頃、教育係のワーレンに聖なる剣とその民について質問したことがあった。御神体は黒曜石の如く漆黒の剣であり、全知全能の大神……三神を生み出した存在でもある大いなる神が人に授けた恩恵の一つなのだという。それは紛れもなく武器である。人の血を吸い込んだ剣は、次第に生物に干渉する力を得て、神性を宿したそうだ。
空も海も土も自然物であり、それらを司る神を信仰するエレナにとっては、剣という無機質な存在が神であるということに、不思議な感覚を覚えたものだ。
「少し早めに着いたら、晩餐前に城内を案内してもらえるかな」
外に出られないとしても、少しでも観光気分を味わいたいエレナである。ヴァンは苦笑して、頷いた。
「着いたら頼んでみるよ。向こうの近衛騎士は気のいい人が多かったから」
「そっか、この前会ってたのね」
以前は彼の行動のほとんどを見知っていたから、エレナの把握していないところで交友関係があるのは不思議な気分だった。その上、思い出したようにヴァンは言った。
「君が城内を見物するなら、少し側を外してもいいかな」
「え、何かあるの」
急な申し出に驚き、瞬きしながらヴァンの柔和な印象の眼を覗いた。
「うん。……ほら、オウレアスは僕の故郷でしょ。少し外に出たら何か思い出すかなって」
ヴァンの過去のことは、エレナはあまり知らない。それは、彼が口を開かないからではなく、彼自身にその記憶がないからだ。辛うじて残る断続的な記憶によれば、終戦後、オウレアスの国境付近の町で保護されて、そのまま騎士団の見習いとして迎え入れられたのだという。
エレナが王宮に半ば幽閉される中、城下に出られる立場にあるヴァンにやや嫉妬を抱かないでもないが、止めるのも心が狭い。
「そう、だね。いいわ。気を付けて行ってきて。晩餐までには帰ってね」
「感謝いたします、
ヴァンの言葉に曖昧に頷き、エレナは物思いに耽る。思えば、七年間共に過ごした
記憶がないヴァンを責めることなどしないが、彼は本当は何者で、どういう幼少期を過ごしたのだろうか。どんな両親から生まれ、どんな友人がいたのだろう。知るすべもないが、もしすべての記憶が蘇ったら。その時もヴァンはエレナの側にいることを望むだろうか。彼から故郷を奪った戦争の引き金となった、
「エレナ、どうしたの」
いつもの柔らかな声に呼ばれ、こちらに向けられた視線を辿り、眉間に皺が寄っていたことに気づく。そこを拳で軽く擦ってから、エレナは首を振った。
「なんでもない。それよりも帰国後のことだけど……」
意識して別の他愛もない話をする。なんだか妙な気分だ。家族ほどによく知っているはずの青年の姿が、一瞬だけただの顔見知りのように見えた。
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