Ⅱ-Ex ナイト・オブ・リカー
酩酊のフィレナワール
「この飲み屋、唐揚げが美味しいんだって」
そう言って無理やり連れてきた商店街の飲み屋の唐揚げの味にもだんだん飽きてきて、茂樹くんは草食動物のようにサラダばかりを食べている。最初に頼んだきり一度も空になっていない彼の小ジョッキは冬だというのに汗をかき始めていた。
「もう一軒行こうよ」
「ええ……まあいいですけど。次も野菜は食べられるんでしょうね?」
唐突過ぎる私の提案に彼は少々不服そうな顔を浮かべる。ここのサラダの味が気に入ったのだろうか、彼の瞳は「サラダが食べたい」と訴えているようだった。
「何で丁寧語なのよ」
「お酒が入ったらこうなるんです!」
茂樹くんは小ジョッキに残ったビールをぐいっと一気に煽ってそう言う。そんな彼はやっぱりお酒に弱いようで、ほんのりと顔が赤くなっていた。
「えー、合計四九八〇円です」
「あ、じゃあこれで」
私は財布から津田さんを一人引っ張り出して店員に渡す。彼女はレジに入れられて、銅製の硬貨二枚に変身して帰ってきた。
「じゃ、次行こっか」
「はいはい」
お釣りとレシートを受け取り私たちは店を出て、商店街を通り二つ分南下し『酒蔵ケンタウリ(さかぐらけんたうり)』の暖簾をくぐる。この店の売りはなんと言っても全国数百とある酒造のうち、珍しいものから有名どころまでほとんどを仕入れていること。加え料理も地元産の海鮮はさることながら、北海道の鱈や時期によっては長良や四万十の鮎の塩焼きまで提供してくれる、私が今まで行った居酒屋の中で唯一無二、孤高の存在である。
「お二人様ですね。テーブル席、個室をご用意できますがいかがいたしましょう?」
「あ、じゃあ個室をお願いします」
「かしこまりました。それでは奥から二番目のお座敷にどうぞ」
「ありがとうございます」
小さく礼をして先導する店員の後ろについて座敷に上がった。オーダーを取ると言われ茂樹くんはサラダと唐揚げを注文し、私は唐揚げと餃子、そして黒、白、茜の霧島と寒紅梅(かんこうばい)、獺祭(だっさい)を注文し、料理の手前に運ばれてきた一升瓶二本分ほどのお酒を片っ端から飲み始める。日本酒を飲めばぴりりとした辛さにほんのりと甘みを覚え、焼酎を口に含めば甘みと苦みの混ざった香りがすっと鼻から抜けた。
料理を待つ間に私は提供された小瓶を全て空にして、二人分の料理を届けてもらったところでまた別に五種類の地酒を注文する。次々と銘柄を読み上げる私の姿を見て茂樹くんも店員も目を丸くしていた。
「えー、作(ザク)、千福(せんぷく)、瀧自慢(たきじまん)、射美(いび)、酒屋八兵衛(さかやはちべえ)……でお間違いないでしょうか」
「はい、それで」
私がそう答えると、何か恐ろしいものを見ているような声でオーダーを読み上げる店員の表情がホラー映画で更に強大な何かを見つけてしまった人のようになる。これだけの量を注文してなぜ怖がられなければいけないのかがわからなかった。今日は久しぶりにやってきた平穏な日を使っての祝勝会だ。別に飲んだ分のお金は私持ちなのだからそんな顔しなくてもいいと思うのだが、普通の人から見たら飲み過ぎなのだろうか。すぐに運ばれてきた酒瓶を開けると、時折茂樹くんに飲ませつつすぐに空にした。
「……優花さん、流石に飲み過ぎじゃない?」
「いやいや、大丈夫だって」
私に注がれた日本酒をちびちびと飲みながら茂樹くんは呆れたような口調でそう言う。九本目とそれが注がれたコップがついに空になったとき、彼はいよいよ心配げな顔をしだした。そして、ふと頭の中に意味の分からない言葉が思い浮かぶ。
「……茂樹くんってさ、メルヘンチックな女は嫌い?」
浮かび上がった言葉はアルコールという麻酔で緩められた『理性』という門の隙間を潜り抜け、一つの日本語として口から発された。私の目の前にいる茂樹くんは「別に、嫌いじゃないですけど」と言いながら豆鉄砲を喰らった鳩のような表情を浮かべ硬直している。すまないとは思ったが、噴出する言葉はそんな顔だけでは止まらなかった。
「私だってれっきとした『女の子』なんですよ!? 勝手に生き急いで婚活サイトとかやってみて、いざ「会いましょう」となれば私から見ていい男でも「イメージと違かった」って言われてごめんなさいですよ。シャンパンとかワインじゃなくて日本酒焼酎ビールが好きで何が悪い? フレンチとかイタリアンじゃなくてファストフード類が好きで何が悪いんですか!?」
「あ……優花さん……個室って言ってもここお店……」
彼はもう泣きそうになっていたように見える。まあ仕方がない、目の前でさっきまで美味しそうに酒を嗜んでいた彼女がいきなり発狂し出すとは思えないだろう。実際、酔いで小さくなった私の理性もこの状況で叫ぶとは思ってもいなかった。半分だけ残った最後の瓶を一気に飲み干して立ち上がる。
「茂樹くん、帰ろっか」
「は、はい……」
街角でいきなり異形に出くわしてしまった時のような目で私を見る茂樹くんは何か悟ったような顔をしていた。私は足早にカウンターに向かい、人数と注文の量を見て困惑しながら代金を読み上げる店員をよそに、渋沢と津田を取り出して渡す。
「二二〇円のお返しです」
私の財布にいた偉人二人は白銅製と銅製の硬貨と長い感熱紙に浮かぶ文字に圧縮されて私の財布に入った。「ご馳走様でした」と言いながら暖簾を逆方向に押して、来る平日に備えて英気を養わんとする人だかりの間を縫ってスイートラジオへと向かって歩く。一月の暮れというのにほんのりと暖かい街の中、目的地まで信号があと二つというところで私の足元がいきなり崩れた。
「ゆ、優花さん!?」
「ああ、大丈夫大丈夫」
心配げな茂樹くんの声にそう答えて立ち上がろうとしたが、どうやら飲み過ぎのツケが回ってきたようで思うように力が入らない。踏み込んだ足も虚しく力尽き、あえなく彼の方に倒れ込んでそのまま抱きつくような格好になってしまった。顔を上げた私を覗き込む彼は絶句している。脳が発する指令ニューロンは受容体に届く前に休憩を始め、しまいには何をしたかったのか忘れてしまうものまで現れ始めた。
「ああもう、仕方ないですね」
彼はそう言うと私をひょいと担ぐと、さっさと歩き出す。商店街とは違って人通りがほとんどない県道ではこんなことになっていても全く恥ずかしいとは思わなかった。もしかすると、酔っ払って気持ちよくなっているからかもしれないのだが。
朦朧とする意識の中で彼が私を運んでくれる揺れを感じていると、いつの間にかスイートラジオにたどり着いていて、私はそのまま居住区の畳の上に寝かされた。
「本当に酔いすぎですって……」
そう呟きながら布団とサメを用意する茂樹くんがなぜかぼやけて見える。流石に飲みすぎてしまった。今の私はいつぞやの保健体育科で学んだ『酩酊期』というやつなのだと思う。布団より先に渡されたサメに抱きついてぼうっとしているとアルコールが触手を脳髄にまで伸ばしてきて、私の記憶系統はしばしの麻痺に入った。
「ん……て、あれ」
麻痺から復活した私の脳みそが最初に発した言葉はこれ。私の胸の中でサメはぎゅっと押しつぶされ、顔を歪ませている。私は飲み屋をはしごした時のままだったが、彼は寝間着に着替えていた。
「……やっと起きたね。そうだ、夢が半分くらい現実になったと思わない?」
「どういうこと……?」
まだほんの少し痺れている脳では彼の言うことに理解が追い付かず、思わずそう問い返す。
「僕たちは大人になれないまま大人になった『子供』だ。だからこんなふうに子供が考えたような恋愛をしているのかもしれないね。その夢ってのが、今のことだよ」
私の横で足を延ばして壁にもたれている茂樹くんはふっと吐き出すように笑いながら言った。その横顔はなんだか普段よりも格好よく見える。
「なーに、かっこいいこと言っちゃってんの」
私は横になったまま体を動かして、伸ばされたままの彼の脚に頭を載せた。
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