第10話 「ホテルに行かない?」

「さっきの話だけど、」

 助けて、助けてと心の中で叫び声を上げるが、通り過ぎる人は誰も目を合わせてくれない。

 冷たい風より、握られた手を通して悪寒が走ってきた。

「ホテルに行かない?」

「なに言ってるですか」

「他の男とは行ってるんでしょ?」

 突きつけられた事実に、否定はできなかった。

 寒いはずなのに、額にはじんわり汗が浮き出る。

 足の指に力を込め、アスファルトを強く押した。

「背の高い眼鏡をかけた男だよ。ホテルに入っていくところを見たんだ」

 実際に見ていなければ当てられない。まさに千秋の風貌そのままだ。

「離して下さい」

「行こう。実はもう予約してある」

 違和感の正体はこれだ。

 彼は優しさという鎧をまとっているが、あくまで皮だけだ。

 根は諦めが悪く、獲物を狙い離そうとしない。

 掴まれた腕が悲鳴を上げ、痛みで感覚が失いかけている。

 背後でトラックが急ブレーキをかけた。金切り声のような音に一瞬手が緩み、大地は腕をはねのけて一気に加速した。

 後ろからは名前を呼ぶ声がする。大げさではなく、捕まったら二度と生きて部屋に帰れない恐怖が襲ってきて、振り返ることすら恐ろしかった。

 曲がり角を曲がると大型デパートがあり、中へ駆け込んだ。

 早歩きで足を動かしながら端末を取り出すと、誰かからのメッセージが届いていた。怖くて開けず、通知を消して電話をかけた。

『もしもし?』

「千秋さん助けて。どうしよう。追いかけてくる」

『今どこだ? どうしてそんな状況になった?』

「う、うう……」

『泣くな落ち着け。今どこにいる?』

「デパートのトイレ……僕が会ったりしたからだ」

『会ったり……? まさかSNSで知り合った奴とか?』

「うん……」

 ずずっと鼻をすする。

『バカ。今すぐトイレから出ろ。個室に隠れるな』

「どこに行ったら……」

『人通りの多いところで待機しろ。一度切る』

 虚しい音が響き、大地はトイレの扉を開けた。

 誰もおらず、外からは子供の声がする。おもちゃを持って上機嫌に歌う子供に癒される日が来るとは微塵も思わなかった。

 千秋から電話がかかってきた。

『今から送る住所に行け。地図アプリに登録すれば場所が出る』

「どこ?」

『俺の知り合いだ。必ずお前を助けてくれる。デパートを出るときも、小道に入るなよ。それとSNSには悪い奴らがわんさかいる。気軽に会おうとするな』

「千秋さんはいいの?」

『俺は構わん。良い男だから』

「うわあ……」

『なんだその声』

 千秋はもう一度、人通りの多いところを歩けと念を押し、電話を切った。

 すぐに住所が送られてきて、言われた通りにアプリへ入力する。

「法律事務所……?」

 駅前のビルの二階に矢印が飛ぶ。現在地からひと駅だ。

 歩ける距離だが電車をなるべく使うべきだと判断した。

 隣の駅で降り、ビルのエレベーターにはひとりで乗る。

 ドアが開くと男性とすれ違い、大地は身体を縮こませた。

「アンタが染谷大地?」

「え、あ、はい」

「ようこそ」

 出迎えたのは、厳めしさと渋さを兼ね備えた男性だ。千秋も良い男だが、彼は甘いマスクがある。この男性は、自分にも回りにも厳しい雰囲気がある。

 だが笑うと印象はかなり変わる。やんちゃな少年といった、何か企みのある表情も見え隠れする。

「あの……染谷です」

「知ってる。『俺の大地』クンだろ? 面倒事なら全部話を聞いてる。こっちに来い」

「あなたは?」

「見ての通り、弁護士兼紅野千秋の友人ですよ」

「紅野? 千秋さんの名字?」

「知らなかったのか?」

「名前は、ちょっと前に聞きました」

「……聞かなかったことにしてくれ」

「それは無理です」

 千秋のことならなんでも知りたいのだ。忘れろと言われても無理な話だ。

 奥の個室へ案内され、ソファーに座るよう促される。

「紅茶でいいか? コーヒーもあるけど」

「どちらでも飲めます」

「苦いコーヒーは飲めないんじゃなかったのか?」

「前より飲めるようになりました……千秋さんからの情報ですか」

「そ」

 結局運ばれてきたのは温かな緑茶だ。

「千秋さんとはどんな関係なんですか?」

「幼なじみだよ。あいつが子供の頃から知ってる。遅れてあいつも弁護士になって、夢を叶えた。いろんなしがらみの中にいるけどな」

 バッジもつけていたし、薄々はそうじゃないかと思っていた。けれど実際に聞くと驚きもする。

「おおよその事情は聞いているが、詳しく話してくれ」

「一緒にカフェ行ったら、帰り際にホテルへ行こうって誘われて……怖くなって逃げました。奥さんいる人だし、何を考えているのか分からなくなって……」

「そりゃ怖いわな。千秋からも散々怒られるだろうが、むやみやたらにSNSを通して人と会うな。セクハラだの脅迫されただの、そういう相談が山のようにくるんだ」

「ごめんなさい」

「それと、配偶者や子供がいても男の欲は関係ない。理由にならん」

「……ごめんなさい」

 謝罪しかできない。悪いのは誰かは分かっている。

「これは弁護士としてのアドバイスだが、ブロックは絶対にするなよ」

「どうしてですか?」

「ああいう輩は逆上して、ちょっとした情報から家や学校を探るんだ。眼鏡に映った景色から家を割り出すなんて探偵でもしている。ストーカーはさらに執着心がある」

「もし連絡が来たら、どうしたらいいですか?」

「多分、謝ってくる。君もひとまず『逃げてしまってすみません』とだけ送ってくれ。また会おうと言われたら、試験があるだの、門限が厳しくなっただの、のらりくらり交わすんだ。返事はすぐにしなくていい。忙しいアピールのために、ちょっと遅れてすること。勉強していて気づかなかった、でいい」

「わりと千秋さんはすぐに返してくれます」

「あいつは俺のメールはすぐに返さない」

 笑ってしまった。緊張が解れたところで、彼は二杯目のお茶を入れてくれる。今度はコーヒーだ。ソーサーには砂糖つき。

「いろいろとありがとうございます。気持ちが落ち着いてきました」

「とりあえずあと一時間はここで時間を潰してくれ。帰りは送っていく」

「そんな、悪いです。ひとりで帰れます」

「アンタを預かってるんだ。帰すわけにはいかない。あと、これは俺からのお願いなんだが、」

 男性は揺れる黒い液体に視線を落とした。

「千秋をよろしく頼む。皮肉屋であまり弱みを口にするタイプじゃないんだ。何をやらせても不器用なタイプだし」

「不器用? 千秋さんは器用な人にしか見えませんけど……」

「見せかけだけだ。染谷君の前ではかっこつけてるだけで、実際はお子ちゃまだぞ。一緒に飯食いに行ってもあれが嫌い、あっちが良いばっかで、最後には俺が折れるんだ」

「そういう関係が羨ましく思います」

「きっとなれる。わがままで大変だけどな。じゃあそろそろ仕事に戻る。ここにいろよ」

 最後に保坂実だと名乗り、名刺を渡された。

 大切に鞄にしまい、送られてくるメールを見る。

──怖がらせちゃったね。

──本当にごめん。

──今どこにいる?

──会って話したい。

──仲直りしたい。

 自分で蒔いてしまった種であり、摘み取らなければならない問題だ。

 大地は震える指で画面に触れ、謝罪の言葉を並べていく。

 保坂から教えられたことをできるだけ忠実に、丁寧に。

──こっちこそごめんね。また会ってくれる?

──そのうち。

 拒絶はせず、曖昧に濁した。常にグレーとなるように細心な注意を払う。

──気持ちは本気だからね。好きだよ。

 これには返事をせず、気持ちは受け入れなかった。

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