第一幕 不穏の足音はゆっくりと

1 騎士の帰還

 子供の成長とは、なんと早いものだろう。それは単に身体の大きさのことだけではなく、鍛錬した技術の伸び方も、比例して速度を上げたようだった。以前はあれほどに苦痛だった神笛しんてきの演奏も、今や言葉を発するのと同じように、いとも自然にこなせる。


 もちろん、身体の成長とともに肺活量が増えたのも要因の一つだが、あのワーレン司祭にさえ先代の星の姫セレイリを越えると言わせることができたのは、毎日の努力の賜物だろう。


 時を経ても輝きを失わない銀色の神具に、薄紅に色づく唇が寄せられ、繊細な加減の吐息が筒を鳴らす。細く、形の良い指が旋律に合わせて上下し、練習室内は、軽やかな音楽に満たされた。


 軽く伏せた瞼を縁取る淡い色の睫毛が、緩急ある呼吸に合わせて細動し、開け放した窓から吹き込む風に優しくなびく亜麻色の髪は、陽光を受けて金糸の束のように煌めいた。


 聖なる星の姫セレイリ。星の宮に住まい、王宮の外には滅多に姿を見せないが、一目彼女を見たものは、口を揃えてその神々しい姿を女神の化身と褒めたたえるのだ。


 それでも、毎日顔を合わせていれば次第に慣れゆくもの。加えて、巫女というよりは王女然としたやや気の強い性格を知る側近は、彼女を女神と表現することはなく、もっぱら「姫様」扱いをするのだった。全く間違ってはいないのだけれど。


 エレナは一曲奏で終えると一息吐いてから、神笛をピアノの上に無造作に置き、身体ごと振り向く。


 黄金色の視線を受け止め、いつからそこにいたのか、旅装姿の騎士が柔らかく微笑んだ。


「姫様の神笛は相変らずお美しい。ですが神具をそのように扱っては、また司祭に叱られますよ」

「やめてよ、ヴァン」


 わざと仰々しく言われたことが分かったので、エレナは少し拗ねた口調で返してみたが、数週間ぶりの星の騎士セレスダの姿に、自然と頬がほころぶ。


「お帰りなさい。オウレアスはどうだった?」

「首都はだいぶ落ち着いているみたいだよ。あの様子なら、来月の式典も問題なさそうだ」


 気軽に言って、こちらに歩み寄る。


「それでも用心に越したことはないし、終戦十年の節目だから、反体制派が何かしでかす可能性もなくはない。これから数か月はあんまり奔放にしないでね」

「大丈夫よ。私には優秀な騎士がいるんだから」


 とばっちりを受けることになる当のは、肩を竦めてそれには応えず、感慨深そうに銀の笛を眺めた。


「それにしても、久しぶりに聴いてもやっぱり上達したね。最初に聴いた時は、笛がかわいそうなくらいだったけど」

「それはあなたも同じ。斬るためではなくただ相手を殴るだけの鈍器にされていた剣がかわいそうだったもの」


 思わぬ反論を受けて一瞬言葉に詰まったヴァンと視線が絡み、それからほとんど同時に笑い声が上がる。


「あれからもう七年も経つと思うと、不思議な気分。さっきまで、あなたと初めて会った時のことを思い出してたの」

「僕もだよ。また儀式の年が来るんだと思うと、自然に思い出すよね。……君のがちがちに緊張した月食の儀の演奏とか」

「それは思い出さなくていいわ。記憶から消して!」


 頬を紅潮させて叫ばれたヴァンはしかし、おかしそうに笑い声を上げている。幼少期より星の騎士セレスダとして四六時中ともに過ごしてきたヴァンにかかれば、姫様の扱いなど文字通り「昼飯前」だったようだ。


 エレナは頬を軽く膨らませながら、騎士の旅装を観察する。汚れが目立たぬよう、暗い色合いの布を用いた旅装には、外で叩いてきたとはいえ、土埃の跡が残っている。聖サシャの聖都から、北方オウレアスの首都までは、馬を駆り片道七日はかかる。それだけの移動をこなしてきたばかりだというのに、休みもせずエレナの前に馳せ参じた騎士に、少し申し訳なくなる。


「まあいいわ。疲れたでしょう。今日は他の人に護衛を頼んであるから、あなたはゆっくり休んで」

「お心遣いありがとうございます、星の姫セレイリ。でも、昼ご飯を食べたらまた来るよ。陛下が今宵は晩餐を共に取られるとのことだったから」

「陛下が? でも、今日戻ったばかりなのよ。ヴァンだって休まないと」


 この場合の陛下とは、無論この王宮の主、岩の王サレアスだ。王宮の敷地内に星の宮があるため、以前から定期的に王族との交流がある。


「今日は優しいんだね」

「もう、茶化さないで」


 呆れて溜息を吐くが、柔らかな笑顔で軽口を叩けるくらいには元気があるようなので、心配には及ばないだろう。昔から、その細身のどこにそんな体力があるのだろうかと首を捻りたくなるほど、ヴァンは身体が強かった。軽くでも風邪を引いたのなんて、一度や二度しか見たことがない。対してエレナは年に一度はひどい熱にうなされるのだが。


「では、晩餐までは下がって休んで。また夕方に会いましょう」


 さすがのヴァンも特に反論はせず、主君に一礼をして、部屋を辞した。翌月に控えた成人の儀から続く日蝕の儀のための、属国オウレアス巡視にて離れていた数週間。思えばこんなに顔を合せなかったことは一度もなかったけれど、何一つ変わらない騎士の姿に安堵を覚えた。

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