Ⅱ-Ⅲ マーブルカラー・プレゼント

対話のマーブル

 結局翌日も茂樹くんの掃除を手伝うことになり、疲れたままで始まった平日が終わった土曜日の朝、スイートラジオに行くとシャッターの閉まった店の前で四十代くらいの女の人が茂樹くんに向かって深々と頭を下げていた。何かただならぬ雰囲気を感じ取った私はなるべく近付かないようにして、少し離れた場所から様子を伺ってみる。


「……なぜ急に戻ってきたんですか?」

「山さん、いや店長。本当に申し訳ありませんでした」

「顔を上げてください。僕はあなたに何も言っていません。なのになぜ急に?」

 茂樹くんはかなり当惑している様子で、いつになく声のトーンが上下しているように聞こえた。女性は彼がそう言ってもなお少しの間頭を下げ続け、何度目かの「もう大丈夫ですから」という茂樹くんの声を聞いてようやく頭を元の位置に戻す。

「知ってしまったんです、あの時店長が正しかったことを。店長はきちんと店のことと私たちのことを考え、ずっと先を見ていたのに、私たちはそれを汲み取れなかった。本当に申し訳ないことをしてしまいました」

「どこから知ったんですか?」

「ヒシマキの担当者が言ってたんです。『スイートラジオの山ってやつはいいカモだと思ったのに……』って」

 茂樹くんの疑問に彼女は深刻そうな表情を浮かべながらそう答え、許しを請うようだった声色はいつしか本当の窮地を伝えに来る伝令役のようなものに変わっていた。

「なるほど、わかりました。あなたを信じましょう。ところでヒシマキは何がしたいかわかりますか?」

「スイートラジオの持っているチョコレート関係の技術を抜き取ろうとしているようです。向こうの企画書の写真を撮ってきたのですが……」

 彼女はそう言いながら茂樹くんにスマートフォンの画面を見せる。すっと上から下に動いた彼の双眸は一瞬にして暗雲が立ち込め、遠くからでもわかるほどに瞳孔がきゅっと引き絞られた。

「はあ……やっぱりそういうことか……ありがとうございます」

「それと不躾なお願いで申し訳ないのですが、またここで働かせてもらえませんか?」

「ええ、履歴書を持ってきていただければいつでも」

「ありがとうございます。では本日また伺わせていただきます」

 彼女はまた深々とお辞儀をすると、体をくるりと回して商店街の方へと歩き出す。私は彼女が少し離れたことを確認してから「え、何があったの……」と言いながら茂樹くんへと近づいて行った。


「ずっと聞いてんだろうからわかるでしょ? さっきから気付いてたよ」

「あ、やっぱりバレてたんだ」

 私はへへっと笑って、スイートラジオへ入ろうとする彼の後を追いながらそう言う。

「優花さん、一時間ほどお店を回したりってできる? 一応ツイッターとかインスタで通知はしておくから」

 彼はバックヤードに繋がるドアの手前でピタッと立ち止まるとこちらを向いてそう頼んできた。

「うん、わかった」

 彼の言葉に頷いた私はバックヤードへ入りエプロンをつけて、彼がやっていたやり方を思い出しながらシャッターを開け、開店準備に取り掛かる。「任せて!」と息巻いてきたはいいものの、一人でやり切れる自信なんて到底ない。少しの後悔と自責の念と、ここまで来たらやるしかないという思いを心のミキサーにかけ、茂樹くんには申し訳ないが奇跡といえる片手で収まる数だけの客が待つドアの鍵を開けた。


 普段よりは緩いはずの客足も、あまり慣れない私だけでは音を上げてしまいそうになるほどで、これ以上の人数を一人でこなせる茂樹くんの凄さをまた実感させされる。そしてそこから一時間、私は忙しさで目を回しながら必死に次々とやってくる客の対応をした。店内にいた客が全ていなくなったとき、バックヤードから茂樹くんがひょいと顔を出してこちらにやってくる。

「一時間も一人でやらせてごめんね。本契約変更の要望書を書いてた」

「ヒシマキの契約の話……だよね?」

「うん。じゃあこれを投函してくるからもう少しだけ頑張ってて」

「ん、わかった」

 茂樹くんは大きな封筒を抱えながらカウンター横にあるスイングドアを抜けて、店から出て行った。私一人とチョコレートだけの空間に冷たく透き通ったベルの音が響く。それは一種のシーンチェンジのようで、この後私と茂樹くん、そしてスイートラジオにとって良くないことが起こるような気がしてならなかった。



 茂樹くんが接客に戻り、お昼に向けて客足も回復してきた頃、朝に見た女の人が封筒を一枚抱えて店の中に入ってきた。

「あの……店長。履歴書を持ってきました」

「ああ、ありがとうございます。今から昼休憩にしようと思っていたところなので、このままバックヤードへ来てください」

 彼はそう言うとスイングドアを開けて中へ招き入れ、先々とバックヤードへ入っていく。私は茂樹くんを追う女の人をさらに追うような形でさう後にドアを閉めた。



「それでは、履歴書を頂けますか?」

「はい、こちらです」

「受け取らせていただきますね」

 茂樹くんはそう言いながら彼女から封筒を受け取ると、履歴書を取りだして軽く確認するような素振りを見せる。

「ほう、一度入院されたんですね。持病ですか?」

「……?」

 彼女は茂樹くんに振られた質問の意図が理解できなかったのか、なぜそんなことを訊くのかと心底不思議そうな表情を浮かべた。私も彼がなぜ入院歴を訊いたのか理解できない。

「いや、手術歴と入院歴に丸がついているので」

「ああ、交通事故で左膝を粉砕骨折したんです」

「なるほど……それは災難でしたね。見た様子だと問題なさそうなので採用です」

 彼の言葉に彼女は再び不思議そうな顔を見せたが、再び採用してもらったのが嬉しかったのだろうか、ぱあっと表情が明るくなり、「ありがとうございました」といいながら深く頭を下げた。


「じゃあ、自己紹介をお願いします」

「はじめまして。田中良子(たなか りょうこ)といいます。以前スイートラジオで働いていた者です。よろしくお願いします」

 彼女はそう言いながら私たちにまた頭を下げる。茂樹くんが「じゃあ次は優花さん」と言うので、「小林優花です。本業は部品製造業者の営業部社員で、副業としてスイートラジオで働いてます」と私も適当に自己紹介を済ませた。それを確認した茂樹くんは満足げな表情を見せ、「じゃあ、僕はちょっとこの前の反省を活かしてサンドイッチを作ってきます」と言ってバックヤードを出ていく。


「ああ、タメで良いわよ」

「ああ、はい」

 田中さんは茂樹くんが出て行くのを見て私にそう言った。彼女は私の生返事を聞くと、「少し自分のことを話してもいい?」と聞き手としては無理やりすぎるだろうと言いたくなるような喋り方で話し出す。

「私、七年前にここを辞めて彼ずっと主婦業に専念してきたの。子育てがひと段落してからは毎日キッチンと物干し場、アイロン台と洗濯機の間を往復するばかりの忙しい毎日だった。それでも旦那のために働いてたから苦じゃなかった。あんなのを苦にする人って、どんな神経してるんでしょうね。でも最近旦那が単身赴任で東京に行っちゃって、主婦業をする必要性がなくなった。暇な日々の中で、ヒシマキから書面が届いたの」

「それでヒシマキに私たちの情報を流そうとした、と……」

「ええ。それである日、ヒシマキの人と話していたら彼が言ったの、『スイートラジオの協力は、私たちの長年の悲願ですからね。我々としてはいいカモだと思ったんですが上手くいかなくて……』って。口頭でも違和感はあったけど、それからもらった書類を見て、色々とつながったわ。私が間違ってたんだって気づいたの」

「なるほど……そういうことが」

 私が彼女の言葉にそう返したとき、私の背からドアを閉める音が響いて、その後に茂樹くんの「お待たせしました」という声が聞こえた。バックヤードを出ていく時に宣言していた通り、彼は三で割り切れる数のサンドイッチが乗った皿を持っている。

「サンドイッチを作ってきました。田中さんもどうぞ」

「あら、ありがとう」

 彼がそう言いながら皿を机の上に置くと、田中さんは礼を言って手に取った。彼女はすぐにそれを口に含み、何度も頷きながら咀嚼する。私も茂樹くんに促され手に取って口に含んだ。中身は定番のハムとチーズとレタス。レタスのシャキシャキ感といい、何から何まで全部普段食べているコンビニのサンドイッチとは格が違う。料理から何まで大体できる茂樹くんはやっぱりすごいなと改めて思いながらサンドイッチを胃の中に入れた。


「あ、ごちそうさまでした。それでは今日はこの辺りで失礼させてもらいます」

「またシフト希望が書ければ持ってきてください」

「わかりました」

 サンドイッチを食べ終えるとすぐに彼女は立ち上がり、バックヤードから出ていく。茂樹くんは出ていく彼女をドアに細い隙間を作って確認し、金属のベルが鳴ったときに安心したような表情を浮かべてドアを閉めた。そして机の上に置かれたままのボールペンを見ると一瞬で面倒くさそうな表情に切り替わり、「田中さんの忘れ物だ」と呟きながら無造作にペン立てに突っ込む。私は何か違和感を覚えたが、そんなことは明日のことにくらべればどうでも良いと判断した。下手をすれば協力者になるであろう人間を敵に回してしまう可能性だってある。私は何をするべきなのかと思考巡らせていると、茂樹くんが訪ねてきた。

「明日は魚村さんと話してくるんだよね?」

「う、うん。正直どうなるかなってわかったものじゃないけど」

 私は彼の質問に今の心情を預けながら答える。茂樹くんは何度か頷いて

「じゃあ、多少の段取りは僕が考えるよ。いいことが聞けるといいね」

 そう言い、バックヤードからカウンターへつながるドアに手をかけた。

「さて、そろそろ行こうか。お客様がお待ちだよ」

 私はそういう彼の後を追って、カウンターに出た。店の前にはいつものように『スイートラジオのチョコレート』を求める人たちが列をなしている。

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