第9話 「過去のことは絶対に口にするな」
「おい」
呼び止められて、足を止めた。
振り返ると、早川啓介がいる。
「なに?」
「ちょっといいか?」
返事も待たず、早川は歩き出した。
仕方なく後ろをついていくと、今度は回りから注目を浴びてしまう。
身長はそれほど高いわけではないが、はっきりした二重に続く鼻筋、ミスコン二位に選ばれる実力はある。
中庭につくと、早川はベンチへ座る。仕方なく、大地も距離を空けて隣へ座った。
「余計なことは言ってないだろうな」
「余計なこと?」
「一緒にいた男にもだよ」
「だから何のこと?」
「俺が……その……、」
「見た目が変わったこと?」
早川はかっと目を見開き、ベンチを蹴る。
そう、早川は変わりすぎた。内面だけではなく、風貌もだ。
クマのような体格だったのに、まるで別人だ。
ホストのような見た目をしている。
「いいか? 過去のことは絶対に口にするな。俺が相撲部だったのも、整形したこともだ」
「……自分勝手すぎる。ケイちゃんは僕が告ったこともばらしまくったのに?」
「あれは……仕方なかったんだ。聞いてたクラスメイトがからかってきたから、話すしかなかった。だいたい、学校で告るからあんなことになったんだぞ」
前言撤回。彼が変わったのは見た目だけだ。
良くも悪くも、彼は大地自身にないものを持ち合わせている。あの頃は彼に夢中だった。彼しか目に入らなかった。
恋を越えた先にあるものは、無なのかもしれない。
「言わないよ。多分」
「多分? ……モデルの仕事、してんだよ」
「そうなんだ」
「過去を二度とほじくり返されたくないんだ」
「ケイちゃんには嫌な思いをさせたけど、それは僕も同じだから。あの頃は戻りたくないし、先しか見たくない」
「そうかよ」
早川は舌打ちを残し、ベンチから腰を上げた。
残された大地はぼんやりと空を長め、近いのにどこか遠くにいる彼を思い出していた。
窓から見える風景は、関東にしては珍しい光景が広がっていた。
北海道にいれば飽きるほど降り注ぐ真っ白な自然現象に、外にいる大人たちは大はしゃぎだ。
雪国出身の大地はうんざりし、カーテンを閉めベッドに横たわる。
光る携帯端末は、最近ひんぱんに連絡を寄越すTこと達彦からだ。
一度カフェで会ってからは彼氏気取りで、個別のメールを利用してコンタクトを取ってくる。
──また会いたいな。
以前は千秋への気持ちが分からず、彼を利用して自分の本心を知ろうと彼と会ってしまった。負い目がある。強気に出られないのだ。
──そのうちでよければ。
──じゃあ今週の土曜日は?
はっきり断れない性格に、肩を落とすしかない。
──分かりました。
さまよう指は、胸中とは真逆の言葉で返してしまった。
「……会って話せば分かってもらえるかな」
次々に送られてくる写真は、どこかのカフェで撮ったケーキだ。
どれが食べたい、と疑問を投げかける彼に、どす黒いケーキを指した。真っ白なケーキを選ぶ気になれなかった。
千秋と付き合っているわけでもないのに、浮気したみたいに罪悪感が芽生え、彼の打った『土曜日、買い物』というメモ書きに返信も出来ずに閉じた。
土曜日になると降った雪は溶け、アスファルトは踏み荒らした跡にまみれ、お世辞にも銀色の世界とはいえなかった。
「こんにちは」
達彦だと振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。
ショルダーバックとラフな格好で、片手には携帯端末を持っている。
大地は一歩後ろに下がるが、男性も距離をつめてきた。
「突然すみません。早川啓介さんをご存じですか?」
「ケイちゃん……?」
「彼と友達ですよね? 幼なじみだって聞いたんですけど」
「あなたは誰ですか?」
「ああ、そうですよね」
愛想笑いを浮かべ、男性は有名な企業を名乗る。
週刊誌で有名な会社だ。
「彼、昔は相撲部だったって本当? 写真あるんだけど」
大きく引き延ばした紙を見せられたが、見覚えのある写真だ。
卒業アルバムにも載っていて、一枚は名前つきの正面を向いたもの、もう一つは修学旅行ではっちゃけたもの、最後は相撲部の稽古風景の写真だ。
「これ全部早川さんだよね?」
「……………………」
幼なじみということも掴まれているわけで、小出しにした以上の情報を持っているに違いない。
「すみません、僕からは何も答えられません」
「情報がほしいわけじゃないんです。幼なじみとして本当かどうか、はいかいいえがほしいだけで」
「それも含めて、言えません」
「大丈夫?」
大地の肩を掴んだのは、達彦だ。ヒーローのように現れ、大地の腕を引っ張る。
「この人は連れです。嫌がってるので、その辺にして頂けませんか?」
男性は会釈をし、物足りなそうな顔をしてその場を去っていく。
「ありがとうございました。家からつけられたみたいで、全然気づかなかったです」
「本当に? 警察に行こう。危険すぎる」
達彦は先ほどよりも強く腕を掴む。
優しさの欠片もない荒々しい掴み方に違和感を覚え、そっと腕を外した。
「ストーカーとかじゃないんで大丈夫です。雑誌の記者で……」
「何の用だったの?」
「学校のことで聞きたいことがあったみたいです。それより早くケーキ食べたいです」
無理やり話題を反らすと、達彦は不服そうに肩をすくめる。
よそよそしいままカフェに着く頃には、達彦はいつもの彼に戻っていた。
「チョコレートケーキでいいんだっけ?」
「はい」
ここへ来てモンブランが食べたくなったが、言い出せずにチョコレートケーキを注文する。
この前来たカフェよりも大人びていて、新築の空間は妙に落ち着かない。コーヒーとバターの香りが混じり合い、ケーキよりもショーウィンドウのマフィンに目がいく。
数分で運ばれてきたケーキは、写真で見るよりずっとこじんまりとしている。断面が三層になっていて、上には飾りのオレンジピールがある。下からスポンジ、チョコレートムース、ピスタチオのムースだ。
「あ、おいしい」
「ここに来るのは二回目なんだ。気に入ってもらえると嬉しい」
「お子さんとは来ないんですか?」
一瞬、会話に間ができる。
「来ないよ。まだ小さいしね。既婚者だと気になる?」
「どうして既婚者なのに、他の人と出かけたりできるんですか?」
「家庭とこういう遊びは別ものだからね」
「やっぱり遊びか……」
浮かぶのは千秋の顔だ。彼は妹がいると言うが、疑わしい。
「言い方が悪かった。遊びだとは思ってないよ。今日言おうと思ってたけど、本気で付き合わない?」
「奥さんがいるのに?」
「本当は男性が好きなんだ。妻のことは愛してる。これは嘘じゃない。けど自分の欲と家庭を大事にしようって気持ちは別物で、妻に対しては欲は生まれないんだよ。母親として見てるから」
「なんていうか……うまく言えないです」
小さなケーキはすぐに胃へ入ってしまった。手持ち無沙汰に、コーヒーカップを両手で持つ。
達彦も食べ終え、出ようと促した。
カフェの中と外では気温差が激しく、マフラーの隙間から一気に冷気が入ってくる。
「ひっ……」
寒かったからではない。変な声が出たのは、手を握られたからだ。
顔を上げると、彼は深刻な表情で見下ろしていた。
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