勝利と涙のコンチェ
翌日、茂樹くんは急遽店を休みにして警察に被害届を提出した。それは悪質さもあってかすぐに受理され、証拠品として持って行ったペンやスイートラジオのパソコンのログ解析などがすぐに始められたらしい。『らしい』としか言えないのは、すべて茂樹くんからの聞き伝手だから。そして水曜日には店の金庫や銀行の貸金庫に警察が捜査の手を伸ばし、核心を突くような証拠がたくさん出て来たと教えてもらった。私が仕事をしている二日間にここまで捜査を進めて重要な証拠まで揃えてしまう日本の警察はやはり優秀だなと思う。
証拠が全て警察に渡り三日が経った土曜日、「開店しても問題ない」という警察からのお告げを受けていた私たちが開店準備をしている時に茂樹くんの携帯が鳴った。
「ぜろ、いち、いち、ぜろ……呉署か」
「警察から? まさか「今日の営業は考えた方がいい」とかそういうやつだったら……」
「いや、たぶんそういうのじゃないと思う」
茂樹くんはそう言って応答マークをタップしてスピーカーモードに変更する。電話口からはたくさんの警察官がやいのやいのという騒がしい声と、何故か聞き覚えがあって強烈な印象が残っている声が聞こえてきた。
「おはようございます、三課の長谷部です。山さんでお間違いないでしょうか」
「はい、山茂樹です」
「今回の盗聴と窃盗の被疑者を逮捕しました」
「!?……本当ですか? ありがとうございます!」
スピーカーから聞こえてくる警察官からの報告に、空気がピアノ線を限界まで引き延ばしたように張り詰め、直後一気に弛緩する。ただそこに沈殿した空気は達成感でも何でもなく、予想されていたことだったが従業員という身内から犯罪者が出てしまったことへの驚きと、三日以上続いた痺れんばかりの緊張が一気に綻んだことによる脱力感。嬉しいはずなのに「やったね」と声に出して喜ぶのもしんどくて、二人バックヤードの椅子に座り込んで笑顔だけを浮かべていた。
「……ちょっと、臨時休業の札を貼ってくるよ」
「うん、わかった」
茂樹くんはそう言って立ち上がると『臨時休業』とタイプされた紙を手に取る。そして少しおぼつかない足取りで通用口から外へ出て行った。バックヤードにいても外でシャッターを抑えるとそれ特有のきしむ音がこちらにも聞こえてくる。二分ほど断続的に音が聞こえ、それが途切れてから少しして茂樹くんがバックヤードに戻ってきた。
「優花さん、エプロン取って戻ろうか」
「そう……だね」
「大丈夫? すごくつかれた顔してるよ?」
「あー……たぶんだいじょうぶ」
私は茂樹くんに手を引かれて何とか立ち上がり、そのまま彼にもたれかかるようにして支えられながら居住区にあるソファに連れられる。座ろうと腰を落とした瞬間、ふっと力が抜けて崩れ落ちるようにソファに横になった。自分でも驚くほどに疲れているし、ここまで力が入らないのはインフルエンザで三十九度まで上がった時以来。茂樹くんも心配そうな目を私に向けてくれているが、私はそんな茂樹くんに対して微笑むくらいしかできなかった。人がいないときでもずっと点けっぱなしにされているラジオの音を聞きながらうつらうつらとしていると、今度は携帯ではなく固定電話が震える。
「こちらスイートラジオです。あ、NHKさんですか。取材……? ええ、構いませんよ。 ……盗まれたものは防犯のためにあらかじめ用意していた偽のレシピです。偽のそれで作っても今売っている物とは似て非なるものができますし、味なんて市販の大量生産品以下になりますよ……それで……」
あはは、と笑いながら茂樹くんは電話の先にいるのであろう記者に話した。私よりも疲れているはずなのに、ああやって笑顔で対応できるところで格の違いを見せられているような気がする。彼を見ながらそんなことを考えていると、だんだん眠気は強くなり、ゆっくりと微睡に落ちていった。
「優花さん優花さん、そんなに寝てたら夜寝れなくなるよ……?」
「……お母さんみたい」
「確かにそんな気もした」
茂樹くんに優しく肩を叩かれ、私の意識は現実に引き戻される。彼の顔を見てみると目の下には大きなクマができていた。やっぱり彼も疲れているのだ。その証拠か、取材メールに対する返信をしていたであろうパソコンの横にはカフェイン量が多いコーヒーの空ペットボトルが数本転がっている。
「……で、何やってたの?」
「民放から新聞社までいろんなところから来た取材メールに一個一個返信してる。あいつら、裏で繋がってるのか? って言いたくなるぐらい各々ベクトルが違うからさ、頭使うよ」
「へえ、それは大変だね」
何時間かもわからない睡眠から戻ってきた私の脳は何とか普段通りの状態まで回復し、思考、判断ともに明瞭になったような気がした。背景で流れるラジオは翌日の天気を読み上げている。
結局この日、夕食の時間まで私が五分以上立ち上がることはなかった。強いて言うならぬいぐるみを自室に取りに行ったくらい。それ以外、約十時間はずっとソファに寝転ぶか座る以外に何もしていない。
「今日のご飯どうする? 正直疲れてるから適当にしたい」
「あー、何かある?」
「レトルトならいろいろあるけど……それにしようか」
「そうだね」
私は重い腰を上げてキッチンまで移動し、食品庫の中から適当に見繕って『牛丼』と書かれた箱を取り出した。箱の裏面を見て書かれている通りに電子レンジに突っ込んで温める。そして八時四十五分になり始まった国営放送のニュース番組は私たちの勝利を高らかに宣言した。
「きょう、全国で人気を誇る呉市のチョコレート店、『スイートラジオ』のレシピを盗んだなどとして窃盗並びに住居侵入罪の疑いで呉市内の田中良子容疑者が逮捕されました。田中容疑者はスイートラジオのレシピをダークウェブと呼ばれる非合法サイトで販売しようとしたということで、調べに対し『スイートラジオを破綻させようと思った』などと供述、容疑を認めているということです……」
「もう全国区のニュースになってるのか……やっぱりスイートラジオって凄いね」
「今日は臨時休業にしてほんとによかったと思ってる」
茂樹くんと私はラジオから聞こえるニュースキャスターの声に耳を傾け、夕食のレトルト食品に箸を伸ばしながらそう言い合う。そして夕食も程々に、風呂を済ませてようやく寝ようと自室に入ろうとしたとき、茂樹くんは「あ、ヒシマキとの契約なんだけど、お試し出店だけになったよ。さっきメールが来た」とだけ言って再びパソコンに顔を落とした。
部屋の電気を消して、布団に潜り込む。朝からずっと感じていた心労以外の心の突っかかりが何か、鮫のぬいぐるみを抱きしめながら考えてみた。
「あれ、そういえばなんで疲れてるの?」
口を衝いて出てきたその言葉は一瞬で私の心を支配する。『言霊』とはこういうことなのだろうか、ふっと現れた鬱々とした感情は送風機に繋がれた風船のように大きく大きく膨れ、心を支配するどころか体を覆い隠さんとした。
――結局、私は何をしたんだっけ?
鬱々とした感情は次第に輪郭を見せ始め、漠然とした虚無感が姿を現す。今年の始めたる一月の、それも十七日という短い時間でヒシマキとの契約を見直し、お試し出店だけで協力関係を終わらせることにして、茂樹くんの作戦は見事スイートラジオが直面した危機を乗り越え退けた。思えば激動の十八日間だったが、私はと言えば何の役に立つこともできず、ただただ指をくわえて見ていることしかできなかったように思う。私は乾いた喉を潤す水一滴にすらなれなかった。
「っ……やっぱり、なにもできてない。ためになることなんて、一切できてない」
いつしか私の目からは温かいものが流れ出し、抱きしめていたサメがほんのりと湿っている。何故か居ても立ってもいられなくなって、鮫のぬいぐるみと共に茂樹くんの寝室の前に立って、小さくノックをした。
「……どうしたの」
「私にもわからないよ……」
寝室のドアを開けた茂樹くんはすごく不思議そうな表情を見せながら私に尋ねてくる。でもその問いに私は答えられない。何故かって、自分でも理由がわかっていないから。
「と、とりあえず入って」
彼に言われるまま、私は彼の後についてベッドの上に座った。
「ほら、泣かないで」
私の横に座った茂樹くんはおもむろに私の頭に手を伸ばすと、優しく撫で始める。大きなその手は、遠い記憶の中の父を私に思い出させた。私は涙を止めぬまま彼に問う。
「どうして……どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「特に理由はないよ、強いて言うなら『好きだから』……かな」
彼は少し考えるような仕草を見せてそう言った。彼なりの答えだったのだろうが、それを私は理解できない。『わからない』という思いが私を揺さぶり始め、涙が更に溢れた。私の横で茂樹くんはずっと私に優しい言葉をかけてくれているのだろう。でも、その声は私には届かなかった。私の泣く声が、あまりにうるさかったから。
「私はっ……何の役にも立たなかった……ただただ茂樹くんの後ろに立って、指をくわえて眺めてるだけだったはず……それなのになんで……なんで君は優しくしてくれるの? 茂樹くんはずっと……」
「さっきも言っただろう? 『好きだから』だよ」
その声は、泣き疲れた私の声をぬって私の耳に素直に入ってきた。
「そんなの……そんなの理由になってないよ……」
「好きな人に優しくしないとしたら、誰にも優しくできないよ。君はちゃんと僕のためにいてくれた。見てるだけしかできなかったっていうけど、それでいいんだよ。優花さんは僕の隣にいて、僕のことを見届けてくれればいいんだ。それが優花さんの義務だって、ちゃんと言わなかった僕が悪かった。ごめんね」
嗚咽混じりで喋る私の背中を摩りながら、茂樹くんはゆっくりと、子供に話しかけるようにして喋る。一言一言がすっと胸の中に入ってくるような気がして、流れ続けていた涙もだんだん勢いが収まってきた。
「……なんで茂樹くんが謝るの」
「泣かせてしまった相手には謝るのは当然でしょ?」
「……」
茂樹くんは一度立ち上がるとベッドの上に転がり、彼の横に空いた隙間をぽんぽんと叩く。私が彼が何をしたいのか理解できず、クエスチョンマークを浮かべていると「ほら、こっちに来て」と言い、少し体をこちらに寄せてきた。
「……え?」
「え、じゃないよ。寂しいときに一人で寝るなんてできないでしょ?」
「……確かにそうかも」
優しい笑顔でそういう茂樹くんに私も少し頬が緩んだような気がする。私も彼と同じようにベッドに横になって、伸ばされていた彼の腕に頭を載せた。一瞬彼は困惑したようだったが、すぐに小さく笑ってチェストの上に置かれたランプを消す。部屋はすぐに闇に包まれ、私の感覚は私と彼の呼吸の音とラジオから微かに零れるノイズに支配された。
「明日が休みだからって、夜更かししちゃだめだよ」
茂樹くんはそう言うと私の身体を包むように腕を回し、小さな間の後に彼は私の目の前で寝息を立てだす。彼の体温に包まれながら目を閉じていると、いつの間にか私の意識も眠りの中へと落ちていた。
翌朝、私は茂樹くんよりも早く目を覚ました。ただ、午前四時に起きたわけではない。実際の起床時間は八時で、茂樹くんは私が起きるとすぐに目を覚ました。
「そう言えば昨日、忙しすぎて今日の再開準備なんてしてなかったな……」
「どうするの?」
「うーん、自営業の特権でも使おうか。Twitterで告知しとかないと」
彼はそう言って立ち上がりカーテンを開けると、その場で大きく背伸びをする。そして私たちは久々にやってきた平穏な日をありがたく享受することにした。
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