第十九話「真面目な子供」

 幼少期の須杭謙生は極めて真面目な子供だった。

 親や教師の言うことは素直に聞き、悪戯もせず、遊び盛りの子供とは思えないほど勉強を真面目にこなし、スポーツも不慣れながら努力していた。


 それは偏に両親の教育の賜物であると言える。スクイの親は常にスクイにこう言い聞かせていた。


「真面目に生きなさい」


 その言葉が常にスクイの生活方針であったとも言える。世の中は真面目に生きている人間が報われるようにできている。真面目に生きていれば報われるし、みんなからも喜ばれるのだ。


 スクイはその言葉を愚直にも信じていたし、実際真面目なことは良いことだと思っていた。悪いことをすれば罰を受けるし、迷惑をかければ人に嫌われる。真面目に生きるということは当然人にも優しくするし、努力は少なからず自分の幸福につながる。


 その結果スクイという人間は極めて真面目な幼少期を送った。決して明るく子どもらしくはなかったが、少なくとも良い子であることに疑いの余地はなかったろう。


 では、そんなスクイが教え通り幸せな生活を送っていたのかと言えば、それは大きく異なった。


 スクイへの教えとは正反対に、彼の両親は子供に真面目な養育を施しはしなかった。


 スクイの父親は暴力団の下っ端であった。とはいえ大した仕事があるわけではない。日頃何をしているかと言えば、使いっ走りをたまにさせられる以外は仕事もせず、飲む打つ遊ぶ、そして暴力を振るい大声で怒鳴った。


「お前がちゃんとしてねえからこうなるんだ!」


 これが父親の口癖だった。スクイがしっかりしていないから。そう言いながら彼はスクイや母親に手を上げ続けた。


 では母親はどうかと言うと、これも似たり寄ったりである。


 母親は宗教団体に心酔していた。若くして子供を持ち、DVの絶えない生活は彼女の心をいとも容易く破壊したのだ。

 心の支えと新興宗教にハマり、少ない持ち金を捧げる日々。家にいるとき彼女は家事もせず、常に高い金を叩いて買った安っぽい祭壇に祈りを捧げ続けていた。


 そしてそんな彼女はスクイにこう言い続けた。


「正しく生きることなの。正しく生きてさえいればみんな幸せになれるのよ」


 それは母親のはまった宗教が洗脳のために使った言葉であり、正しく神を信じることで幸せになれますよと言う胡散臭いものであったが、母親は常にスクイに正しさを説いた。


 そして彼女の趣味は海外の恵まれない子供達の番組を見るのが趣味だった。

 その番組を見ながら、いかに自分たちが恵まれ、幸せに生きているのかとスクイに語り続けた。


 父親の暴力に母親の育児放棄、2つの明確な不幸はしかし、スクイに同じ言葉を与えていた。

 それは正しく生きることであったことは言うまでもない。


 さて、では学校ではどうだったかと言うと、スクイは学校でもいじめに遭っていた。


 そもそもスクイはまともな格好ではなかった。ネグレクトもあり服は同じものを着ている日が多かったし、風呂に入れない日もあった。全身は痣だらけで、まともな食事をとっておらず幼少期のスクイは小柄で痩せ細っていた。


 スクイは勉強ができ運動もし、誰にでも分け隔てなく優しかった。親の教えの結果、皮肉にもスクイは親とは正反対の立派な子供であった。

 そしてそういった弱者こそが、社会では迫害を受けるものである。


「気持ち悪い」


 スクイはこの言葉を何度浴びせられたかわからなかった。その度にスクイは人並みに悲しんだが、頑張っていればそのうち仲良くなれるだろうと前向きに捉えていた。


 その後もスクイは努力を続けた。勉強や運動はもちろん、小学校高学年になると、スクイは現状を改善し始めた。


 服が同じだと笑われれば近所で捨てる服をもらい、風呂に入ってないならこっそり公園の水で洗った。

 文房具も教科書も、なんとか手に入るものである。スクイは見てくれを最低限改善すると、コミュニケーションを取り始めた。


 初めは吃り続けた。話しかけたことで却って罵倒されることも多かった。

 しかしスクイは学習した。人に受ける言葉、話し方、幸い参考材料は同じクラスの中にいくらでもいる。


 中学に上がる頃にはスクイのいじめは止んでいた。元々容姿はよかった。身だしなみを整え、会話を覚えれば、女子にも人気が出たし、そこにあやかるように男の中にもスクイと関わろうとする人間は現れた。


 報われた。スクイはそう思った。


 何せずっと苦痛の中にいたのだ。家でも学校でも行き場のない日々。人並みに努力する環境も与えられなかった。

 そもそもスクイは出来のいい子供ではなかった。授業を聞いてもついていけないことが多かったし、何度復習しても同じところで躓いた。


 対して努力もせずに幸せそうに生きている人たちを羨んだことがないとは決して言えなかった。中には悪さをして堂々と公言し愛されるものもいたし、規律である教師ですらそちらに甘かった。


 かえって真面目に生きてきたことが仇になるようなことの方が多かったように思える。しかしスクイは両親の教えを信じていたし、さらに言えば自分を特別不幸だとも思っていなかった。


 海の向こうでは自分より苦しい思いをしている子供達が頑張っているのだ。

 母親に言われ続け、見せられ続けた番組から、スクイは自分が音を上げるのは恵まれた環境に失礼だと教えられていた。


 かつて自分を罵った男の子たちも今は面白く、人気者のスクイと話したがって仕方がなかった。かつて自分を軽蔑した女の子たちの中には告白してくるものまでいた。


 遠巻きにしか見ようとしなかった教師も、今は模範生としてスクイを褒め称えた。まるで自分がフォローしたように、辛い中を乗り越えた生徒だと涙を流した。


 しかし、家庭環境は悪くなるばかりであった。父親はとっくに仕事をなくしており、いつ捕まってもおかしくはない犯罪に手を染めていた。

 母親の宗教への依存度は激しくなり、もはやスクイを見ることはなかった。


 もっとも、スクイはこの状況にも楽観的だったかもしれない。何せ世の中は頑張ればうまくいくのだ。正しい行いは人を救ってくれる。


 だからスクイはちゃんといつも通り正しく、行ってきますと言って学校へ行き、ただいまと言って家に戻り、おやすみなさいと言って寝て、おはようございますと言って起きた。


 そしてスクイは難関とされた地元の高校に学費免除で合格した。高校生活は望めないかもしれないと思っていたスクイであったが、学費がいらないのならば学校に行くことも許されるかもしれない。高校になればバイトもできる。大きな額は難しいが、お金があれば家庭環境も変わるだろう。


 そう思っていた。そしてスクイは。


 倒れた。見るまでもなく、過労だった。


 声が聞こえた。倒れたのは学校だったのだ。保健室で休むスクイは、罵声で目を覚ました。

 父親が学校に怒鳴り込んでいた。いや、呼ばれたのだろう。病院への搬送を話す教師に対して、不要だと譲らなかった。


「大丈夫ですよ」


 保健室内で暴力が行われる前に、スクイは声を上げた。


「大したことではありません。テスト勉強に根を詰めすぎて、睡眠が足りてなかったようです」


 帰ってゆっくりと休みます。そう話した。

 教師は父親を見て、おかしいことに気づいていたが、関わり合いになりたくなかったのだろう。それならとスクイを父親と一緒に帰した。

 保健室を出ると、様々な生徒がスクイを見た。


 一瞬であった。誰もがわかる。この父親を見ればスクイがまともな家庭でないことなど。

 父親はこちらを見る生徒にも怒鳴り散らし、挙句手を挙げそうにまでなった。なんとかスクイが場をとりなしたが、誰もスクイに感謝などしなかった。


 同じことだ。スクイは思った。あの目は昔と同じ目だ。中学になり、こういった人間に恐れを感じる者もいた。しかしそこには変わらぬ、侮蔑が篭っていた。


 家に帰るまで父親はスクイと会話をしなかった。家に帰ってもスクイに何かを言うこともなかった。

 スクイは返事もない父親に迎えにきてくれた感謝を述べ、ただ勉強を始めた。


 そして、父親の暴力が始まった。スクイが中学に入り体が大きくなると多少減ったものの、それでも父親は酔えば暴れた。

 しかし今は父親も酔っていない。スクイは反撃しなかった。父親を攻撃するのは正しくなかった。


 しかしこのときの父親はいつもと様子が違った。否、もう様子は変わっていたのかもしれない。ただ表に現れていなかっただけで、このときの父親は憂さ晴らしにスクイに暴力を振るったのではなかった。


 父親はスクイの首を絞めた。


「え……」


 スクイは困惑した。そして首を絞められ、息のできない現状に慌てる。

 どうなっているのかわからなかった。ただ明らかに正気を失った父親は止まることなくスクイの首を強く絞める。


「お前がいなけりゃ」


 ぶつぶつと理解できない言葉を吐く父親の目には、明らかに殺意が混じっていた。


 ゆっくり、呼吸ができなくなるスクイはその苦しさにもがいたが、元々過労の身、力で争うことはできなかった。


「たす……っ」


 そう呟き母親を見たが、母親は物音にこちらを見ただけで、ただ関わりないように祭壇に向きなおった。


「よかった」


 そんな母親の言葉を聞いた気もしたが、スクイにはそれを考える余裕もなかった。


 やがて意識もゆっくりと途切れていく。失いつつあるスクイの中で浮かんだのは絶望と、小さな安堵であった。

 安堵?スクイは疑問に思う。死に際であったが、なぜ自分は安堵、ホッとしているのだろう。


 しかし少し考えればわかることであった。先程までスクイは、もう学校に行きたくないと思っていたのだ。やっと築いた学校での地位も、信頼も、全てもうない。明日からは昔と変わらない苦痛の日々が返ってくるだろう。


 そして家庭環境ももう限界を迎えていた。スクイは学費免除で高校に受かったが、そんなことで両親が高校に通わせてくれると本気で思っていたのかと問われるとスクイは黙ったろう。

 ではなんのために小さな頃から真面目に勉強をやめなかったのか。スクイは嫌気がさしていたのだ。


 そしてスクイは疲れていた。毎日勉強をして、運動もした。学校の勉強で止まらず、スクイは学べる様々な知識を身につけたし、できる限り実践もした。難解な本を辞書を引きながら図書館で読み、参加できるあらゆるスポーツに手を出したし、武道も研究した。

 クラスの人間に悩みがあれば聞き、問題が発生すれば率先して解決した。

 休みとなればボランティアに参加し、人を助け、学校では関われない人々との交流も行った。


 努力は正しいことだった。スクイはそう思っていた。自分ほど正しい人間をよく考えれば見たことがあったろうか。いや、そんなこともどうでもよかった。


 惨めだった。生きているのが。目を逸らしていた事実にようやっと気づいたのだ。自分は報われてなどいない。どれだけ努力をしようと、どれだけ人に尽くそうと、誰も返してなどくれなかったし、見てくれもしなかった。


 精々見た目や能力に惹かれた人間が集まっただけで、スクイを助けてくれる者など1人もいなかったのだ。


 その点スクイより正しく生きなくても誰もがスクイより幸せに生きていた。見てきたはずである。悪さをして愛され、努力せずとも優雅に生活し、整えられた環境で健全に努力できる人間を。


 世は不平等だ。世は理不尽だ。

 初めてスクイはそう思い、正しく生きることがいかに無駄だったかを理解した。


 だから安堵した。死ねば関係ないのだ。

 死ねばもう誰も苦しめない。何もしなくていい。よかった。死にさえすれば初めて、みんな平等だ。


 そう、気づいた。そして途端に、湧き上がる感情があった。


 死は救いである。今まで生きることこそが正しいと思ってきた。

 しかし死にこそ正しさがある。否、死には正しさすらも存在しない。

 善も悪も死の前では平等なのだ。生は不平等に幸福も絶望も与えるが、死には何もない。


 なんということか。なんという素晴らしいことか。


 その感情が全身を巡る。


 ようやく理解した。全ては死によって救われるのだ。


 スクイは消えかかっていた自分の意識が戻るのを感じた。その理由はわからない。父親の絞め付けが弱まったのかもしれないし、大きな感情がスクイを目覚めさせたのかもしれない。


 ともかくスクイは思った。


「救ってあげないと」


 そう思い、目を開ける。目の前には変わらず、憤怒の形相の父親がいる。

 なんと醜いことか。やっとわかったのだ。いかに父親は哀れな存在か。仕事もつかず、能力も認められず、何もできないのに人には大声で怒鳴り、家庭では下の者相手に憂さ晴らしを行う。

 なんと哀れだろう。しかし死にとっては関係のないことなのだ。


 スクイは今度は冷静に、手を伸ばした。

 そして近くにあった。ナイフを手に持つと、いとも簡単に。


 父親の首に突き刺した。


 部屋中に溢れかえる父親の断末魔と、血液に目もくれず、スクイはゆっくりと立ち上がった。

 不思議と体に異常は感じない。むしろ健康になったかのように感じた。


 そしてゆっくりと母親に近づく。


「お母さんも救ってあげないとね」


 同じく、苦痛に蝕まれ、我が子を育てず、愛しもせず、むしろ死を願った母親をスクイは救った。

 抵抗はなかった。ともすれば心から、スクイに与えられる死を救いと感じていたのかもしれない。


 スクイは2人の死体をそっと近づけ、少しその間を見たが、何もすることはなくその場を立ち去った。

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