Ⅱ-Ex-Ⅱ イーブン・プロミス

約束のオランジェット

「優花さん、今日仕事じゃないの?」

 私の真上にある茂樹くんは私の顔を覗き込みながら言う。彼の脚に頭を載せたまま片手だけで昨日使っていた鞄の中からスマートフォンを探し出し、画面を点けた。

「あ……」

 目に飛び込んできたのは『2月9日 月曜日』という、私を容易に絶望させる二つの言葉が浮かんでいる。調子に乗ってお酒を飲んで後々大変なことになってしまうなんていつぶりのことだろう。

「え……仕事行きたくない……」

 私はのそのそと芋虫のように体をくねらせて布団に潜り込んだ。そうでもしないと茂樹くんに何をされるかわからないから。彼なら軽々と私をつまんで仕事場にぽいっと投げ込むことだってできるかもしれない。体を丸めて布団で覆い、隅を内に丸め込んで籠城しようとした私の防御を容易く破って「仕事はいかないとダメだよ」と言葉の降伏ビラを投げ込んでくる。私は数秒考えた末、これ以上の抵抗をしてもどうせ仕事には行かないといけないのだろうと判断して降伏を宣言した。


「朝ごはんどうする?」

 茂樹くんは立ち上がって風呂場に向かおうとした私の背中めがけて質問を投げてくる。私は「マーガリンたっぷり塗ったトースト!」とだけ言って風呂場に駆けこんだ。大急ぎで頭、顔、体を洗い、冷えた体温を上げる余裕もなくすぐに浴室から飛び出して化粧水と乳液だけを顔に染み込ませる。ダッシュで自室に入り、仕事用の服に着替えた。引っ越すにあたって泡で出るタイプのボディソープと洗顔料に変えておいて、ワイシャツの予備にノンアイロンのものを買いそろえておいて助かったな、と過去の私を褒め称えてやりたい気分になる。適当に身支度を済ませて茂樹くんが用意してくれていたトーストとスクランブルエッグを食べるべくダイニングテーブルの椅子に座った。

「いただきます」

 トーストの上にスクランブルエッグを載せ、上にケチャップをかけてかぶりつく。まさに『朝食』といったような味がして、何か食べるものを欲していた私の胃と満腹中枢は大喜びで栄養の吸収に奔走しだした。


 トーストを平らげ、床に置かれた社用鞄を取り上げて居住区の玄関に向かおうとしたとき、茂樹くんが「車で送ろうか?」と聞いてきたので、私は首を縦に振る。私の反応を見た彼は車の鍵と自分の財布を取って立ち上がり、私と一緒に玄関を出ると車のロックを解除して「乗って」と言った。

「うん、ありがと」

 私は鞄を抱きかかえるようにして助手席に座る。何気に茂樹くんの車に乗るのは初めてだ。たまに上司が運転する社用車に乗ることもあるが、それよりもはるかに座り心地がいい。お金があるとこういう所でいい思いができるのか、と考えていると、微かにきゅるるとモーターがゆっくり回転する音が聞こえ、それに合わせて車もゆっくりと走り始める。


「あ、そうだ優花さん。昨日はぱーっと楽しく祝勝会をしようって言ってたけど結局それっぽいこともできなかったから、次はもう少しいい所で背伸びしてちょっと大人っぽく祝いたいな……と思ってさ、今日の夜辺りにどう?」

 雑談の話題が尽きて車内に『大瑠皇紀』のサウンドトラックだけが響くようになってきたころ、いきなり茂樹くんがそう口を開いた。確かに昨日は私が飲み過ぎたせいで祝勝会どころではなかったし、たまには私がいけないようなところに連れて行ってもらうのも悪くないかもしれないと思って「いいね、でどこに行くの?」と尋ねてみる。

「呉の中心の方にある『Rendez-Vous(ランデブー)』っていうお店。大学の時の友達がやってて、これが結構おいしいんだよ」

「へえ、いいじゃん。行きたいな」

「じゃあ予約を入れておくよ」

 そう言って彼はハンドルを切り、普段見慣れた海岸線が目に飛び込んできた。



「茂樹くん、ありがと。帰りは電車で帰るよ」

 MARテックの横にある歩道で車から降りた私は茂樹くんにそう言って、いつになく面倒くさい仕事が始まる。こういう日こそ、面倒くさい会議がないことを願いながら遅刻ギリギリのタイムカードを切った。

 結局この日は特にこれといって面倒くさい仕事も振られず、単純な営業系の作業を淡々とこなすだけ。私としては願ったり叶ったりなのだが、ほんの少しばかり暇だな、と思う時があった。気が付けば終業時刻になっていて、いつものように中島さんと仲良く定時退社する。水尻駅で三原行きの快速に乗り込んで平日恒例の雑談フェーズに入った。

「今日はいつになくご機嫌でしたね、小林先輩」

「え、そう?」

「なんかいい事でもあったんですか?」

「いやあ、実は今日茂樹くんとちょっといい所に食べに行く約束してるんだよね」

 私がそう言うと、中島さんは少し驚いた顔をしながらぼそっと何かを呟く。

「ん、なんか言った?」

「いや、特に。まあ私から言えることは、『びっくり注意』ですね」

「え、どういうこと?」

「じきにわかります」

 彼女はそう言ったっきりこの話題は一切口にしようとしなかった。私が「なんでじきにわかるの?」と聞いてみても一切喋ろうとする様子はなく、それで「自分で確かめてこい」と言っているのだと勝手に理解した気にして彼女の話題に合わせる。十分もしないうちに快速は仁方の駅に停まって私たちを吐き出し、まだ残っている人たちを東の方へと運び去って行った。

「じゃあ、また明日」

「はい、また明日」

 最後にそう挨拶を交わして、各々の帰途に就いて歩を進める。スイートラジオの正面入り口から入ろうと正面に回ってみたが、どうやら店はもう閉じられているようで、私は通用口から居住区に入った。

「ただいま」

「おかえり。予約、九時に入れてあるから八時半くらいに出れるようにしてね」

「わかった」

 茂樹くんに言われた時間に遅れないように少しおしゃれチックな服を適当に見繕って、軽く化粧をする。化粧道具のある洗面所から出ると、茂樹くんはソファに座って脱力するような体勢をしていた。

「あれ、茂樹くん今日凄い気合入ってるね」

「それは優花さんもそうじゃない」

 茂樹くんはかっちりとした紺のジャケットのセットアップ。私は少しカジュアルなジャケットセットアップ。どちらにせよ二人とも普段着を見ている身からしたら違和感を覚えてしまうような服装だということに違いはない。

「じゃあ、そろそろ時間だし行こう」

「うん、そうだね」

 朝と同じように車に乗り込んで、茂樹くんの運転の下今日の祝勝会場たる『Rendez-Vous』へと向かって進む。道中茂樹くんは今から行く店はどういうものだとか、友人の店主はどういう人となりなのかを教えてくれた。そして二十分ほどの短い旅の後、茂樹くんは小さなコインパーキングに車を停めてその横にある大きめの雑居ビルに入る。二階、三階、四階と不気味で怪しい雰囲気が続く中、五階に到達した途端その怪しさは隠れ家的で大人びた怪しさに変化した。

「ここがランデブーだよ」

「なんというか、凄くいい感じ? って言えばいいのかな、でもそんな感じ」

 店の中に入ると、さらにその隠れ家的な怪しさが際立ち、数個しかないテーブルと壁に掛けられた装飾のダーツ板や長い銃の模型、そして背景に流れるジャズがハードボイルドな雰囲気を醸し出している。近くにいたウエイターがこちらにやってきて、「ご予約の方ですか?」と尋ねてきた。

「二名で予約しています。山です」

「山様ですね。一番奥のお席へどうぞ」

 ウエイターに案内されて店の一番隅、角になっている部分の近くにある席に案内される。『Reserved』と書かれた札を彼は取り上げ、それと交換するように水のコップが置かれた。そして少ししてからサラダと白く滑らかな皿の上に載った料理が運ばれてきて、最後には「店長からのサービスです」と一本の高そうなワインが運ばれてきた。


「では、ヒシマキ騒動の解決を祝して、乾杯」

「乾杯」

 赤ワインが注がれたワイングラスの縁を軽くぶつける。チン、と奇麗な音が響いて静かな宴の始まりを宣言した。

 私はサラダに手を付ける前にメインディッシュであろう皿に手を伸ばす。白く滑らかな皿に載っていたのは濃い赤茶色のソースで煮込まれソースの色に染まった柔らかそうな肉、ソースの具として煮込まれたマッシュルーム、そして付け合わせとしてあめ色に炒められた小玉ねぎ。添えられたマッシュポテトの色はわずかに黄色く、皿から漂う芳香だけでも旨味が感じられる程。肉にナイフを入れるとほどけるように崩れ、それを口に含めば牛肉の味とほのかな赤ワインの風味が広がってそのまま鼻を抜けた。

「美味しいね」

「うん、美味しい、こんなの食べたの初めてかも」

 二人言葉すら交わさず、いやそれがテーブルマナーなのだろうが、黙々と静かに料理を口に運ぶ。そしてすべての料理が私たちの胃の中に入り切ったとき、まるでタイミングを見計らったかのようにウエイターが空になった皿を回収して行った。気付けば背景の曲は何故か止まっていて、店内は完全な静寂に包まれている。違和感だらけの状況に私が周りをきょろきょろと見回している前で茂樹くんは椅子に掛けてあったショルダーバッグから何かを取り出して「優花さん」と私に呼び掛けた。

「ん、どうしたの?」

 私がそう言って彼の方を見ると、少し開いた小さな箱がテーブルの中心に置かれている。そしてその中に入っているのは滑らかで透き通るような銀色の指輪。

「……え、え? 指輪? なんで?」

 唐突過ぎる状況に狼狽える私の前で茂樹くんは真っ赤な花束を店長らしき人から受け取ってこちらに歩いてきた。そして彼は私の横で跪いて再び私の名前を呼ぶ。

「優花さん!」

「は、はい……」

 彼の表情は真剣そのもので、私はその雰囲気に押されて絶妙に湿った生返事しかできなかった。これからされることは大体理解しているけれど、情報の供給過多で私の脳はパンク寸前になっていて思考が追い付かない。そんな私の状況をわかってかわからずか茂樹くんは手に持った花束をこちらに差し出して口を開いた。


「優花さん、いつもありがとうございます。僕は優花さんと命の続く限り一緒にいたい。他の何者でもない、僕のそばで生きてほしい。だから、僕と結婚してください」


 その言葉が私に届いた瞬間、私の中で感情の箍(たが)が一つ外れたような気がして、直後にぶわっと涙が溢れてくる。あのクリスマスの日以上の喜びが私の中で渦巻いていた。

「っ……はい! よろしくお願いします!」

 涙で震えた声を何とか必死に途切れないように、力を込めて言って彼の持つ花束を受け取る。ここ最近よく泣いているような気がするけれど悲しいのではなく嬉しくて泣いてしまうのだからしょうがない。茂樹くんは私が持っていた花束をもう一度手元に戻し、テーブルの上に置かれていた指輪を手に取った。

「ほら、優花さん。手を出してください」

 茂樹くんは私の左手を優しく持ち上げると、手に持った指輪を薬指にはめる。「……すごく奇麗」

 彼が手を離したとき、私の左手の薬指には奇麗なダイヤモンドの指輪が奇麗に輝いていた。改めてそれを見ると「茂樹くんと結婚するんだ」という今まで感じたことのない幸福感が湧き上がってきて、少し収まっていた涙がまた溢れる。私は跪く姿勢から直ろうとした茂樹くんに半ば飛び込むようにして抱き着いた。周りでは厨房にいたのであろうシェフや案内してくれたウエイター、そして店長が拍手を贈ってくれている。

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