繁盛のスプレー
「いらっしゃいませ」
冷たい金属的なベルと茂樹くんの声が重なって、すぐ後からガイドさんと観光客たちの声が聞こえてくる。
「では、優花さんはツアー客の方以外の対応をお願いします」
「了解」
茂樹くんは私にそう耳打ちすると、カウンターを出て観光客たちが固まっているところへと向かって行った。
「すみません、予約をしていたスズキ リュウセイです」
「スズキ様ですね。少々お待ちください」
カウンターにやってきた一人の男は伝票を見せてそう言ってくる。私は予約表の中からサ行を探し、三十秒ほどの格闘の末何とか見つけることができた。
「えー、Mサイズでお間違いないでしょうか」
「はい」
「では、こちらになります。良いクリスマスを」
「ありがとうございます」
私はカウンター下の冷蔵庫から取り出したケーキの箱を渡す。彼は満面の笑みを浮かべながら「今日はサプライズで昼前に帰ってやるんだ!」と呟いていた。漫画や小説の読みすぎだろうか、状況的に最悪のシチュエーションになってしまう可能性しかない言葉に聞こえてしまう。なるべく気にしないようにして後ろに並んでいる客に意識を変えた。
「对不起我是张沐阳我预定了巧克力蛋糕」
「……え?」
風貌からして明らか日本人だと思っていたが、目の前にいる男から聞こえて来たのは日本語じゃない別の言語。私は咄嗟にいつかの夏のことを思い出し、ポケットからスマートフォンを取り出して彼に差し出す。
「あー、きゃないすぴーくひあー?」
「OK」
彼はそう言うと、画面のマイクマークをタップして再びさっきと同じ言葉を言った。
「对不起我是张沐阳我预定了巧克力蛋糕(すみません、チョコレートケーキの予約をしていたチャン・ムーヤンです)」
「張様……張様……」
私は翻訳されたその文を見て予約表からその漢字を探す。タ行の予約客がまとめられた紙の中腹よりも少し上にその名前はあった。
「巧克力蛋糕L码是不是没有错(チョコレートケーキ、Lサイズで間違いないでしょうか?)」
私はスマートフォンの画面をこちらに引き寄せてそう言い、彼の方に見せる。すると彼は頷いてから再び画面をタップし「是的没有错那块的巧克力给我装五块(はい、大丈夫です。それとこのチョコレート、それから小袋を5つください)」と言ってカウンターにチョコレートの大袋を一つ乗せた。
「四千块钱(四千円です)」
レジ用タブレットに値段を打ち込んで彼の方に向ける。彼は財布からちょうど四千円を取り出してコイントレーに乗せた。一緒にエコバッグも渡されたので私はそこにチョコレートと小袋五つを詰めて返し、冷蔵庫からLサイズのケーキの箱を取り出して手渡す。
「谢谢」
中国人の客はそれらを受け取ると満足そうな顔を浮かべながら店を出て行った。最近ではお金のない中国政府に対し一般市民がお金を持つようになってきたようで、政府に見切りをつけて日本に移民としてやってくる人が多いと聞いたことがある。さっきの彼も観光客とは思えない軽装だったのでもしかしたらその類の人なのかもしれないなと思った。
十一時、先程までごった返していたツアー客たちはガイドの「そろそろお時間ですので~」という声に導かれてバスへと戻っていく。そして店内に残った客はチョコレートケーキを求める人だけとなった。
「そろそろですかね……」
「ん、何が?」
「言ってませんでしたか? 今日『オヒルデスヨ』の取材が来るんですよ」
「え!?」
オヒルデスヨ、と言えばだれもが知っているであろう昼の生放送バラエティ番組。時折挟まれる映像と、出演者の楽しげなトークが魅力である。そんなところからも取材のオファーが来るスイートラジオはそれ程の人気店なのだと改めて実感させられた。
小さなベルの音を掻き消すように大きなカメラやマイク、スケッチブックを持った一目見るだけで放送局の人とわかる集団が楽しげな声をあげて店内に入ってくる。
「山店長、本日はよろしくお願いいたします」
チーフと思しき男はそう言いながら茂樹くんに向かってペコリと軽く腰を折った。茂樹くんはチーフからピンマイクを受け取って、慣れた手つきで自分の襟元に付ける。
「もう始めて大丈夫そうですか?」
「はい、大丈夫です。あ……優花さんも入りますか? ギャラは……わかりませんけど」
「いやいやいやいやいやいや……私が出ても特に面白いことも言えないし足引っ張るだけになっちゃうから大人しくカウンターにいるよ!」
唐突過ぎる茂樹くんからの出演依頼に驚き、声を裏返しながら全力でカウンターの中へと逃げ込んだ。放送局の人たちは私と茂樹くんの掛け合いを聞いて笑っている。ただその笑いは単純な面白さからくる笑いとはほんの少し違うような気もした。
「本番五秒前……四、三……」
二と一を手で示し、さっとスタッフが手を差し出す。それを起点にクリスマス特別放送のインタビューが始まった。
「超有名チョコレート専門店の『スイートラジオ』が今年から販売を始めたクリスマスケーキ、『スイートラジオスペシャル・Re:8th』。その味のこだわりをお聞かせください」
マイクを持ったお笑い芸人コンビ『シルバー・コースト』が話し出す。人の輪の中に立つ茂樹くんはマイクを掴んで立て板に水を流すような口調で語り始めた。
「チョコレートケーキ『スイートラジオスペシャル・Re:8th』は素材の品質にこだわっております。三種類のクリームを併用したことによって得られるコクでコートジボワール産カカオマスの濃厚な旨味を包み込むというイメージで材料を配合したしっとり感満載のスポンジケーキであっさりしたチョコチップ入りクリームを挟み、ガーナ産の高級豆を使用した生チョコをかけました。濃厚な味とあっさりした食後感が特徴となっております」
「なるほど、並々ならぬこだわりですね……。コートジボワールの位置は、おそらく画面に出ていると思いますが……さて、次の質問に参りましょう。『スイートラジオスペシャル・Re:8th』の販売状況はどうなっているのでしょう」
「現在のところは採算を度外視して今年だけのお試しとして販売させていただいています。すでに予約枠は売り切れておりますが、若干数の当日枠はまだ残っておりますので、是非お買い求めください」
「『オヒルデスヨ』史上、おそらく一番雄弁な商品紹介でした。さすがは人気チョコレート専門店の店長さんですね」
シルバー・コーストの片割れが感嘆の息を漏らしながらそう言う。茂樹くんは「ありがとうございます」と言って小さく会釈をした。
「ところで……原価率とか聞けたりします?」
感心している片割れをよそに、もう一人が少し悪戯っぽい口調で聞く。
「原価率は……大体九十パーセントですね」
「ほう! なかなかに採算を度外視してらっしゃいますね」
茂樹くんのどや顔返答に質問の主は驚きの声をあげた。
「もちろんです。これで新しいお客様が来てくれれば、それだけでありがたいですからね」
「あー、ちょっと待ってください。このケーキいくらでしたっけ」
「おい下岸、それ聞いて良いの?」
「カンペに書いてあるから、いいんじゃない?」
スタジオからの音声はどっと笑っていた。茂樹くんも一瞬体を震わせたが、落ち着いた様子で言う。
「五千円です」
「ということは……材料費四五〇〇円もしたんですか!? ならなおさら皆さん定価で売り切れさせましょう!」
「それはどうもありがとうございます」
「そう言えば中継が始まる前、従業員さんに「一緒に出ない?」って聞いてましたけど、どういうご関係なんですか? 僕としては店主と従業員があれほど仲がいいってのも珍しいと思いまして」
「おい後田(うしろだ)! さすがにそれは……」
シルバー・コーストの後田が何の前触れもなく茂樹くんに尋ねた。制止する下岸の声とスタジオの笑い声が被さる。
「あ……ま、まぁ、友人……と言えばいいでしょうか。とりあえず仲がいいだけ……ですね」
彼は一瞬驚いたような表情を浮かべるとかなり言葉に詰まりながらなんとか質問に答えた。カウンターから後姿を見ているだけでもわかる彼の焦りっぷりに思わずくすっと笑ってしまう。
「カウンターのお姉さんはどうです?」
もう取り返しがつかないと悟ったのかなんと後田は「出ない」と言っていた私にも話を振ってきた。一瞬カメラがこちらに向けられそうになったが、体の前で大きくバツ印を作るとすっとカメラは元の場所に戻される。私は唐突に振られた話題と向けられそうになったカメラに動揺し
「は……はい。昔からの友人です……ただの仲良しです……」
と俯きながら言ってしまった。顔も体も全部熱くなって、顔が赤くなっているのが自分でもわかる。「ただの仲良し」という発言で誤解を生まないか心配になったが、番組的には美味しいだろうから訂正するのはやめた。
「……と、まあ少々歯切れが悪い気もしましたが、仲良しなんですね」
一瞬冷え込んだ空気を払拭するように下岸が話をまとめて、何とか話題はチョコレートケーキへと戻される。赤くなった顔を抑えながら、後田はこの後大目玉だなと思うとほんの少しだけ笑えてしまった。
「ではスタジオの皆さんに、有名チョコレート専門店スイートラジオのクリスマスケーキ『スイートラジオスペシャル・Re:8th』をご用意しました。どうぞお召し上がりください。ということで以上、スイートラジオよりシルバー・コーストがお送りしましたー」
ずっと練習してきたように思えるほど息の合った中継の締めの後、数秒の沈黙が流れて「はい、ありがとうございました」とチーフが前に出てくる。茂樹くんはエプロンからピンマイクを外し、マイクを持っている人に手渡した。撮影時の緊張感はどこへやら、風に吹かれて和やかな雰囲気になっている。後田が茂樹くんに横から近付いて何か話しかけた。少し耳を澄ませてみると「……で、ただの……」と微かに聞こえてくる。茂樹くんはその質問に私にも聞こえないくらいの小さな声で答えると、シルバー・コーストの二人は小さく笑って茂樹くんの肩を軽く叩いていた。
「では、本日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
「それでは、機会があればまたよろしくお願いいたします」
放送局の人たちはそう言って店の外へと出ていく。シルバー・コーストを中心に楽し気なスタッフたちの談笑する声が静かな店内に聞こえて来た。
「……お疲れ様」
「これくらいで疲れていたら十時間営業なんてやっていられませんよ」
ふっと笑いながら茂樹くんはカウンターに戻って、ラベルの剥がされたペットボトルに入っている紅茶を飲む。「疲れていては」と強がっているが、彼の目元には明らか疲れの色が見えていた。
「まあ、そうだよね。じゃ、がんばろっか」
「もう少ししたらまたツアーのお客様がたくさん来られます。今日は本当に忙しいですよ」
「ん、了解」
普段のように昼の客が来ない時間帯に食べようと思っていた弁当は二時になっても蓋を開けられることはなく、バックヤードにあるリュックサックの中で寝息を立てているだろう。果たして私の弁当の蓋が開かれるのはいつになるのだろうか、そんなことを考えていると私の空腹中枢はさらに悲鳴を上げた。
バスのエンジン音が店の前で切れる。そしてたちまち店内はツアー客で埋め尽くされた。チョコレートは飛ぶように売れ、棚に在庫を追加しても十数分すればすぐに消えてしまう程。前に来た時の五倍以上は捌いたような気がしたが、それでもなおチョコレートとケーキを求める客の列は絶えなかった。今年はリニューアルオープンしたからというのもあるだろうが、毎年この数に匹敵する量の客を対応していると思うと彼に頭が上がらない思いになる。
「呉市街クリスマスツアーの皆様、集合時刻でございます」
「サンタクロースツアーの皆様、バスにお戻りください」
ガイドの声が響く店内で客は皆幸せそうに買い物をしていた。恋人と思しき女の子と腕を組む高校生くらいの男の子、父親に高いチョコレートが食べてみたいとせがむ女の子、年老いた母にどれが好みかと聞く中年女性、懐かしげにパッケージを手に取る老夫婦。彼ら全員の目には光がある。どこか楽し気で、純粋に今の時間を楽しもうとしている目。どこか儚げで、いつか来るであろう幸多い未来に想いを馳せる目。子供の頃の私には持ち合わせることがなかったその光は何故か私を悲しくさせた。
昼食も食べられぬまま時間が過ぎ、客の出入りがなくなったのは八時半を超えたあたり。
「少し早いですけど、今日はこれくらいで終わりにしましょうかね」
茂樹くんはそう呟いてカウンターから出ると、入り口の鍵をかけた。
「チョコケーキは売り切れたの?」
「ええ、ありがたいことに三時過ぎには売り切れました」
「……じゃあ、今日はどれくらい来たの?」
「普段の三倍弱……ですね。あ、今日は時給二倍と約束していましたね」
彼はレジスターから売上金を取り出し、エプロンのポケットから封筒を一枚出す。そして渋沢を三枚、柴三郎を四枚、五百円玉一枚を詰めて私に渡した。
「あ、ありがとう……」
私はそれを受け取り「一回鞄に入れてくる」と茂樹くんに伝えてバックヤードに入る。リュックサックを開けてみるとまだ弁当は蓋を閉じたまま寝息を立てていた。
「あのさ……この後、どこか行かない?」
何を思ったのか私は封筒をリュックサックにしまうとバックヤードのドアを開け、分電盤を操作している茂樹くんの上腕を叩いて尋ねてみる。
「いきなりですね……」
「クリスマスに一人ぼっちって寂しくない? って思ってさ」
「寂しいですけどいつものことですし」
「それに慣れてちゃダメでしょ」
「まぁ……そうですね」
「じゃあ決まり。どこ行く?」
「そういえばお昼を食べてませんでしたね。イルミネーション見ながら食べませんか?」
「いいね、そうしよう」
茂樹くんは「じゃあ、少し待っていてください」と言って居住区であろう場所へと行き、何かを入れた鞄を持って戻ってきた。彼はさっさと外に出ると、スイートラジオのシャッターを閉めている。
「では、行きますか」
「うん」
シャッターを完全に下ろした彼は普段見せることの少ない柔和な笑顔を見せて私を先導し、クリスマス一色に染まるくろがね通り商店街へと向かって行った。
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