完全のカカオビーン
水曜日にできた『一つの成功の可能性』を冷やして固めたチョコレートが完成したのは、土曜日の朝十時。完成品を広島大学分子栄養学科(ひろしまだいがくぶんしえいようがっか)の分析室に届け、どうにも落ち着かない時間を大学構内の中央図書館で過ごしていた。
「大丈夫かな? データはどうなってるの?」
「もうすぐデータが取れたって連絡が来ると思う」
服装様々な大学生の男女が使う図書館の隅で適当に目についた文庫や学術書を広げながら、利用者の迷惑にならないように小声で話す。実際のところ、一切本の内容は頭に入ってきてなんかいないし、むしろ期待と緊張で読むどころの騒ぎではない。
「あ、ちょっと待って」
二時間ほど待ってそろそろかと思い始めた頃、茂樹くんがいきなり形態を握り立ち上がり図書館の隅へと小走りで向かって行った。いきなりのことで脳みそでの処理に時間を要している間に行きとは違いゆっくりと歩いてくる茂樹くんに「データ、撮り終わったみたいだから取りに行こう」と言われ、何が何だかわからぬままに彼に引かれて図書館を出る。そのまま彼について行くようにして研究棟に入ると、白衣を着た見るからに研究員のような見た目をした人たちが一枚の封筒を持って立っていた。
「山さん、解析データが取れました。ぜひ今後にお役立てください」
「ありがとうございます」
茂樹くんはそう言って研究員から封筒を受け取ると、私に「スイートラジオで結果を見よう」と言ってまた歩き始める。私は小さな不安と大きな期待を秤(はかり)に載せて研究棟を出ると、駐車場にある茂樹くんの車に乗り込んでスイートラジオに向かって車を走らせた。
「いやあ、どうだろうね」
「成功してるといいけど」
少し田舎の風味がある大学周辺の小さな通りから国道三七五号線に入って一気に南下する。薄くすかされたサイドウィンドウからは節分を過ぎ、春の兆しを覚えたくなるような微かに暖かい風が吹き込み、車内に小さな春を連れてきた。トンネルを一つ抜け、川沿いに出れば広駅周辺の都市部が見えてきて、改めてスイートラジオに着々と近づいているのだと感じさせられる。終始カーステレオに耳を傾け緊張を紛らわすばかりで、会話は数回交わされた程度。
「結果は?」
「今から見よう」
居住区のダイニングテーブルの上に置かれた『広島大学』と仰々しく印刷された封筒を挟み込むようにして座り、茂樹くんが封筒を開ける。彼からも私からも見えないように書類を引き抜いて、机の上に勢い良く広げた。
「おお、凄い……」
茂樹くんが感嘆の声をあげながら見ている大きなレーダーチャートには赤で『オリジナル:二〇二五年十一月』、青で『今回のサンプル』と書かれた歪な八角形が並んでいる。下に置かれた二つを重ねたものは寸分の狂いもなく、完璧に重なっていた。
「分析結果、『完全に一致』だって……」
他よりもいっそう目立つような文字で印刷された『完全に一致』という文字は私の目にすっと入り込んできて、さっきまで『可能性』だったものがついに『現実』に昇華したことを理解させる。茂樹くんは立ち上がって冷蔵庫に向かうとサンプルとして提出されなかったあまりのチョコレートを取り出して机の上に置いた。
「食べてみようか」
「そうだね」
私たちはアルミホイルに包まれたチョコレートを手に取り、口に含む。薄れていた記憶の中にはっきりと残っている確かな追憶の味、ついに十六年ぶりによみがえった思い出の味。ふわっとカカオの香りと甘くてほんのりと感じられる苦みが口の中いっぱいに広がった。
「そう、この味! この味……」
私はそう言いながら零れてくる涙を必死に拭う。茂樹くんに残りも少し貰っていいかと尋ね、残りの数粒も口に含んだ。懐かしい記憶と母の顔が鮮明に思い出され、さらに涙が溢れてきた。しばらく涙は止まらず、余韻は小一時間ほど残り続ける。これからこの懐かしい味がずっと食べられるようになるのは嬉しい限りだ。
「再現に苦労してたけど、なんか終わりは呆気ないね」
「まだまだ終わりじゃないさ」
涙を溜める私の前で茂樹くんは何か先のことを強く見つめるようにして言う。私には彼が発した言葉の真意はわからなかったが、ただ漠然とこの後にも大きなことが起こるのだと感じた。
「まずは生産ラインの整備、あとは製法の機械化をしなくちゃならない。やらないといけないことは山積みさ」
それほど不思議そうな顔をしていたのだろうか、茂樹くんはこちらの顔を見ると、クリップボードに挟まれたメモ用紙とペンを取り出して『ラインの整備』『西方の機械化』と書き込んで大きく丸をする。そこでようやく、彼の言いたいことが理解できた。
「ねえ、今何時?」
「四時だね」
しばらくして余韻が覚めた頃、泣き腫らした眼を擦りながら茂樹くんに話しかける。彼は背中側にある時計を軽く眺めるとそう言う。おやつを食べるにしても時間帯が遅すぎるな、と思った。
「今夜何にする?」
「お好み焼きとかどうかな?」
「ううん、市内の店に食べに行こうかなと思って」
「あー、いいね」
「じゃあ片付けてから少し違うところへ行こうか」
茂樹くんはそう言ってスイートラジオの厨房に向かう。私もそれに付いて行って、七十時間の格闘の末、可能性を実現に導いた功労者(コンチェ)を丁寧に洗い、シンクに散らばったボウルやヘラも一緒に片づけた。そして厨房がきれいになった後、茂樹くんの車に乗せられて、私たちは沿岸部へと向かう。
「さ、着いたよ」
「商業博物館か……」
「ちょっと優花さんに見せたいものがあってね」
「なになに?」
私が聞いても何も答えず、さっさと先に歩き出した茂樹くんを追いながら博物館の中へと入った。小学校か中学校の頃に一度や二度来たことはあるが、その当時とは内装も変わっていて、小奇麗になったエントランスに少し驚いている間に茂樹くんは受付の前に立っている。
「大人二人、お願いします。あと……管理課の杉本(すぎもと)課長はいらっしゃいますか?」
「こちらチケットでございます。杉本課長は出張に出ております」
「では、伝言をお願いできますか?」
「かしこまりました。どうぞお話しください」
茂樹くんの申し出に受付の係員はタブレットを彼に差し出して言った。
「豪華客船あさまのスケールモデルの受け取りは三月四日でお願いします……以上です」
「承りました。ではごゆっくりご覧ください」
茂樹くんは一通りの手順を済ませてこちらの方に戻ってくると、「さあ、行こう」と言ってエントランスを抜け、一番初めの展示室に入る。薄暗くライトアップされた中には一隻、いかにも三国志を元にした映画に出てきそうな木造で大きな帆を持った船がいた。
「この船は何?」
「遣明船に使われた二五〇〇石船(にせんごひゃくごくせん)だね」
「どれくらい積めるの?」
「大体三七五トンかな」
「見た目の割には少ないというか、何というかって感じだね」
私は船を囲う柵に付けられた小さい説明書きの板を読みながらそう言った。
縄文時代に開かれたとされる瀬戸内海航路は記録が残る限りで七世紀の律令が定められた当時には既に存在していて、九州北部から近畿西側を繋ぐ物流の大動脈として機能していたそうで、そこは七世紀の時点で既に数多の港が栄え、海賊と船員が激しい攻防を繰り広げられていたという。平安時代の暮れになると平清盛によって瀬戸内航路は整備され、大きな港が完成した。
また、室町幕府は瀬戸内海航路を明との貿易航路に使用され、その間、風待ち港や潮待ち港としてたくさんの小さな港町が発達した。
江戸時代には瀬戸内航路は黄金期を迎え、帆船による海運はこの地方に巨万の富をもたらしたという。しかし明治二十年代になると汽船や機帆船が導入されて船の運航に風という条件が加味されなくなり、また山陽鉄道が完成すると瀬戸内沿岸部は「水から引き上げた切り花のように凋(しぼ)んだ」と言われるようになるほど衰退してしまった……らしい。正直、何を言っているのか全く理解できなかった。ここまで読んでも理解に追いつかなかった私を嘲笑うかのようにまだまだ説明文は続く。
状況を見かねた港の商工業者が立ち上がり、明治二十一年、彼らはこの地域に多くある港を領して原料や部品を輸送するという方式で、手工業的に金属部品の生産を始めた。そして明治二十七年に日清戦争が勃発し、講和の時に得た莫大な賠償金を用いてこの地域一帯に巨額の投資が行われた。
「……ところで、今治の海軍造船所っていつできたの?」
「明治二十年ごろにはできてたよ。最初は呉とか仁方近辺に設置される予定で小さな造船所もできてたんだけど、本州側は民間船がおすぎて機密が保てないことから今治に移転されたんだよ」
「はええ……なるほど」
長々と書かれた説明文は一切理解できなかったが、何故か彼の説明だけは理解できる。
「この展示室は終戦までのものがあるんだよね?」
「そうだね」
私たちは遣明船の横を通り過ぎて、先に控える様々な模型を楽しみにしながら展示室のさらに奥へと進んでいった。
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