2 出会いの日②

 抵抗しても無駄なのでされるがままになり、汗と汚れを落としてもらってから、エレナは今度こそ、教育係も務めるワーレン司祭の前に座らされ、説教を受けることとなってしまう。


「いいですか、星の姫セレイリ。月蝕の儀まであとひと月もないのですよ。国中の民が儀式でのあなたの神笛しんてきを心待ちにしているんです。これは歴代の星の姫セレイリが脈々と受け継いできた、神聖なる儀式なのです」


 あなたには自覚も覚悟もない云々と、熱い声音で語るワーレン司祭の声はしかし、エレナの耳を右から左に流れていく。子供に自覚と覚悟を求めるなんて、おかしいではないか。


「聞いていますか?」

「……うん」

「まったく。あなたがこんな様子では、騎士団の面々が哀れだ」


 不意のぼやきに、エレナの身体が反応した。


「騎士団」


 その言葉に反応があるとは思っていなかったようで、ワーレンは意外そうにしながらも、長話をするよりも笛の練習をさせたいらしく、やや苛立った様子で首を振った。無理もない。もう月蝕の儀まで日がないのだ。エレナだって、大衆の面前で大恥をさらしたいわけではないけれど。


「ええ、騎士団です。彼らの忠誠と努力に報いるためにも、きちんと星の笛を奏でられるようになってもらいませんと。彼らが命を捧げる星の姫セレイリには、神聖さが求められますから」


 わかったらさあ練習、とワーレンは譜面台を指揮棒で叩き、拍子を刻む。その音に合わせ、仕方なく音階を奏でるが、途中で調子はずれな音が出てしまえば、やる気もなくなるというものだ。


「恥ずかしいですよ。先代星の姫セレイリの神笛はそれはもう素晴らしかったのに……」

「司祭」


 失言を小さくとがめる侍女の声も空しく、ワーレンの言葉はエレナの幼い心に鋭く突き刺さった。ワーレンが己の失言に気づいたときにはすでに遅く、エレナはせっかく構えていた横笛を膝に下ろしていた。


「知らないもん。お母さんに会ったことなんてないし」

「……私としたことが」


 ワーレンが慌てて手を揉むが、エレナのもともと僅かしかなかった練習意欲は、急速にしぼんでいった。エレナには母がいないどころか、父親が誰なのかも周囲の大人は教えてくれないものだから、時々この世界で独りぼっちの気分になることがある。乳母や侍女や、神殿の聖職者たちがいるとはいえ、そういった事情があり、幼いエレナに母親の話をするのは、暗黙の了解で控えられていた。


 母は亡くなった時、二十代の前半だったという。今のエレナからすれば大人に感じられるが、世間一般で見れば若くしてこの世を去っている。にもかかわらず、母がこの王宮に出入りする人々から敬愛されていたことを感じる度、反発だけでなく、言い様のない虚無感を抱くのだ。


「エレナ様。少しお散歩でもしましょうか?」


 侍女であり乳母であるメリッサが、慈愛に満ちた声で呼ぶ。その声は、本当の母のように優しかったが、今のエレナには、届かなかった。それでも、気分は乗らないが、練習しないと後々後悔するのは自分であると、幼いエレナも理解はしていた。エレナは小さく首を横に振る。


「ううん。大丈夫。練習する」


 負い目があるからか、ほんの少しだけ今日は優しい指導だった。


 エレナが逃げ出したせいで練習時間はほとんど残されておらず、昼前には早々に終了し、軽く昼食をとり、午後の選抜のため侍女に身支度を整えてもらう。すべての予定が、秘密基地で過ごした時間分後ろ倒しになっていたようだ。そのまま慌ただしく、王宮敷地内の騎士団本部へと向かい、砂地にしつらえられた場違いに華奢な椅子に腰掛けてやっと、小さく息を吐くことができた。


 眼前には強面こわもての騎士団幹部と、選抜に参加する少年たち。数名、少女もいるようだった。彼ら彼女らは一様に膝を突き、こちらに頭を垂れていた。


 聖サシャ王国の武門から順当に叙任されたという騎士団長が口上を述べ、司祭がそれに応じる形式的なやりとりを右から左に聞き流しつつ、エレナはヴァン少年を探した。薄闇の中でしか姿を見ていないので、何人か似た印象の候補は見つけたが、特定には至らない。声が聞ければわかりそうなのだが。


 と、不意に横にいたワーレン司祭がこほんと咳払いしたので、意識をこちらに引き戻す。エレナの出番のようだ。慌てて立ち上がる。場に不釣り合いな純白の長衣の裾が、ひらりと翻った。眼下の騎士を見回し、余所行きの微笑みを顔に張り付けた。


星の女神セレイアの御名において、祝福を与えます。秩序、契約、公平。神のご加護がありますように」


 八歳にして、すでに何百回として唱えた祝福の文言を受け、騎士団員が深く一礼し、砂がすれる音が響いた。それが、選抜開始の合図だった。


 選抜は、人数が多いため予選から始まる。予選は、同時に複数の試合が行われているようだ。星の姫セレイリはその間、司祭や団長と共に、試合間を練り歩き、星の騎士セレスダ候補を値踏みする風習らしい。何人かの有望株を紹介され、何度かの試合を見学したが、誰を選べばいいかなど、検討もつかなかった。


 刃をつぶしてあるとはいえ、獲物は長剣。当たり所が悪ければ、命を落とす者もいるという。この選抜は、公には星の騎士セレスダを選ぶ試合だが、上位数名に残った者は、エレナに選ばれなくとも、騎士団幹部候補になれるため、少年たちは負傷することすらいとわず、剣を握っていた。


 不意に大きな歓声が上がる。賑やかさに惹かれ、足を止めれば、十三、四歳と見える少年が彼と同年代と見える大柄な少年を打ち負かしたところだった。


 大柄な少年は膝を突き、取り落とした剣を拾い、勝者を仰ぎ見る。


「さすがはイアン。初戦で優勝候補の君と当たってしまうなんて、運がなかった」


 イアンと呼ばれた少年は紳士的に微笑んで、敗者に手を伸ばす。手を取って立ち上がるのを助けてから、肩を叩いた。友人同士なのだろうか。周囲を囲む少年たちも、険悪な空気はない。選抜というと軋轢あつれきの避けられないものと思い込んでいたエレナの目には、とても興味深く映った。


 その中でもイアンは中心的立場らしく、はたから見ても、彼が一目置かれているのが分かる。純粋に剣技が優れているからという面もあるのかもしれないが、陽光に煌めく銀髪と、すらりと伸びて程よく筋肉のついた体躯たいくを見れば、世の乙女たちが憧れる若騎士の卵そのものだ。見目麗しい人物はそこにいるだけで、月が重力を持つように周囲を引き付けるのだろう。


星の姫セレイリ、彼がお気に召しましたかな?」

「ううん、そういうわけでは……」


 騎士団長の言葉に、ぼんやりと見とれていたことに気づき、頬に血が上る。小恥ずかしくてすぐに立ち去りたかったのだが、当のイアンが星の姫セレイリに気づいたらしく、こちらに向かってきた。


 思わず一歩引いてしまったエレナに、程よい距離を保ち、美しい少年騎士は軽く一礼する。


「これは、星の姫セレイリ。イアン・マクレガーと申します。このような場所にお立ち寄りくださり、光栄です」


 輝くような笑顔に、少しときめいてしまう。

エレナが彼に言葉を返そうとした時だった。今度は先ほどとは真逆の、罵声に近い声が上がる。エレナの左後方へやや行った場所で、イアン達より幼い少年が、試合を行っていた。


「ああ、彼か」


 イアンが少し冷たくも聞こえる声を漏らしたので、エレナは問う。


「有名なの?」

「ある意味では。ご覧になっていればすぐにわかるはずです」


 その言葉は本当だった。二人の少年が剣を交えているが、とても一方的な試合だ。


 一般に「一方的な試合」と言えば、強者が弱者を圧倒するものを想像するだろうが、これは斜め上を行く。弱者が強者を圧倒しているのだ。


 ともに取り立てて特徴のない少年に見えるのだが、一方が絶え間なく繰り出す剣技を、一方が華麗に受け流す。攻撃側は次第に疲弊し、玉のような汗が砂地に染み込んでいたが、剣を受ける少年の表情は何一つ変わらないようだった。そしておかしなことに、涼しい顔をした方の少年はほとんど剣を打ち込んでいなかった。


 どういうことかと視線で問えば、イアンは軽く肩を竦める。試合は、時間切れを試す流れになっていた。エレナには細かな規則は分かりかねたが、決定的な一打がない場合は、判定によって勝敗が決まることになるのだということくらいは理解していた。


 案の定、そのまま試合は終わり、汗を流した少年は砂地に膝を突いてうずくまり、涼し気な様子の少年は困ったような表情を浮かべたまま、敗者に手を伸ばす。砂まみれの少年は、差し出された手に一瞬忌々いまいまし気に顔をしかめたが、素直に手を取り、立ち上がった。そのまま、一言も交わさず形式通りに礼をして、背を向けた。イアンの時とは違い、後味の悪い試合だ。


「あれは何なの」

「私にも理解できませんが……。彼はいつも本気を出さないのです。手を抜くことは、敗者への冒涜です」


 イアンの言う通りだ。星の騎士セレスダの選抜で、このような無礼は、許されるべきではない。エレナの足は自然と、敗者の背中をぼんやりと眺めている少年の方へ向かっていた。


「ねえ、あなた」


 呼ばれ、はじかれたような仕草で少年はこちらを振り向いた。生まれつき少し目尻の下がった眼が、驚きに見開かれている。埋め込まれた瞳の色は、淡い茶色。彼の髪より一段明るい色合いだ。


「あなた、名前は?」


 星の姫セレイリに声を掛けられるという光栄に、驚きで声が出ないのだろうか。押し黙ったままの少年に苛立ちを覚え、名前を聞くことは諦めて詰問する。


「なぜ戦わないの。相手にも失礼だわ」


 仁王立ちした星の姫セレイリに詰め寄られ、少年は一歩後ずさった。怯えた、というよりは駄々っ子の我がままに困惑するような様子だった。じっと見据えてやれば、少年はやっと微かに唇を開く。


「僕は……」

星の姫セレイリ。そろそろお時間です」


 間が悪く口を挟んだのは、選抜に参加している見習いではなく、年かさの正規の騎士だ。騎士団長が部下に頷くと、金属のこすれる音が砂風に乗った。


「一旦戻りましょう。お疲れでしょうから決勝まで、お休みになられては」

「わかった。……そこの彼の試合からは、制限時間を外してください」


 星の姫セレイリの騎士の選抜だから、彼女の言葉は重きを持って取り扱われた。この一言が、大会の結末を狂わせたのは、言うまでもない。

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