朝の匂い、夜の色
韮崎半
第1話 みずのこ
私のセフレの恋人が
いつもなら私が乗るはずの
最寄り駅から午前7時36分発の電車が、新宿駅を通り過ぎるころに
代々木駅からホームに飛び込んで自殺した。
だけど私はその日、
会社に退職願を出すこともしないまま退職することを決め
無断欠勤をしているところだった。
なんてことはない。
いつもより早く目が覚めてしまったせいで
いつもより早く家を出て
うっかり会社とは反対方向の電車に乗ってしまっただけのことだ。
人身事故のせいで、代々木から新宿に戻り
地下鉄に乗り換えるための移動をしている最中だという私のセフレから連絡があり
「朝から人身事故とか最悪。しかも代々木。
どうせなら新宿にしといてくれれば振替乗車も楽だったのに、いい迷惑だよ。
死ぬなら人に迷惑かけねえで死ねよな。本当に。」と言ってきたが
もはやそれが日本語として理解できなかった私は
井之頭公園でぬるくなったビールを飲み切れずに持て余していた。
井之頭公園でボートを漕いでいる親子やら恋人たちやらを眺めながら
彼らが浮かぶこのボートの下には、
酔っ払いやら何やら
少し頭のおかしくなった人たちが投げ入れた大量の自転車が沈んでいて
何年かに一度、行われると、どこかのニュースで聞いた大掃除
(この池の水が抜かれ
それらが泥をかぶっている様があらわになった場面)を想像する。
ところで
人が池に自転車を投げ入れるとき
うっかりサドルがミシシッピアカミミガメや、鯉の頭にあたり
脳震盪をおこしたりしないのだろうか。
「2004年7月21日、酔っ払いが投げ入れたマウンテンバイクのサドルが
井之頭公園の池を住処とするミシシッピアカミミガメ(推定25歳)の頭に直撃し
脳震盪を起こし、そのまま池に浮かんでいるところを、
同公園の清掃員に発見されました。
酔っ払いは三鷹市在住の無職の男とみられており
(以下略)」
だいたいどこの夕方のニュースで放送しても
だれもがふうんと声を漏らすこともなく終わる種類のものでしかないが
私の想像の中のアナウンサーが
あまりに完璧な抑揚でその記事を読み上げたので
私はとても満足し、井之頭公園を後にする。
JRの改札手前で、
電車が止まっている事を思い出し、踵を返すと
スーツを着た、中肉中背の男性とぶつかった。
男性は首だけを動かすように振り返り、私の顔を確かめると
「チッ」と短い舌打ちをした。
名前も知らない誰かにも
その人なりの生活がある。
その人が営んできた小さな世界と
そこにまつわる人間たち。
そしてそれに伴う感情や記憶がある。
そこに自分が含まれていないと言うだけで、こんなにも変わるのだ。
命の重さや軽ささえも。
※※※ ※※※ ※※※
だらだら歩き、高円寺のアパートについた私は
パンプスをゴミ箱に投げ入れ
かつてお湯だった液体が水に変わったままのバスタブにとびこむ。
体中の皮膚が一瞬でぶつぶつと鳥肌を広げていくのが見え
これにも私は満足する。
たたき胡瓜、茄子の揚げびたし、冷ややっこ、谷中しょうが、ビール。
たたき胡瓜、茄子の揚げびたし、冷ややっこ、谷中しょうが、ビール。
たたき胡瓜、茄子の揚げびたし、湯豆腐、谷中しょうが、ビール。
夕ご飯の予定を頭の中で繰り返しながらバスタブの水を抜き
熱いお湯で髪の毛を洗う。
たたき胡瓜、茄子の揚げびたし、湯豆腐、谷中しょうが、ビール。
たたき胡瓜、茄子の揚げびたし、湯豆腐、谷中しょうが、ビール。
たたき胡瓜、茄子の揚げびたし、冷ややっこ、谷中しょうが、ビール。
茄子の揚げびたしには、大根をめいいっぱいすりおろし、大葉を散らす。
めんつゆではなくて、あさひポン酢をたっぷりかけて
出来れば、しょうがもおろしたいけれど
同じ食卓の別のお皿の上には谷中しょうががあるわけで
結局それだって自己満足の話だ。
ふむ。
夕方の八百屋で谷中しょうがが一束150円が100円に値下がりすれば
ショウガを買っても問題ないか。
なるほど、
買い物リストにショウガも追加しなければ。と
ぶつぶつ独り言を言いながら濡れた髪の毛をタオルでくるむ。
北向きの小さな窓から、うっすらとした光が入り、
その頼りない明りの筋から外れた場所では
本を読むのも少し難しいこの部屋では
真夏の真昼間だろうと、
エアコンをきかせて昼寝につくことはとても簡単な事である。
携帯のアラームを19時にセットする。
仕事を辞めたら、一度でいいから1日に5時間以上寝てみたかったのだ。
埃臭い布団を頭までかぶる。
井の頭公園で飲んだ、過去の負の遺産のようなぬるいビールが
未だ舌に絡みついていて
ああ、せめて歯を磨けばよかったと思う頃には
けだるいねむけが獣のように私の足首を掴んでいた。
※※※ ※※※ ※※※
薄暗い部屋に、けたたましいアラームが鳴り響く。
今が何時なのか判断がつかずに、テーブルに置いた携帯電話を手に取ると
それはアラームではなく電話だった。
時刻は16時過ぎ。
私の夢はいつだって叶うことはない。
それが如何にささやかなことであっても。
仕事を辞めた日に5時間睡眠をとる。という
あたたかな春の日に
ぼけた目で憧れのサッカー少年を3階の教室の窓から眺めるような
そういった種類のささやかな夢を奪った携帯電話の着信の相手は
かつて。と、いいたくなる程記憶にもない、
ついさっきまでセフレだった気がする男だった。
私のささやかな夢を無残にも打ち砕いたことに対する怒り以前に
そもそも電話が嫌いだし
そもそもそんな男と今後も関わる気力もないため、出る必要がないと思うも
寝坊けていた頼りがいのない私の頭が私の指に命令する間に手違いが生じ
勝手にその電話をとってまった。
私はしかたがなく「もしもし」という準備をしようとしたが
それより先に男はしゃべりだした。
「今日の人身事故、誰だったと思う?」
そこまで聞いて、受話器を耳から離し、通話終了のボタンを押す。
「お前のせいだ」と泣き叫ぶ声を最後に、携帯電話は死んでしまったので
そのままジップロックに入れて、冷凍庫の中に入れた。
※※※ ※※※ ※※※
予定通り19時に八百屋に行き
茄子、胡瓜、谷中しょうがを買って帰った。
胡瓜と茄子を細かく刻み、そこに生米と水を入れて
窓の外にぶちまける。
いつだったか、彼女が言っていた。
大分県の、どこかの町では
餓鬼道に落ちた無縁仏は
喉が細く、お供え物が食べられないので
茄子と胡瓜を細かく刻み、水に浸したものを
くれてやる風習があるのだと。
谷中しょうがに味噌をつけかじりながら
ビールのプルをひく。
私が18歳の頃から、28歳の今日をすぎる間に
あてもなく、途方もない苦しさを終わらせるために、何人かの知人が死んだ。
私の親友だった彼女も
あてもなく、途方もない苦しさに囚われていた一人で、
そんな彼女は
かつて、家出当然で東京に出てきたものの
行く当てのなかった私に親切にしてくれた、唯一の友達だった。
私は、今日の朝までセフレだった男の彼女で、
自分の親友だった彼女のことを思い出し
彼女のためだけに泣いた。
夕焼けは、いつも通りの時刻に、がたがたに歪んだ高円寺の裏路地を染め
私の部屋の隅には、新しい暗闇が生まれ始めていた。
朝の匂い、夜の色 韮崎半 @nirasakinakaba
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