簒奪王と星の姫

１ 出会いの日①

「エレナ様、どこにいらっしゃるんですかあ！」

　遠くで呼ぶ侍女の声を聞き流しつつ、エレナは地下水道の脇の茂みに隠された小さなくぼみに身体を押し込んだ。湿度が高く、むき出しの岩壁からは地下水が滴り、エレナの明るい亜麻色の髪を濡らす。

　この場所は、幼いエレナの秘密基地だった。久しぶりに来てみたから勝手を忘れてしまったのか、それとも育ちざかりの幼子の身体は数日で大きくなったのか、以前より押し込むのに難儀した。

　四つん這いになり、奥へと進む。侍女の声は遠くに反響していた。

　エレナが星の姫（セレイリ）としてこの王宮の端で暮らすようになったのは、生まれて数日もしない頃だったそうだ。

　星の女神（セレイア）の力を受け継ぐ高貴な姫。その役割を担うのは、前任者が命を終えたのと同時期に生まれた、星の色の瞳を持つ女児だという。本来星の姫（セレイリ）は世襲ではないのだが、エレナの場合、母親である前任者が難産で命を落としたため、必然的にその役目は娘に受け継がれたのだった。普通は星の姫（セレイリ）が子を産むことなどないのだと知るのは、もう少し大人になってからだけれども。

　ともかく、生まれてからこの八年をこの王宮で過ごしたのだから、秘密基地の一つや二つ、簡単にこしらえることができる。整然と美しい王宮内であっても、子供の目には冒険しがいのある遊び場だった。

「エレナ様ぁ。もう、どこへ行かれたのかしら」

　ため息交じりの声が近づいては遠ざかり、どこかに消えてしばらくして、エレナは息を吐いた。子供だって一人になりたいときはあるのだ。エレナ以外誰も知るはずがないこの場所で、誰の目にも晒されず、ただ一人の子供でいられる時間は、とても幸福だった。

　苦手な器楽の練習から抜け出したエレナは、祭具である由緒正しい横笛を無造作に地面に置き、この日も一人で昼寝でもしようと思い、ひとまず体を伸ばそうと両腕を上げ。

「痛っ！」

　エレナの拳が、岩壁にしては柔らかなものを叩き、次いで聞こえた人の声に、飛び上がりかけた。薄闇の中目を凝らせば、さして広くもないくぼみの最奥に、子供の影があった。

「あなた、誰？」

　自分だけの秘密基地に侵入者がいることに不満を隠さず誰何すると、子供は鼻をすするだけで答えない。どうやら、泣いているらしい。

「ごめんなさい。そんなに痛かった？」

　故意ではないとはいえ、人に暴力をふるった挙句、泣かせてしまうだなんてと、少し慌てたのだが、相手はもう一度鼻水を吸い、首を横に振ったらしかった。

「ううん。違うんだ。君のせいじゃないから、気にしないで」

　声の感じからして、エレナより少し年上の少年のようだ。自分のせいではないと知り、慌てたのが決まり悪くなる。

「じゃあどうして泣いているのよ、男の子でしょ。それにここは私の秘密基地なのに」

　年の割に大人びている……より率直な表現をすれば、ませている、と言われることの多いエレナだ。暗がりの中、お姉さんじみた口調で言われれば、少年はまさか目の前にいるのが自分より小さな少女だとは思わなかったようだ。恥ずかしがる素振りを見せたものの、泣くのはやめなかった。

「……訓練が、辛いんだ」

「訓練？」

「そう。僕、騎士団の見習い生なんだ」

　ああ、と納得する。先の隣国との大戦により孤児となった子らを引き取り、騎士見習いや針子やその他もろもろの労働者候補として育てることになったと侍女が噂をしているのを聞いたことがあった。注意して聞けば、この少年の発音には、北方オウレアスの訛りが微かにあった。

　中には、戦う才能がない少年が、騎士団で見習いとして訓練を受けざるを得ないこともあるのだろう。

「何でそんなに辛いの？」

「……痛いから」

　物心ついた頃から、騎士団のおじさんたちが護衛として身辺を警護してくれていたので、彼らのことは身近に感じる。何名か、強面の騎士を思い浮かべ、しごきが辛くて泣きたくなる時だってあるだろうなと一人納得した。

「まあ、怪我するのはいやよね。でもそんなこと言ってたら騎士になれなくて、どこかに捨てられちゃうよ。それに、今日は騎士団の大事な催しの日でしょう？　早く戻らないと怒られちゃうんじゃない」

　本日は、昼過ぎから星の騎士（セレスダ）の選抜がある。星の姫（セレイリ）は任期最初の月蝕までに、騎士を選び、一生の主従契約を結ぶ風習があった。もちろんエレナも笛の練習の後に臨席する予定だ。　

　訓練が辛くて泣いている彼が、選抜の対象となる上位に残ることはないだろうが、孤児には行き場がないのだ。平民の出ならば、ずば抜けた才能と、権力者に見初められるほどの器量か頭脳。ついでに果てしないしない運の良さがなければ、出世をすることは難しいだろう。それでも、騎士団の末席に居座り続けることができれば、食べるのに困らない程度の暮らしはできるはずだった。

　暗がりの中でも、少年が肩を落としたのが分かった。しょんぼりしている少年に、気分が狂う。

　しばらく沈黙のとばりに包まれたが、不意に少年が口を開いた。

「君は？」

「ん？」

「君はなぜここに？　侍女見習いとか？」

　ここ、というのはどうやらこの洞穴のことではなく、なぜ王宮にいるのか、という問いのようだ。正直に星の姫（セレイリ）だと言うのも面倒で、エレナは曖昧な返事をする。

「うん。そんなところ」

　少年はふうん、とつぶやいた後、地べたに横たえられた金属の塊を指さした。

「これは？」

　エレナは回答に窮する。侍女見習いが、精緻な文様の刻まれた見るからに高価そうな笛を土まみれにしているのは妙だったからだ。こんな洞穴の中で、盗んだと思われても仕方ない状態だと思い当たり、エレナは少し慌てる。

「あ、これは私の」

「君の？」

「練習しないといけないんだけど、苦手なの。少し吹くだけで、クラクラしちゃうんだもの」

　エレナの心配などよそに、少年には一寸の疑いもない様子だった。暗がりでよく見えないのだが、白目がきらきらしていた。

「へえ、そうなんだ。ちょっとだけ吹いてよ」

「私、これが苦手って言ったの聞いてた？」

「聞いていたけど、少しくらいいいじゃないか。僕、本当は騎士よりも音楽家になりたいって思うことあるんだ」

　無邪気な調子で言われれば、これ以上拒否するのもしのびなく、エレナは大人びた溜息を吐いた。

「仕方ないなあ」

　ふう、と吹き口に息を吹きかけ、砂を落としてから横向きに笛を構え、指を所定の位置に添える。大きく口を開き、腹いっぱいに息を吸い込み、下っ腹に力を入れて。先生に習った通りに段階を踏んでから、唇から鋭く息を吐く。

　ぷぴ、っと調子はずれな音の後に、辛うじて音階と呼べる程度の音を奏でてみてから、エレナは眩暈に襲われて笛を下ろした。一息吐いてから、顔を上げて少年に言う。

「ほら、へたくそでしょ」

「うん、上手くはないね。でも練習したら変わるかもよ？」

「練習が嫌なの」

「何がそんなに辛いの」

「だって苦しいんだもん」

　へえ、と返事をした少年の横顔が少し笑っているように見えた。

「じゃあ、僕と一緒だね」

　そう言われ、先ほどまで優位な立場だったエレナは、少年にしてやられたことに気づく。少年は騎士の修練が嫌いだし、エレナは星の姫（セレイリ）の祭具を奏でるのが嫌だった。無意識に、エレナの頬にも笑みが浮かぶ。

「本当。文句ばっかり言ってても仕方ないし、お互い頑張るしかないね」

　薄暗がりの中で、少年が頷くのが分かった。微笑みに弧を描く眼の中には、色味までは分からないが、淡くも濃くもない色合いの虹彩。相手から見て、エレナの金の瞳は薄闇にどう映っているのだろうか。

　生まれのせいで、いわゆる「普通の人」の暮らしができないのは、彼もエレナも同じだった。だが、エレナが高貴な身分として生きる一方、おそらく彼は敗戦国の孤児か何かとして、表向きは保護されつつも、陰では蔑まれているのだろう。

　エレナが星の姫（セレイリ）だと知っていたら、彼が一欠片の嫉妬もなく同じように接してくれたのだろうかと考えると、心が冷たくなった。これまで、同世代の少年と気兼ねなく話す機会などなかったものだから、微かに芽生えた友好的な気持ちを少しでも温めたいと思った。

「じゃあ約束。お互いに自分のやるべきことを精一杯頑張るって」

　エレナはふと思いつき、小指を立てる。少年は指先を眺めたまま、動かない。北には、約束の印に小指同士を絡める風習があると聞いていたが、何か間違えただろうか。心配になったエレナは、つい、と指を前に押し出す。彼はやっと腕を上げ、おずおずと絡めた。エレナは加減が分からないまま、軽く上下に振る。

「ここの人は、北の風習は嫌がるけど」

「べつに気にしない。あなたと私、なんか似てる気がするし」

　生まれに縛られる日々のことを言ってみたのだが、エレナの正体を知らない少年には察する術もない。

　説明もせず、ぼんやりと小指を眺める。訓練が嫌だと言い、大事な選抜前に洞窟に籠る、やる気を微塵も感じ取れない少年ではあるが、小指一本でもわかるほど、固く肉刺のつぶれた手だった。課せられた責務はきちんと果たさなければいけないと、単純ながら励まされる。

　妙な間が空いたところで丁度よく、エレナの耳は敏感に、彼女の名を呼ぶ侍女の声をとらえた。今更ながら、こんなところで笛を吹いたなら、居場所を主張しているようなものだったと気づく。

　名残惜しい気持ちはあったものの、エレナは急いで腰を上げる。少年は驚いてこちらを見た。

「どうしたの」

「ごめん、もう行かなきゃ」

「え？　あ、待って。僕はヴァン。君は……」

「ごめん、またね！」

　どのみち少年に名乗るべき名前はなかった。申し訳なく思いながらも一方的に言って、エレナは狭い入り口に身体を押しつけ、勢いよく藪から転がり出る。と、少し離れたところに侍女の姿があった。

　いけない、と身を隠そうとしたが、目ざとくこちらに目を向けた侍女により、少し逃げた先で捕獲をされてしまった。

　土埃にまみれた星の姫（セレイリ）と国宝級の祭具を見て頭を抱えてから、侍女はエレナを担いで居住区画である星の宮に連れ帰り、薔薇の花弁の浮いた浴槽で湯あみさせたのだった。