作戦のエージング
茂樹くんの立てた本当の作戦の内容は、まだ伏せておこう。それはともかく、私がお風呂に入っている間に茂樹くんは寝床に就いていて、本当に午前三時に起きたようだ。私が六時半に目を覚ましキッチンに繋がるドアを開けたとき、「よし! できたぞ!」と歓喜の声をあげ、机の上にあるペン立てにペンを突き刺した。
「これをいつもの暗号と同じ場所に置いておけば良い。これまでの暗号レシピと原本が入ってる貸金庫に関連する書類は店の奥の売上金が入ってる金庫に入れてあるよ」
「これで安泰だね」
私がそう言うと、彼は真顔で頷く。そこでこれがまだ演技だと気付いた。
「そうだね、田中さんにも気を付けないと」
「不採用にしたらよかったのに」
「根拠がないうちにそれをすると店の看板に傷がつくからね」
「そっか……それもそうだよね」
「じゃあ、朝ご飯作るね」
茂樹くんがそう言って立ち上がろうとしたが、私は彼の肩を抑え「私が作るから。疲れてるでしょ?」と言ってそのまま椅子に座らせる。そして冷蔵庫から卵とハムを取り出してキッチンに立った。フライパンをIHコンロに乗せてフライパンを温め、油を引いてハムと卵を落とす。ばらくして卵が固まったあとフライ返しで卵を皿に移して、箸とインスタントの味噌汁と一緒に食卓に出した。茶碗にご飯を盛り付けようと炊飯器を覗くが、中は空。
「炊飯器、空だよ」
「ご飯は冷蔵庫に入ってるから、電子レンジで温めないと」
「炊飯器の保温じゃないの?」
「違う違う、節電しないといけないからね」
「そうなんだ」
私は冷蔵庫からラップで包まれたご飯を取り出し、電子レンジに入れる。
「何W(ワット)で何分?」
「百グラムあたり六百Wで一分だよ」
「わかった」
適当にW数と時間を調整して『あたため』のボタンを押した。電子レンジ特有の低い唸り声が聞こえ、ピーっと音が鳴る。ラップの周りに水滴がついたご飯を二個の茶碗に移し替え、おかずだけ先に置かれた食卓の上に滑らせた。
「ありがとう、いただきます」
茂樹くんは工具を片付け終えた後の手を丁寧に洗って椅子に座り、そう言って食器に手を付ける。彼は食べながら何度か頷いてくれて、少しうれしかった。
「そういや、冷蔵庫に入ってた卵ってどれくらいのやつなの?」
「十二個入りの特売のやつだね、確か一五八円」
「へえ、庶民的だね……」
自分調べの近頃の卵の価格は一個当たり十六から十七円だから、十二個入りと考えると、かなり安い部類に入る。
「まあね」
「……で、この店の年商はいくら?」
「約七億」
「……全然庶民的じゃないじゃん」
やはりもスイートラジオの年商は個人経営とは思えないレベル。それほどあれば贅沢しても誰にも文句は言われないはずだが、なぜあえて庶民的な生活をしているのだろう。
「怖くて大振りに使えないけどね」
「なんで?」
「使うと金銭感覚が狂いそうじゃん? あの……宝くじで十億当たった人みたいに」
「まあ確かに」
そう言われればそうだ、テレビでも動画投稿サイトにあるドキュメンタリー動画でも宝くじが当たって生活が崩壊して大変なことになってしまう……という話がよくされているし、実際宝くじで高額当選したらそれを注意するような冊子が配られるということも聞いたことがある。
「金を持つと人は狂うからね」
「茂樹くんが言っても説得力がなさすぎる……」
「狂ってないのは全部定期預金に回しているからだよ。百個近い銀行に分散して預金してる」
「預金上限とかそういう感じ?」
「いや、リスクヘッジだよ。どこかがつぶれてもまだ他があるし、預金が千万までしか返ってくるとは保証されないからね」
彼はそう言うと、味噌汁を口に含んでごくりと飲み込んだ。そして私は「百の銀行に預金していて、一行あたり約千万……」と計算を始める。
「……え、十億も持ってるの?」
「狂わないでね」
「気を付けないといけないね」
「まあさすがに優花さんは大丈夫だと思うけどね……大丈夫じゃなかったらそのときのことは分かってるはずだから」
彼は最後にふっと笑って冗談っぽく言ったつもりなのかもしれないが、顔は笑っていなかったし、声のトーンも冗談のようには聞こえなかった。
「ところで……そろそろ会社に行く時間だよ」
「あ、ほんとだ」
彼に言われて時計を見、私はスーツのジャケットと鞄を部屋から持ってきてキッチンで歯磨きを済ませ仕事に出る準備をする。
「じゃ、行ってくる。田中さんには気を付けて」
「わかった。仕事頑張って」
ダイニングで茂樹くんに見送られ、私はスイートラジオを出た。暦の上ではもう少しすれば春だがまだまだ気温が上がる気配はなく、むしろ日に日に寒くなっているようにも感じる。ふいに横から冷たい風が吹いて、私の身体を冷やした。
「あ、小林先輩じゃないですか!」
仁方駅の南口からホームに入ったとき、そう嬉しそうな声が静かな駅構内に響き、思わずそちらの方を振り向く。そこには跨線橋の階段を駆け降りながらこちらに近付いてきている中島さんがいた。
「ああ、中島さん。おはよう」
「おはようございます」
いつも通りの朝の挨拶を交わし待ち時間の雑談を始めようとした頃、自動放送が控えめな音量で響き、その後に列車が減速しながらホームに入ってくる。私たちは通勤時間帯の割に空いているその列車に乗り込んで先延ばしにされていた雑談を始めた。
「最近和徳とはどう?」
「この週末、今治であった海自祭に行ったんです。和徳さんと一緒に楽しくはしゃいできました」
「何見たの?」
私がそう聞いてみると、彼女はスマートフォンを取り出しギャラリーを開いてこちらに艦首近くに『183』と書かれた護衛艦と『185』と書かれたものの写真を見せる。
「いろいろ見ましたけど、やっぱりこの二つが良かったですね。航空機搭載多用途護衛艦(こうくうきとうさいたようとごえいかん)DDH-183(ひとはちさん)『いずも』と航空機搭載型戦略護衛艦(こうくうきとうさいがたせんりゃくごえいかん)DDV-185(ひとはちご)『ほうしょう』。この二隻が揃うのは本当にレアで……」
「待って待って、航空機搭載多用途護衛艦……? 航空機搭載型戦略護衛艦……?」
これが『オタク特有の早口』というやつだろうか、彼女は私にとっては理解できない魔法の呪文のような熟語の集合体を口にした。ただ一つ分かったのは戦闘機を載せることができるんだな、程度のこと。
「どっちも空母みたいなものです」
「そんなにすごいことなの?」
「『ほうしょう』は最近竣工したばかりの護衛艦なんです。三年ほど前にニュースや共産党系の政治家が『空母保有の是非!』とか言って騒いでませんでした?」
「そういえばそうだったね」
「実質的な空母『いずも』がもうあるのにあそこまで騒ぐのはいささかおかしい気もしましたけどね」
「まぁ、確かに」
段々人の数が増えてきた車内でそこそこの声量でコアすぎる話をしている私たちは周囲にどのように映っているのだろうか。
「ともかく、アングルドデッキや今治海軍工廠における八十数年ぶりの航空母艦というロマンを味わってきました」
「独特のロマンだね、私はそういうの詳しくないからよくわからないんだけど」
「考えてみればわからない先輩と仲がいいのってかなり不思議ですよね」
電車は呉の市街地を抜け、工場の立ち並ぶ臨海区にやってきた。かるが浜駅を通過して冬の暗い海が見えるようになったとき、私たちの目に一枚の真新しい大きな看板が飛び込んでくる。
「え、さっきのってMARテックの看板だよね?」
「ですよね!? あんなものどうやって調達したんでしょう」
「あとで営業部長に聞いてみようか」
「そうですね」
電車は目的地の間にある残りの二駅を飛び越え、水尻駅で停車した。何度か車内で顔を見たことがある人たちばかりを吐き出し、彼らは列を作って憂鬱そうな表情から楽しげな表情まで、様々な色を浮かべながら改札に進んでいく。その流れに乗って私たちもIC定期券を鞄から取り出して改札を抜けた。
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