掃除のビーントゥバー
翌日の朝、スイートラジオのシャッターに茂樹くんはもたれかかっていた。
「お待たせ、掃除道具持ってきたよ」
「ありがとう。じゃあ早速、中に入ろう」
「了解」
普段よく使うスイートラジオの裏口からバックヤードのドアを越え、その奥にある居住区へと足を踏み入れる。そして目に入ってきたものは溶けた黒い蝋を塗りつけたような大きな円形のシミ。
「……なにこれ、野良猫が入り込んできて吐いて帰った?」
「猫じゃないよ……洗剤を溢したんだ」
適当な比喩が思い当たらず過去に飼っていた猫を思い出し、口を衝いて出てきたのはわかりそうでわからないもの。茂樹くんは私の例えに触れることなくそのまま話を続ける。
「一年くらい前からある気がする。もしかしたら一年半とか二年モノかも」
「……は?」
「ここら辺に用事なかったから……」
「まあそうだろうね」
私はシミの周りに広がるさらなる惨状に目を向け、大きな溜息を吐きながらそう言った。周りにはガラクタ……とも言えない機械らしき何かの残骸が山のように積み上げられている。いくらかのスピーカーに技術力のあるだろうメーカーが生産した基盤、コンデンサがハンダ付けされたままの工作雑誌の付録でついてきそうな安っぽい弱そうな基盤と何種類かのキットの箱。ガラクタの山にある内容物は目視で確認できる限り十数はくだらないと思う。
「洗剤は水溶性だから水を撒いてから重曹をまけば取れると思うよ」
「へえ……」
それほどの知識があるなら自分で先にやれよ、とも思ったがなんせ片付けが苦手と豪語する茂樹くんだ。一般的な一軒家よりも僅かに広いこのスイートラジオを掃除して片付けるなんて、一週間で終わるかどうかすら怪しいようにも見える。
「重曹、ある?」
「持ってない」
「実はここにあるんだよね……」
茂樹くんはキッチンの下にあるラックから一つの袋を取り出してこちらに見せた。
「なら先に言ってよ」
「いや、昨日『見つけた』んだ」
「見つけた……!?」
彼はあっけらかんとした様子でそう言う。ふざけているのか、それとも真面目にやっているのかわからないが普段の茂樹くんとは何かが違うような気がしてならない。性格の八割だけコピーに成功して残りの二割で独自のものが構築されてしまったような完全な偽物とも、気の狂った本物とも取れる。でも、普段とは違う調子の茂樹くんと話すのもなんだかおもしろかった。
「かなり前に買ってたんだよ。確か……暇つぶしにカルメ焼きを作るために買ったんだっけ」
「いや、中学生の実験? ……じゃなくて、買ったものはちゃんとわかる場所に置いとくとか整理しようよ」
「しまい込んでたんだよ」
「いや……うん、しまい込んでたんだね。そうなんだね」
「呆れないでよ、だってしょうがないじゃないか」
二〇〇〇年代に流行ったタレントを彷彿とさせる言い草に思わず「いつの時代だよ」と思わず笑いそうになってしまう。
「で、霧吹きで水をかけて一時間くらい放置だね」
「そうそう。ふやかすんだよ」
「ところで何時間くらいかかりそう?」
「うーん、たぶん夜までやっても全体の半分もきれいにならないだろうね」
茂樹くんは居住区の床を一通り眺めてから少し考えるような仕草を見せてそう言った。
「じゃあ今日やっても意味なくない?」
「意味はあるよ、四日分の仕事が三日分の仕事になるからね」
「昭和の企業みたいなこと言うね」
「まあ能率面から言えば事実だしね」
「なんだかんだと喋ってても終わらないし、さっさと始めちゃおうよ」
私はその吐瀉物のようなシミに水をかけて雑巾で擦ってみる。何度もきつく擦っているわりに、表面の黒ずんだ埃のようなものしか取れない。
「まあ、一時間もすればふやけるだろうから水溶き重曹を掛けてウエットティッシュで擦れば落ちると思うよ」
茂樹くんはそう言ったが、私はウェットティッシュがすぐに尽きそうで心配だった。本当にこの部屋を掃除するだけで一体どれだけのウェットティッシュが犠牲になってしまうのかが気になってしまう。
「一時間も待ってるの癪だから別の場所を先にやっとこうか」
「ああ、じゃあここの天井もだね。何度も言うけどここはほとんど使ってなかったから」
「じゃ、ここやろうか」
私が近くにあった丸椅子を取って広げようとすると、茂樹くんは「待って待って、滑るから椅子は駄目」と言いながら慌てて止めに入った。私は大人しく彼の言うことを聞いて椅子を閉じ、元の場所に戻す。
「え、じゃあどうする?」
「天井は小さいモップでやればいいと思うよ」
そう言うと彼は長い棒の先に埃取モップをかなり無理やりに付けた道具を二つ即席で作り、片方を私に渡した。
「これでいけると思う」
「わかった」
私たちは煤けた色の天井に目を向け、モップをあてがう。軽く動かすだけでも薄灰色がかかった天井がだんだん元の色を取り戻して行き、十分もしないうちにその一区画が光を取り戻した。私が天井に意識を向けている間、茂樹くんはこちらに一言も寄越さず私と同じように天井とにらめっこしている。マスク越しにもホコリと砂のような臭いと鼻の奥の痛みが感じられるようになった頃、茂樹くんが声にならない悲鳴を上げた。
「どうしたの!?」
私がそれに反応して振り返ると、彼は悲鳴の余韻を残しながらぐるんと半回転し、どすんと情けない音を立てながら床に落下する。
「洗剤のシミに足を踏み入れちゃって」
「へえ……滑るからとか言ってたのに自分から滑るんだ」
「そんな目で僕を見ないで……」
茂樹くんは床に背中を付けたままこちらを見てそう懇願して自分の目元を隠した。昔からずっと図太すぎる神経を持っているんじゃないかと思っていたが、今の茂樹くんを見るとそうでもないのかもしれないと思えてくる。
「ほら、起きて。そろそろ一時間経ったんじゃない?」
「そうだね、じゃあ重曹を用意しよう」
何事もなかったかのように起き上がった彼は小さなバケツに水を溜め、床に放置された『清掃用の』重曹を手に取りそれを溶かした。そういえば彼は「カルメ焼きを作る」ためにこの重曹を買ったと言っていた気がする。清掃用の重曹で作るのはさすがに身体によくないのではと思ったが、おそらく彼は気付いていないだろうから言うのはやめておいた。
「……たぶんこれでいいと思う」
茂樹くんは厚手のペーパータオルのようなものに水溶き重曹を染み込ませると、それを私にほいと渡して二人で床にできた大きなシミを擦る。すぐに濡れたティッシュで床を擦った時特有のつるっとした感覚から油の上のような滑りに変わり、ペーパーの裏を覗いてみると少し泡立った黒いものが顔を出した。
「……やっば」
「そんなに絶句しないで欲しいな……でもこれを取れれば奇麗になるんだから」
「まあそうだけど、さすがにやばいよ」
シートの裏に付いた黒い泡(ゲテモノ)はまるで生命を宿しているかのようにいまだぶくぶくと泡(あぶく)を立てている。本当に生理的嫌悪を覚えざるを得ないような見た目だ。
「じゃあどんどんやっていこう」
私が衝撃的すぎるみた目にフリーズしている間に茂樹くんはシミとの格闘を続ける。黒い泡を見ている内に段々感覚が麻痺して行って、彼がやっている作業に混ざって再びシミを擦り始めた。それからは無言で一時間、二時間と時間がたつのも忘れて床を拭き続けた。ふと横に置かれたゴミ袋を見ると、溢れんばかりの黒いシミの移ったペーパーが積み上げられている。
「これって産廃扱い?」
「……いや、一般ごみかな。『住居兼店舗』だし」
二袋目のペーパータオルを開けて中から一枚引っ張り出した。再びシミに向き直ると、それの上にいつの間にやら現れた一匹の猫がこちらを見ている。
「何やってる……いやかわいいし」
私がそう呟くと茂樹くんはポケットからスマートフォンを取り出してその猫を写真に撮ろうとしていた。彼が向けるカメラのレンズに写り込もうとさっとピースサインを滑り込ませてみる。茂樹くんは写真を撮り終えるとすぐにスマートフォンをポケットにしまい、写真に撮られた猫は彼に手を振られてさっさと逃げて行った。
「優花さん、さっき猫描いてたけど絵に関係ある部活でもしてたの?」
「うん、高校で漫研やってた」
「吹奏楽は中学で終わり?」
「うん、そうだね。中学でやめた」
三袋目を開けようとしたとき、ずっとしゃがんでいた茂樹くんは立ち上がって「じゃあ、そろそろお昼にする?」と尋ねてきた。
「お昼ご飯……というよりもおやつって言った方がいいのかもしれないけど……」
今まであれほど忙しかったのに料理まで、と少し感心していた私が馬鹿だった。彼がキッチンから持ってきたのはたくさんのアルミホイルに包まれた粒状のチョコレート。
「え、サンドイッチとか……」
「そんなにいいものが出ると思った? 残念、チョコレートでした」
彼はそう言いながら除菌ティッシュと一緒にチョコレートを手渡し、私はそれを受け取って口に放り込む。アーモンドを噛み締めたときのような甘みが混ざったバターのまろやかで芯のある甘味がふわっと広がった。
「うん、美味しい」
「これは仮称アーモンドバターチョコレート。ピーナツバターのピーナツの代わりにアーモンドを使って、それを練り込んだチョコレートなんだ」
「仮称ってことは、試作品なんだ」
「そうそう。これは四〇〇グラム、大体二十個で九九〇円にするつもり。もちろん税込み。新しい看板商品の一つにしようかなって思ってね」
アルミホイルから濃いベージュのアーモンドバターを取り出してくるくると回しながら彼はそう言う。
「結構前に約束したノーマルビターチョコレート、どうしたらいい?」
「ああ、早めにサンプルが欲しいね」
「この部屋に入れさせてもらう時に持ってくるよ」
「ありがとう」
試作品のチョコレート全てが二人の胃の中へ入ったあと、私たちは新しいペーパータオルの袋を開けて再び掃除に取り掛かった。
「あー……これでシミは終わりかな?」
「うん、そうだね」
シミとの格闘が終わり、スマートフォンの画面を見てみると時刻はもう十六時を越していて、窓の外はほんのり茜色に染まっている。
「予想より進んだし万々歳だよ。また明日も手伝ってくれる?」
「うん、わかった。また明日」
今日持ってきた掃除道具はそのままに私はスイートラジオの居住区を出て、ヘロヘロのまま家に帰った。解約の電話を機能入れて、月末には引き払うことになっている十数年お世話になっているアパートは妙に狭く感じる。
「あーあ、とりあえず大きいものは引っ越しの日に引き取ってもらうか……」
私はそう呟いて、夕食の準備に取り掛かった。
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