話術はルビー
日曜日の正午前、私は魚村さんに指定された喫茶店『Molybdän-415(モリブデンよんいちご)』の前に立った。いざ中に入ってみようと思えばドアノブに釣り下がるのは『本日定休日』と書かれた一枚の札。それでも店内には明かりがついているのでもしやと思ってノブを引いてみる。ガチャリという重い音と、手にずっしりと伝わる私の力に対する抗力。私はスマホの電源をつけ、チャットを開いた。
『もしかしてお休みなんですか?』
『そうです。裏手に回ったらスタッフ用の出入り口があるので、そこの横にあるインターホンを押してください』
『わかりました』
私は魚村さんに指示された通りに裏手に回り、ドアの横にあるインターホンを押す。カチッとしたスイッチの入る音が聞こえた後にドアが開き、裏側からひょこっと魚村さんと思しき人が顔を出した。目元まで伸びた前髪と度の強そうな薄い丸眼鏡の隙間から見える瞳は澄んでいて、色の薄い肌や服装からは男女どちらであるか判別ができない。
「あ、魚村智里(うおむらちさと)です。はじめまして」
「はじめまして、小林優花です」
店の外観は茂樹くんが好みそうな『スチームパンク』風で、前髪こそ長めなもののサイドとバックは短くそろえられていたものだから、いわゆる『かわいい男の子』というやつだろうと思ったのだが、最初に発された声を聞いて私は彼女は女の人だと確信した。私の中にあった『女の子』という概念の片隅が崩壊したような気がする。ボーイッシュなショートヘアーの子は大体活発というステレオタイプに縛られていたものだから尚更だ。
「あ、じゃあ中に……」
「お邪魔します」
彼女に促されて店内に足を踏み入れ、店の奥隅にある席に座る。内装は数年ほど前から再びブームが巻き起こった、技術革新が起こらず蒸気機関だけが発展した『スチームパンク』の世界観を踏襲し、ところどころにブリキや亜鉛ダイカストのようなものでできた歯車や、魚のひれのようなものが付いた飛行船の模型が飾られている。
「ここで話せば道路には音漏れしません。エアコンをつけた場合のブレーカーが心配なので、このブースと通路以外の電気は消しますね。それにしても今日は寒いですね」
「そうですね……」
「暖房をつけてもいいですか?」
「お願いします」
当たり障りのない会話をしてから魚村はエアコンを操作し、一旦奥に下がったと思うと両手に一つづつコーヒーカップを握ってこちらに戻ってくる。ふわっとぬるい風が吹いて、温かさが少し感じられるようになったころ、彼女はおもむろに口を開いた。
「スイートラジオの山店長の件ですよね。私は最初から、あの人が店を守るためにオファーを蹴っているのだと知っていました。ですからその件について謝るべきなのは私の方です。守秘義務違反にならないようにしていたのも知っています。そのことについて謝罪は求めません。ですが私は山店長について二つ、いや三つほど気になるところがあるのです」
彼女の口調はチャットでやり取りをしていた時と同じように丁寧で、好感が持てるほど。
「……と、言いますと?」
「第一の疑問、山店長は私が辞めた時に分厚い封筒を渡してきました。私は受け取りませんでしたが、あれは間違いなくお金です。確かに、当時私は喫茶店をやろうとしていましたが、それについては店長はおろか誰にも話していません。仮にそれを知っていたとしたら、どこで知ったのでしょう?」
私が尋ねると、彼女はメジャーリーガーの投げる百マイルボール張りの勢いで言葉を並べ立てる。そしてその口は止まることを知らずさらに彼女の疑問を投げ続けた。
「そして第二の疑問、山店長にはあの当時の経営状況であそこまでのお金を出すということは困難なはずです。最後に第三の疑問、そもそも山店長とは商店街の寄合で散々会っているはずなのに、なぜ山店長は私に対してあなたを差し向けてくるのでしょう? これについての回答を求めたいのですが……無理でしょうね」
「じゃあ、……どうすればいいですか?」
彼女の問いに問で返すと彼女はコーヒーを一口啜って上を見上げ、少し考えるような仕草を見せてから私の方を見て口を開く。
「スイートラジオはヒシマキから共同開発のオファーを受けた……とお聞きしました。内容はわかりませんが、おそらくそこにはそれほど大きな危機などないでしょう」
「それが最大の危機だと思うのですが……」
私は彼女の発する言葉に少々違和感を覚え、思わずそう挟んでしまった。すっと彼女の表情が残念そうなものに変わり、声のトーンも少し落として話し続ける。
「そうですか……ここに山店長がいないので、あなたに警告しておきます。私の推測ですが、山店長は……いや、スイートラジオは今経験したことがなさそうな危機に瀕しているはずです。察しのいい山店長は気づいていると思いたいです。あなたに何も言っていないところを見ると何かすでに作戦があるでしょう……そう信じたいですが、本当に気づいていないだけなのかもしれません。レビューは残しておきます」
「どうしてですか?」
「危険が来る方角を絞り込むためです。もしかするとすでに氷山が見えてきているかもしれません。ですが注意してほしいのは、氷山は水上からはその水上に出た十一パーセントプラス透明度の都合で不鮮明に見える部分しか見えないということです。水中から見ても八十九パーセント以上は絶対に見えません。どうかご無事であってください。それから、水上に引き揚げられない氷山の全容を見るには合計四つの目が必要だと山店長に伝えておいてください」
魚村さんは細めていた目をかっと見開き、切迫した雰囲気で淡々と語り切った。そして彼女は立ち上がると私の前に置かれている空のコーヒーカップを取り上げ、そのまま私に立ち上がるように促す。私は促されるまま立ち上がり、彼女の後をついて『スタッフ用の』出入り口の前に立った。
「帰り道は気をつけてください。来るときのように余計な虫につけられないようにしてくださいよ」
「……え?」
ドアノブを握り、捻ろうとして止めた彼女の口から友達同士のような会話の調子で零された言葉はとんでもないもので、私は思わず間抜けな声をあげてしまう。彼女は「え、気付かなかったんですか?」と笑いながら言った。私が鈍感すぎるのか、相手が凄いのかはわからないが、後ろを尾(つ)けられているとは思いもしなかったものだから、さらに驚いてしまう。一体彼女の観察力はどれ程なのだろうか。
「五十メートルほど離れてついて来ていた藤色のジャケットを着た女は恐らくヒシマキの社員、もしくはヒシマキの命を受けた監視員でしょう。すでに店に入るところを見られましたから、マークされている可能性が高いです。奥の席に座ったのは、そのせいもあります」
「なるほど……」
「とりあえず店から出たら頻繁に後ろを振り返って家に帰ってください。不審者だと間違えられるリスクはありますが、少なくともヒシマキに正確な情報が流れるリスクは減るはずです。それから、これからしばらくはスイートラジオから出ないほうがいいと思われます。スイートラジオに泊めてもらってはいかがでしょうか」
彼女はドアを開け、私と一緒に『Molybdän-415』と隣の店舗の間にある細いスペースへ出ると、そう言った。
「あなたは私たちの味方……なんですか?」
「それはまだわかりません。私はただ山店長に、こう……憧憬の念にも似た感情を抱いているだけです。山店長が負けるところを見たくないだけですよ」
私が尋ねると、彼女は子供のような笑顔を見せる。その目は大好きな選手の試合を見て応援する野球ファンのようだった。
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