混乱のテンパリング

「では、くれぐれもお気をつけて」

「ありがとうございました」

 店の間にある人一人がギリギリ余裕をもっていられるスペースからたくさんの人が歩く、シャッター街が増えてきてもなお活気の衰えない商店街の通りに出てそう挨拶を交わし、私は帰途につこうとした。しかし南下しようと右に目を向けた瞬間、嫌なほどに目立つ藤色のジャケットとそれを纏うサングラスをかけた女の人が目に入る。「やばい」と心の中で呟き、彼女にくるりと背を向けて商店街を北上した。


「まってまって……すごいついてきてる……!」

 後ろの方を確認しておいた方がいいと言われたが、頻繁に後ろを見て不審者と思われるのも癪だったからスマートフォンのインカメラで後ろを写しながら歩き続ける。彼女は一定の距離を保って私の後を生まれたばかりのひよこのように付いて来て、この数分間でもう精神は疲弊していた。相手を撒く方法もわからないし、茂樹くんに頼ると私が安心して下手なことを漏らしかねない。だからここで撒き切るしかないんだ、と心に決めて川を渡り、スマートフォンの画面を消して角を右に曲がって呉線の線路に突き当たるまで進む。そのまま大回りしてスイートラジオに戻ろうとも思ったが、いつかに見た切れ者の殺し屋が出てくる物語で『角を同じ方向に三度曲がると相手が尾行に気付いていると思って勝手に逃げていく』と書かれていたのを思い出し、突き当りを右に曲がった。線路沿いを南に進んで、仁方小中の見える通りに向かってもう一回右に曲がる。一番最初に曲がった角の通りに出るために北上し、最後に線路に突き当たるようにまた右折した。そのまま線路沿いを歩き、仁方駅横を通過して県道二六一号線に出る。そして大通りを西進し、ようやくスイートラジオに辿り着いた。後ろから誰も付いて来ていないことを確認して、通用口からスイートラジオの中に入り、バックヤードに転がり込む。


「優花さん大丈夫!? 凄い顔してるけど」

「魚村さんのところに行ってるときに後ろから誰かに尾けられてたの!」

 私の叫びに彼は一瞬顔をしかめると、少し考えるような顔を見せて「ちょっと待って」と言い、居住区へ向かって行った。


「うん、大丈夫そうだね」

「何が?」

「一緒に住むって言ってた話。緊急事態だから早めてもいいかなって」

 茂樹くんはそう言いながらバックヤードに戻ってくると、椅子に座ってさらに続ける。

「優花さんはスイートラジオの関係者として目をつけられてる。魚村くんにも言われただろうけど、しばらくはスイートラジオから仕事以外の用事で出ないほうがいいと思う。まあ、これだけ言えばわかるかな?」

「ああ、家から荷物を持ってこいってことだね」

「くれぐれも安全に気を付けて」

「わかったよ、じゃあまたスイートラジオが閉まるくらいに戻ってくる」

 私は茂樹くんにそう言ってスイートラジオから自宅へと戻り、着替えや日用品、化粧品系統で必要なものを適当に見繕ってボストンバッグとスーツケースに詰め込んだ。そして魚村さんに『無事に帰れました』と送信してこれからの五時間をどうしようかと考える。特に意味もなくラジオの音量を上げて局を切り替えると、近頃人気が上がってきた俳優がパーソナリティをする番組が流れだした。この部屋で過ごす時間はあと引き払うとき以外にないかもしれないな、と思うと少し寂しく感じられる。約十年、休みの日にだらだらとするだけだった部屋にも愛着がわくものなのだなと改めて人間の心の不思議さを実感した。ラジオを環境音に、スマートフォンで漫画を読みながらだらだらと時間が過ぎるのを待っていると、あっという間に二時間、三時間と過ぎ、いつの間にかスイートラジオの閉店時刻に近付いている。私は立ち上がって、部屋のブレーカーを落とした。

「じゃあ、少し開けるね。すぐに迎えに戻ってくるから」

 私は鞄に入りきらず残念ながらベッドの上で留守番担当になってしまった特大サイズの亀の頭を撫でながらそう言って、部屋を後にする。ドアノブに手をかけてからベッドの上を見てみると、彼すぐにでも「ずっと待ってるよ」と言いそうなかわいらしい純真そうに見える目でこちらを眺めていた。

 通りに出て右を向き、左を向いて誰もいないことを確認しスイートラジオに向かって背中に気を付けながら歩く。重い荷物を持ちやっとの思いで辿り着いたスイートラジオの前には茂樹くんが立っていた。

「裏口からじゃ入りにくいだろうし、こっちから荷物入れて」

 彼はそう言うと三分の一程度が閉められたシャッターの下をくぐらせるようにして店内にスーツケースとボストンバッグを入れると、それをひょいと持ち上げてさっさとバックヤードへと入っていく。私も茂樹くんの後ろについて進んでいった。

「じゃあ、シャッターを完全に閉めたりブレーカーの捜査をしてくるからちょっと待っててね」

 彼は私を椅子に座らせると、そう言い残して外に出ていく。なぜそのまま居住区に通してくれないのか少し疑問に思ったが、勝手に動くわけにもいかないので大人しくその場にいることにした。



 バックヤードに戻ってきた茂樹くんは椅子に座ると、「えーっとじゃあ、お部屋に案内する前に色々質問しようか」と切り出して続ける。

「魚村くんからどんなことを話された? できれば詳しく」

「引き揚げられない氷山の全容を見るには四つの目が必要だ……って茂樹くんに伝えておいてほしいって言われたんだよ。でもまったく意味が分からない」

 彼の問いに魚村さんから言われたことをかいつまんで話した。聞いたときも意味が理解できなかったが、今自分で口にしてみても理解できない。茂樹くんは何か納得したような顔を見せて口を開く。

「……魚村くん、なかなかいいことを言ったね。まさにその通りだ、僕たちはまさに大事なものを見落としていたみたいだよ」

「……どういうこと?」

「ヒシマキはたいした脅威じゃないって言ってたんだろ? それ以上の脅威が、すぐそこに迫ってるってこと……魚村くんも感づいてるとはね」

「……もしかして」

 私が続きを言おうとしたところで彼は立ち上がり、私の荷物をまたひょいと持ち上げると、「さて、質問は終わり。荷物動かすからついて来て」と言ってバックヤードから出て行った。そして案内された部屋は前見たときよりもはるかに奇麗で、床のシミも無くなっている。


「……ところで、茂樹くんはもうその大きな脅威が何なのかわかってたりする?」

「まだ確証はないけど」

「……知恵は多いほどいいって言うし、私にも教えてくれる?」

「うーん……間違った知識を人に教えるのもどうかと思うけど、情報の共有は大事だしね」

 茂樹くんは私の要望に一瞬難色を示したが、頷いて話し始めた。

「田中さんっているだろ? 元店員の。あの人が妙に怪しいんだよ」

「どこが? 普通に見えたけど」

「あの人はかつて店にいた頃、僕に対してあまり協力的ではなかった。僕を嫌っていと言ってもいい。そんなあの人がここまで行動を変えているのが本心からの行動なら、今更スイートラジオにここまですり寄ってくるのはいささか不自然だ。優花さんに対してそのことを伏せていたのも疑わしい点で、『あの頃の過ち』が何を指すのかは分からないからなんとも言えないけどもしかするとスイートラジオを潰さなかったことかもしれない」

「潰さなかった……!?」

 彼から聞かされたのは怪しいと思うには十分すぎる証拠。そして続けるように彼から証拠が上乗せされていく。

「田中さんはスイートラジオのレシピデータを盗もうと思えば盗める立場にいた」

「もしかして……?」

「そう、僕は田中さんがレシピを公開することを危惧しているんだ」

「そっか、レシピは店の命だしね」

「機械化できるレベルのレシピだから、再現しようと思えばいくらでも再現できる。そういうことだよ」

 何かを頭で考えながら話しているのだろうか、彼の喋り方に段々余裕がなくなっていき、最後は少し自嘲的な口調になった。

「……と、なると危ないのはレシピ棚だね?」

「来月までになんとか手を打っておく必要がある。なんとしてもレシピを守らないといけない。レシピはすでに僕の頭の中にあるから破棄してもいいんだけど、後継者がまだ見つかってないし、さすがにそれはまずい気がする。なんとしたものか……」

「偽レシピとかどう?」

「短絡的すぎるな……どうしよう」

 茂樹くんは頭を抱えてうんうんと唸っている。

「とりあえず方法を考えようよ」

「そうだね……まあいいや、そういうことなんだ。で、今夜何にする? 優花さんが荷物を片付けたりしてる間に作ろうかなって」

「キッチンってどうなってるの?」

「換気扇が強い以外は普通のキッチンだよ」

「じゃあ、お任せで」

「わかった。できたら呼ぶよ」

 彼はそう言うと、部屋から出て行った。外ではがちゃがちゃとフライパンや鍋が当たる音が聞こえている。私はスーツケースを開けて床に転がして、ボストンバッグから化粧品類を取り出し、無理な体制で詰め込まれていた小さいサイズの亀とホオジロザメのぬいぐるみを取り出して丁寧に畳まれていた布団の上に鎮座させた。亀のぬいぐるみはいつも特大のものとセットにして『親子亀』のようにしていたものだから、『親亀』が自宅の留守番をしているために『子亀』が少し寂しそうに見える。そんな彼を尻目に私は圧縮袋の中で小さくなった服や下着を出して畳み、広げられたスーツケースの中に積んだ。


 荷物の整理も済んだ頃部屋の外からはいい匂いが漂ってきて、それにつられた私はドアから顔を覗かせる。ドアが開いた音に茂樹くんは気付いたようで、こちらを見ると軽く手招きをしてくれた。

「ビーフシチュー、作った」

「わあ、ありがとう!」

 私が部屋を出てくると、茂樹くんはそう言ってビーフシチューを皿に盛り付けテーブルの上に滑らせる。そしてその味は言わずもがな、私の悩みなんて一瞬にして吹き飛ぶ代物だった。



「ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さまでした。少し余ってるから明日の朝にでも食べよう」

 彼は私の食器を回収してシンクに置くと、どこからかノートを持ってきてその上でうんうんと唸りながらペン先を滑らせる。「何書いてるの?」と尋ねると、彼はノートの上に踊る文字をぐしゃぐしゃとかき消して「この店を守るための作戦だよ」と少し気取ったような口調で答えた。

「明日は早いな……三時には起きないと」

「三時!? なんでそんなに早く?」

「田中さんが店に来る時間よりも前に作業が終わるように……ね。その頃を見計らってちょいと細工をしておかないと」

「細工って……」

「もちろん違法なものじゃないよ。でもそれぐらいに起きておかないと時間がかかりすぎるから」

 茂樹くんは少し引き気味に喋ってしまった私に弁解するようにそう答える。

「なるほど、それでさっきの作戦だね」

「そうそう。作戦としては、抑止のために防犯カメラを設置しておく。それからレシピの控えを書き換える」

「というと?」

「レシピの原本は手持ち金庫に入れてから銀行の貸金庫に入れてある。それで、この店に置いておいた控えがあるんだけど、その控えを暗号にしておくんだ」

「暗号にするって……解読されたら終わりじゃん」

「そもそもレシピはこれまでも暗号だったんだ。だから、それを消して新しい意味をなさない暗号を書き込んでおくんだよ」

「なるほどね……ところで、盗聴とかされてないの?」

「大丈夫」

 茂樹くんはそう言うとノートを指した。そこには「嘘を言っておく」という文字。そしてノートには、茂樹くんの本当の作戦が書かれていた。

 

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