追憶のチョコレート
「待て、そう焦るな。今から話すさ」
困惑する私を諫めるように叔父は言って、そのまま私の父の事、そして彼の死の真相を話し出した。
「義兄さんが死んだのはな、君と智恵のためなんだよ」
「は……? 私たちのため?」
「そうなんだよ。義兄さんは、君が生まれてすぐ体調を崩してしまった。罰欠病と、そしてドナーも見つからず骨髄移植は難しいとも言われた。そして優花が二歳になった日、義兄さんは余命三年の宣告を受けたんだ。たぶん覚えてるはずだ、電話でハッピーバースディを歌ったらしい。次の日、智恵さんがいつものように病室に行ってみると、ベッドの上に遺書と箱に優花の名前が書かれたスイートラジオのチョコレートが置かれていた。そして、階段から飛び降りて死んでいたんだ……とまあ、ここまでが『真相』ってやつかな」
叔父からの告白に私はなんと喋ればよいのかわからず、ただただその場で硬直するばかり。お父さんはお母さんが言っていたような人じゃなかった、そのことが十何年そうだと思い込んできた自分にとってはとても受け入れがたくて、その思いは「へ、へえ……」と、とてつもなく乾ききった声になった。
「ああ……優花、少し場所を変えよう。人に聞かせるような話じゃない」
「あ……うん。そうだね」
私に背を向けた叔父の後について博物館を出て、入り口に近い広場のようなところに置かれたベンチに二人で腰かけ、半分降りた緞帳(どんちょう)を巻き上げる。
「遺書によると、治療にかかる三年の間ずっと治療費を払っていては貯金が尽きて、優花の養育費にまで手を付けなければいけなくなってしまうから。それから嘘を言うように言った理由は罪悪感らしい」
「なんで嘘を吐く必要があったのさ……そんなの私のために死んだも同然なのに」
解りあえない感性とはまさにこういうことなのだろうか、『罪悪感』だとかなんだとか、遺書の主の実子であるはずなのに彼の言いたいことが理解できなかった。奇麗事なのかもしれないが、もし私が過去に戻って実の父と会うことができるなら今すぐにでもその頬を叩いて「金なんてどうでもいい。それ以上に大事なものって物があるだろう」と怒鳴りつけてやりたい気分だ。
「誰のために死んだとしても、子供との時間を捨て去るようなまねをした自分は憎まれてしかるべきだ……と書いてあったな。ここから俺の勝手な考察だが、義兄さんは英雄になりたくなかったんだと思う」
「英雄になりたくない? 根拠は?」
「義兄さんの遺書の最後が『僕は悪役だ。智恵と優花よりも金を優先した悪人だ』だったからさ。ご丁寧に『悪役』の上には『ヒール』と振ってあったよ」
「その遺書さ、あとで読ませてよ」
「ああ、わかった。ずっと守ってきたんだ、一回ぐらい約束を破ってもバチは当たらんだろう」
「ありがとう」
入口の方を見てみると茂樹くんと杉本館長たちが丁度出てこようとしているのが見えて、私はそこで話を区切って「茂樹くんたち来そうだしそろそろ動いとく?」と聞いて立ち上がる。叔父は「よいしょ」と言いながら立ち上がり、私と一緒に茂樹くんたちが来るだろう駐車場に先回りした。
「あ、琢朗叔父さん。お待たせしました」
「いやいや、待ってはいないさ。それで、茂樹くんが運転するのか?」
「はい、そうですね」
「じゃあ、俺の車の後ろについて走ってくれ」
「わかりました」
叔父と杉本館長は叔父の車に、私と茂樹くんは茂樹くんの車に乗って車を走らせる。電気駆動のモーターが鳴らす不快にならない程度の超高音を響かせてゆっくりと加速していった。沿岸部から市街地に入り、大通りを進んでから国道三七五号線に乗って一気に山間まで北上する。途中で私なら絶対に塀に擦ってしまいそうなほど曲がりくねった脇道に入り一番奥まで進むと、叔父の車は少し小高い場所にある一軒家の庭兼駐車場に停め、その横に私たちの乗る車を誘導して、茂樹くんはそこに車を停めた。ここまで約十五分、広島大学から帰ってくる時よりも短いが、なぜかその時よりも疲れたように感じる。
「いやー、久々に来たよ」
私はそう言いながら叔父宅の庭に降り立った。換気扇の方から香ばしい匂いが漂ってくる。叔母がお好み焼きを焼いているのだろう。叔父は鍵を取り出して玄関を開け、彼の後ろについて私たちも中に入った。
「ただいま! いやあ、なんだか懐かしいな」
「おかえり!」
じゅうじゅうとお好み焼きが焼かれる音と、数か月ぶりに聞く叔母の声が聞こえてくる。
「お邪魔します」
茂樹くんと杉本館長の声が重なって叔父は小さく笑いながら二人をリビングに通した。叔母は当初の予定の倍になった人数を見て少し驚いた顔をしてから「こんなこともあろうかと材料を多めに買っておいてよかったわ、ほらほらみんな座って座って」と笑いながら言っている。
「あらあら、あなたが優花の旦那さん?」
茂樹くんと杉本館長の前にお茶を入れた湯飲みを置いてから叔母は空いた椅子に座ってそう彼に話しかけた。彼女の目は私がかつて彼氏のことを報告しに家に行ったとき以上に輝いている。
「はい、そうなりますね」
「なかなかイケメンじゃないの」
「ありがとうございます。変なことを聞きますけど、職業とかは聞かれないんですか?」
「ええ、もう知ってますから。日本屈指の大人気ショコラトリー『スイートラジオ』の店長にして天才ショコラティエの山茂樹さんでしょう?
叔母はからからと笑いながらそう言って、彼がよくラジオで呼ばれている肩書を口にした。茂樹くんは若干びっくりしたような顔をしていたが、逆に知名度がないとでも思っているのだろうか。彼は相当有名だし、顔を見ただけで一切関りがない人でも老若男女問わずわかるだろう。
「いやいや、褒めすぎですよ…… しかしなぜ僕が店長だとお気づきで?」
「しょっちゅう放送されていますからね」
「なるほど……ありがとうございます」
少し茂樹くんと話してから彼女はまた焼き終わったお好み焼きを皿に移して、他の小皿料理を作り始めた。台所からは混ざった調味料の良い匂いが漂ってくる。そして二階から降りてきた叔父が私のところへ来て、「ちょっと上に来てくれるか?」と言った。私はああ、遺書が見つかったんだな、と心の中で思い、「わかった」とだけ言って叔父の後ろを歩く。写真だけしか明確な記憶がない父はどのようなことを書いていたのだろう、そんな不思議な気分を抱えて、階段を上って叔父の部屋に入った。
「これだ。読むか?」
「うん」
彼の部屋にある重厚な机の上に置かれた一枚の古い茶封筒を叔父は拾い上げ、私に渡す。その封筒の中には一枚、黄ばんだ便箋が入っていた。二十八年を経て私に伝わった父の言葉は、不器用な愛に対する謝罪の言葉で始まっている。
『すまなかった。僕は智恵や優花と一緒にはいられない。
僕が命を全うすると、君たちは道連れになってしまう。
そうなることに僕は耐えられない。
だから僕は、こうして身勝手にも君たちとの時間を捨てる。
僕の背中は追わないでくれ。
それから優花が僕がいない理由を聞いたら、僕は借金が返せなくて逃げた先で事故死したと言ってくれ。
誰のために死んだとしても、家族との時間を捨て去るようなまねをした僕は憎まれてしかるべきだ。
それに僕は悪役(ヒール)だ。智恵と優花より金を優先した悪人だ。
そんな僕が誰かのために自殺をしたというのは似合わない。さようなら。
――追伸――
置いてあるチョコレートは来年の誕生日に優花にあげてくれ。
スイートラジオのノーマルビターチョコレートだ。
僕が好きな味だけでも、記憶に残ってくれると嬉しい。』
「なんだ、そんなんだったら正直に言ってくれても良かったんじゃん」
読み終わった瞬間、私の中でこれまでの記憶が全て一本の線で繋がった。母が私にあのチョコレートをくれたのも、そしてそれが母を思い出させたのも、茂樹くんと出会ってここまでやって来れたことも、全部全部父がくれた『スイートラジオのノーマルビターチョコレート』が始まりだったのだ。
目を閉じる。目尻から熱い涙が零れて、その柔らかな温かさは瞼の裏に小さな景色を映し出した。それは昔私の実の両親と住んでいた家と小さな椅子に座る父。でも私はそれが錯覚で、すべて想像で補完されているのも全部気が付いている。目の前にいる輪郭のぼやけた父は「本当に、申し訳ない」とほんの少し悲しそうな顔で言った。まったく、父の声も想像だというのに、なぜここまで心を揺さぶられるのだろう。実の父親だから? 懐かしい記憶に触れたから? いや、生まれて初めて本当の『父親』というものをおぼろげながらにも感じ取れたからだ。
私は悲しそうな顔をする前で駄々をこねる子供のように首を振って「謝らないでよ」と言ってみる。すると父はにこっと小さく微笑んで口を動かした。
「優花、ありがとう。それと……おめでとうな」
彼の口の動きと声に少しのラグが生まれて、ほんの少しずれて私に声が届く。それは私がこの世に生まれてもう二度と聞くことはないと思っていた言葉。彼から聞きたかったいちばんの言葉。
「うん、ありがとう!」
空想の父がもしはっきりと私の顔を視認できていたなら、どんな風に見えていたのだろう。普通の笑顔だったのか、それとも涙の混ざった笑顔だったかはわからない。ただ、私が最後に見た彼の表情は、この上ないほどの笑顔だった。
名残惜しい気持ちを堪えて瞼を持ち上げる。目に直接フラッシュライトを向けられたような光が入ってきて、瞼の裏の小景はどこかに消え去るようにして見えなくなってしまった。もう二度と出会うことはないだろう父の顔をしっかりと脳裡(のうり)に焼き付けて、頬に伝う涙を拭う。そして黄ばんだ遺書を封筒にしまい込んで一度強く抱きしめた。私の父はここにいると信じて。
「優花! みんな準備できてるよ!」
私を呼ぶ母の声に「わかった!」と返して私は楽しげな笑い声が響く階下へと降りて行った。
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