Ⅱ-Ⅱ チョコレート・パスト
打診のミディアム
年が暮れて明けた二〇二六年の一月一日。新年を迎えたスイートラジオの前で私は茂樹くんの支度が終わるのを待っていた。
「茂樹くんまだー?」
「もうちょっと待って!」
勝手口ドアにもたれかかりながら居住区にいる茂樹くんに声を掛けてみる。奥から彼の叫ぶ声が聞こえて来た。どうやら入り用のものが多いらしく、叫び声の少し後にバタバタと何かが崩れる音と「あぁ本が!」と絶叫が飛んで来る。そうして奥からやってきた茂樹くんは疲れ切ったような表情をしていた。
「さっき叫んでたけど大丈夫?」
「いやぁ、『安上がりな神様』を探していたら週刊誌やらが崩れ落ちてきてね……」
「そりゃあ大変だ。で、神様は見つかったの?」
「ああ、崩れた本たちの一番上に鎮座してたよ」
彼は乾いた笑みを浮かべながら手に持った『神様』をこちらに見せて言う。
「あはは、さすが神様だね」
「ですね。じゃあそろそろ行こうか」
私たちは勝手口から通りに出る。正月の仁方はいつになく静かで、辺りには誰一人として見当たらない。雲浮かぶ縹(はなだ)色の空の下、仁方駅へと歩を進めた。
乗り込んだ電車の中は初詣に向かっているであろう乗客でいっぱいになっている。渋谷並の人口密度で押しつぶされそうになる中で何とか安全圏を確保し、今回の『敵』になるであろうヒシマキの総本山がある広駅で降車した。
大通りに沿って十数分。平日休日問わずある人垣が嘘のようにがらんとしたヒシマキ本店が現れる。前回来た時はあれだけ活気づいていただけに、休みの時に来るとどこか寂し気な雰囲気すら感じられた。
「さて、第一回戦だ」
「よし、がんばろう」
通用口の前に立つ茂樹くんの舞台じみた台詞に私もそれっぽく返してみる。そして彼はドアノブに手をかけ、私たちはヒシマキのオフィスがある大きなデパートのバックヤードに入っていった。
「正月早々打ち合わせとかツイてないな……」
「大丈夫。すぐ終わるはず」
デパート内のシックでおしゃれな内装とは正反対の無機質なグレー一色の壁に囲まれた直線の通路を進む。私たちの喋る小さな声も嫌なほどに反響していた。細い通路を抜けてドアを開けるとがちゃりと大きく響き、明かり一つない静かなオフィスが広がる。確実に数人はいると踏んでいたものだから、誰一人いないそこは不気味に感じられた。別の方向からドアを開ける音が聞こえ、待っていましたと言わんばかりにロールプレイング・ゲームのボスよろしく奥から眼鏡をかけたスーツ姿の男がやってくる。
「初めまして。ヒシマキグループ取締役の古野英一郎(ふるのえいいちろう)です。スイートラジオの山様と小林様ですね。ご案内させていただきますのでどうぞこちらに」
彼は自身の名前を言うとスーツの内ポケットから名刺を取り出してこちらに渡した。彼の口調は終始好印象を覚えたくなるほど柔らかかったが、どこか打算的で、裏があるようにも聞こえる。私たちは彼に『社長室』と刻印されたプレートのかかる部屋の前に連れて行かれた。そしてドアを三度ノックしたと思えば「社長、お客様をお連れしました」と、人生で一度も聞くことはないと確信していたはずのドラマのような台詞を口にする。「入ってくれ」とまたまたドラマのような台詞が聞こえて、社長室へと入れられた。
「ヒシマキの社長をしております、槇田英雄(まきたひでお)です。この度はご商談に興味を持っていただき誠にありがとうございます」
槇田と名乗る社長は名刺を渡すと、ありがたいものを拝むように何度も何度も小刻みに頭を下げ続ける。
「スイートラジオ、店長の山茂樹です」
「従業員の小林優花です」
茂樹くんと槇田社長が名刺を交換し、全員の自己紹介が一通り終わったところで「あ、どうぞ、お掛けください」と促され、私たちは見るからに高級そうな革張りのソファに腰かけた。
「今日は二人しか出ていなくてですね、お茶も用意できず申し訳ないです」
「いえいえ、お気遣いありがとうございます」
槇田社長は実直で気さくな仕事人、と言うのが第一印象。ただ、偏見かもしれないが、彼も古野取締役と同じくどこかに裏があるように思えてしまう。社長を観察する横で茂樹くんたちは経営の調子はどうだとか、私生活はどうだと談笑していた。
「では早速、本題の方に入りましょうか。えー、私方としましてはスイートラジオの商標権を一年間、二十億円でお借りしたいのです」
数分話し込んで粗方話し終えた社長はふうと息を吐いてからそう切り出す。先ほどの柔和な雰囲気とは違う、きりっとした目つきからは「この案件は逃すまい」といった強い意志が感じて取れた。
「それでチョコレートの共同販売をされるご計画とのことでしたね。つかぬことをお伺いしますが、そのチョコレートはどちら側が開発するのでしょうか」
茂樹くんは少し間を開け、ドラゴンが腕立て伏せするのを見たかのような顔をして尋ねる。
「チョコレートのレシピ自体はスイートラジオさん側に開発していただき、それをヒシマキの特設製造ラインで大量生産して販売させていただく計画です」
槇田社長は心配そうな表情からころっと、「え?」と思わず漏らしてしまいそうな顔に変えて答えた。予想していなかった質問だったようで、かなり困惑しているようにも見える。
「ということは、我々はチョコレートのレシピをそちらに公開しなければならないということですね?」
「それはご心配に及びません、こちらの資料をご覧ください」
槇田社長は彼のソファの上に置かれたクリアファイルから分厚い資料を二つ取り出してこちらに寄越した。茂樹くんはそれをぺらぺらと捲り、「ほう」と呟いて閉じた。契約の難しい話なんて分からないが代表としてきているに等しいので、体裁を保つためにも私も渡された資料を適当に眺めてみる。内容は契約の詳細と生産ラインの計画書のようで、資料の中表紙に『特設生産ライン計画要綱』と書かれていた。
「なるほど……配合は我々スイートラジオ側で操作し、制御プログラムはそちらに対してブラックボックス化するんですね」
「はい。データを抜き取ろうとすれば、たちまちプログラムは削除されます」
「そうですか」
茂樹くんは話を聞くだけ聞いてからかなり淡泊な返事をし、再び資料に目を落とす。資料をじっと眺める茂樹くんの目には僅かな希望と大きな諦めが混ざっているように見えた。
「スイートラジオの大切なレシピを盗まれては大変でしょうし、こちらに盗む意志がないことを明らかにしないといけませんからね」
茂樹くんの話し方が槇田社長に対して好意的ではないと察したのだろうか、彼は再び心配そうな表情になる。彼らが話している間に資料を自分の理解できる範囲で読み進めてみたが、営業に使う資料としてはお粗末に感じた。プログラムのブラックボックス化や緊急時の削除も結局はヒシマキ本位になってしまう。こちら側には知られてはいけない情報でブラックボックスを無傷で開くことができるかもしれないし、緊急時のプログラム削除もシステムがうまく機能しなければ、いやヒシマキ側に消去しないように操作されていれば彼らがかつて狙っていた情報が丸々渡ってしまうことになるだろう。
「なるほど、わかりました。では本題に戻りましょう」
「二十億円で一年間という契約条件に、ご不満はありませんか?」
「はい。その点については何も」
「では、詳細資料の内容通りに契約を締結してよろしいですか?」
槇田社長は茂樹くんの返答に驚きと喜びの表情を浮かべ、更に畳みかけようとしてきた。ヒシマキは大規模小売店としての影響力も、デパートとしての影響力も大きいからそれほど焦る必要もないと思う。それなのになぜか彼らは何故か早急な締結を望んでいるようにも見えた。
「いいでしょう。ですがそれは一ヶ月後に締結させていただきたい。今から、我々スイートラジオからの提案をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、構いませんよ……?」
このまま金で殴っていれば易々と契約できると本気で思っていたのだろうか、茂樹くんの返答に槇田社長も古野取締役も呆気に取られている。
スイートラジオは現在従業員不足のため、チョコレートの品質が下がりかねない事態となっています。従業員を増やすための時間を稼ぎたいので、一ヶ月だけのテスト契約でヒシマキさんに出店させていただけませんか」
「といいますと?」
「短期企画として、ヒシマキさんに出店したいのです」
「もちろん大歓迎です。すぐに取締役会と株主総会で承認を取ります」
談笑している時の笑顔だったり、茂樹くんに振り回されて不安そうにする顔だったり、驚いた顔だったり、嬉しそうな顔だったり、槇田社長は随分表情のレパートリーが多いようだ。表情をころころと変えて喋る彼が少し滑稽に思えて笑いそうになってしまうが、見えないように太腿の肉を思い切りつまんで何とか耐える。
「ありがとうございます。ところで、スイートラジオのチョコレートのレシピがプログラムであるということを、なぜおわかりになっているのですか?」
ふと彼がそう訊いたとき、また槇田社長の表情が変わった。まるで表情のルーレットである。
「あー……工場生産ということですから、プログラムであるのはわかりますよ」
「まあ、そうですね……」
茂樹くんはなかなか腑に落ちない表情を浮かべながら小さく息を吐いた。槇田社長たちから見ればそれは緊張からの解放で起きるものだと思うだろう。でも私は、その呼吸が別の意味を多く孕んでいるように感じた。
「では、よろしいですかね」
「はい。ありがとうございました」
横から割って入った古野取締役の声に茂樹くんは手元の資料を鞄にしまって立ち上がり、取締役の後ろについて社長室を出ようとする。私も遅れないように貰った資料をクリアファイルに挟んで彼の後を追った。
「やっぱりさ、ちょっとおかしかったよね。資料もお粗末だし」
「やっぱりあれは昔の店員が一枚嚙んでるね……やっぱり裏がありそう」
ヒシマキのオフィスから出て、元来た道を辿って広駅に向かいながら互いに思ったことを話す。スマートフォンの画面を見ると、十時を少し過ぎたくらいだった。
「君が話してる間に資料読んでたけど、ブラックボックスとかプログラムの削除とか、胡散臭すぎ」
「ほんとだよ、彼らが何を企んでいるのかは知らないけども、ヒシマキと昔の店員たちの間にコネクションがあるのは確かだと思う」
「そっか……じゃあどうしようね」
「相手の出方を見るか、積極的に昔の店員たちに接触してみるかの二択かな」
茂樹くんは腕を組みながら斜め上に視線を飛ばして話す。彼の声からは「やはりそうだったか」と、むしろ拍子抜けしたような感情が漂っていた。
「どうやって接触するの?」
「向こうから尋ねて来たくなるようにするのさ」
「それはどうするの!?」
どうだ僕の名案は! と言いたそうな彼のどや顔に少し笑えてしまう。でも肝心のやり方はまだだ。思わずどうやるのかを尋ねてみると、まるでラジオショッピングのように大げさな前振りになってしまう。
「まあ、見ておいて」
「スマホ……?」
私の振りに調子づいたのか、それとも元からテンションが高くなっているのかはわからないが、茂樹くんの声は少々高くなっていた。彼はポケットからスマートフォンを取り出すと、何かを駅のホームにあるベンチに座って打ち込み始める。
「何やってるの?」
「求人サイトの星1つのレビューに送る返信の下書きを書いてるんだよ。優花さんに送るから、求人サイトのあのレビューに返信しといて」
「ああ、なるほど。レビューの返信で誘導するんだね」
向こうから接触したくなる方法、に合点がいった。確かに「これから働きたいんですけど、そんなにひどいんですか? 良ければ個別でお話を聞かせてください」みたいなことを書けば悪評を広めようとして向こう側から動いてくれるかもしれない。
「ご名答。そして優花さんに接触してもらう」
「了解。じゃあ、できたら下書き送って」
聞き慣れた自動放送の声が響いて、電車が大きな音を立てながらホームに入ってくる。茂樹くんからLINEで下書きが送られ、ズボンのポケットに入れたスマートフォンが揺れたのは到着した電車に乗り込もうと茂樹くんが立ち上がった時だった。
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