暗雲のミルク

 上司が社員全員に取れ取れと言っていた有給休暇をうまく合わせて休みになった十二月二十四日、面倒なことに目覚ましを切り忘れて普段と同じ時間に目が覚めてしまった私のスマートフォンに茂樹くんから一件メッセージが届いていた。

『優花さん、前に十二月二十四日は暇だと言っていましたよね? そこでお願いなのですが、今日一日手伝っていただけませんか? 給料は普段の倍にしますので』

 彼が普段私に何かを頼むときの口調よりも更に下手に出るそれは今の状況がかなり切迫したものなのだと理解させた。

「ははっ、仕方ないなぁ」

 私はそう呟いてベッドから飛びあがる。なぜかよくわからないがほんの少しばかり声が浮いているのが自分でもわかった。結局普段通り仕事に行く前のルーティンを済ませ、コンビニの冷凍食品を解凍して詰めただけの弁当を用意してからクローゼットの中からスーツではなく適当に目の前にあった少しオーバーサイズのパーカーとジーンズを取り出す。アラサーの私がこんな若い子が着るような恰好をして問題ないか少し不安だったが、たまには気持ちを若い頃に戻しても悪くないなと言い聞かせて寝間着からそれに着替えた。ハンガーラックに掛けっぱなしにしていたこの前のリュックサックを取り上げてその中に外出に必要なものすべてを詰め込み、最後にスイートラジオのエプロンも入れる。

「なーんでこう、休みだったはずの日にこうなるかな……」

 玄関を飛び出して、薄水色の空の下を助けを求める茂樹くんが待つスイートラジオへと向かって行った。クリスマス・イブの朝、今日の夜には仁方の街にもたくさんのサンタクロースがやってくることだろう。



 スイートラジオの前につくと、茂樹くんは閉まったシャッターにもたれながら眉間に手を当てていた。

「おはよ、茂樹くん」

「ああ、おはようございます」

「どうしたのさそんなに考え込んじゃって」

「いや……昨日の午前中にヒシマキから二十億円で『スイートラジオ』の商標を一年間借用させてくれという商談があったんですがね……」

「に、二十……!?」

 人生で身近な人から聞くとは思わなかったどこかの市の予算並みの額面に思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。二十億もあれば税金に追われるだろうが数十年遊んで生きる分には困らなそうだ。

「そうです。去年の年間売り上げの約三倍弱ですね」

「ってなると、スイートラジオは年商七億ってこと!?」

 純利益を求めればもう少し低くなるだろうが、それでもやっぱり贅沢して生きても困らないだろう額を毎年得ているということ。まさか小中と虐げられていた人間がここまで昇り詰めるとは、さすが茂樹くんと言ったところだろう。

「まぁ、そうですね。あまり使う気にもならないので貯金が増えていく一方ですが」

「合コンとかしたらさぞモテることでしょうに」

 ルックスは個人的主観を交えれば中の上の上。それに向かうところほぼ敵なしの財力である。特にこの年代になってくると『財産』イコール『ステータス』になってくるから、こんな優良物件を狙わない阿呆なんて居る訳がないだろう。むしろ今まで売れ残っているのが不思議でならない。

「まぁモテないと言えば嘘になりますが、お金を武器にして女性と付き合ってもろくなことにならないというのは自明の理です」

「なんで? 後から好きになることだってできると思うんだけど」

「お金がなくなれば最悪殺されかねません。それに、お金で寄ってくる人は私のことなど見ていません」

「まぁ、そうだよね……」

 自営業ならではの贅沢すぎる悩みに超越的な何かを感じつつ彼の話は適当に流す。確かにお金があればオールオッケーという訳でもないし、男を金でしか見ていない女なんて程度が知れているような気もする。

「話がそれましたが、とにかく三年分の売上に相当する大金が入るかもしれない契約です。条件も悪くないですし、契約しても問題はなさそうなのですが……」

「じゃあ契約すればいいじゃん」

「ただ、どうしても怪しいと思ってしまうんですよねぇ……」

「なんで? 二十億も投げてくれるなら大丈夫だと思うけどね」

「たしかに二十億ともなるとヒシマキの年間純利の総額に相当します。ですが……それにしても怪しすぎるんです。あれほど強引に不利な契約を迫ってきたあのヒシマキが、一年間の借用だけというあり得ない程好意的な条件を提示し、契約を迫ってきたりもしないのはあまりにも不思議すぎる。今回も何か企んでいるのかもしれないと思ってしまうんですよね」

 私も彼の言う怪しさについては理解できるが、前回の失敗を踏まえてこのような行動を取っているとも考えられる以上ヒシマキに裏があるとは断言できない。なるべく茂樹くんに心労をかけさせないように「考えすぎじゃないの?」と言ってみた。彼は少し心配げな顔をしてから「そうだといいんですけどね……」と弱く零した。


「あ、そろそろ店を開けないと……」

 茂樹くんはそう言ってシャッターを持ち上げると、リフォーム前から変わらない店の横にある通用口に入っていく。私も彼の後ろについて行き、勝手口からスイートラジオの中へと入った。

「じゃあ、バックヤードで準備していてください」

「ん、わかった」

 私は彼の言うようにバックヤードに入って、リュックサックからエプロンを取り出してストラップを首にかける。

「なにその本?」

 私が一通りの準備を終えて椅子に座っていると、茂樹くんはどこからともなく一冊のビジネス書と思しき分厚い本を持ってきた。

「『戦略戦術経営ヒント集』です」

「なんかすごそうな名前」

「ええ、凄いですよこれは。この本は僕の守り神と言っても過言ではありません。店のピンチをこれに何度も救われてきました」

「いくらしたの?」

「えー、定価が四千円なので……買った時の税率が八パーセントだったので四三二〇円ですね」

「やけに安上がりな神様だね……」

「神様はお金で計れない価値を持つからこそ安くていいんですよ。ある人を本当にきちんと守ってくれる神様は、もちろんその人の財布も守ってくれるはずです」

「はええ……でも言われてみればそうかも」

 茂樹くんは私と対面になるように座って本を撫でながら話し続ける。

「ですから、今新聞の折込広告に出回っている高価な偶像たちが守ってくれると信じるのは救われない人たちです。本当に守られる人は、そんな偶像なんかが守ってくれないことを知っていると思います」

「たしかに神頼みだけでは何も解決しないけど……」

「それに、いつも同じように助けてくれるのは確かな知識と先見の明です。それがなければ生きていけないですから」

「……そうだね」

 彼は一頻り喋った後、カウンター側の入り口にある時計を眺めると手に持った本をぱたんと置いて「話が変わりますが……」と前置いて再び話を始めた。

「契約の摘要と比べてみましょうか。

 イ.ヒシマキはスイートラジオの商標である『スイートラジオ』および『SWEET RADIO』を一年間借用する権利をスイートラジオから購入する。

 ロ.ヒシマキは山茂樹プロデュースによるチョコレート『HISIMAKI×SWEET RADIO』を販売する。この利益の三分の二はスイートラジオに折半する。

 ハ.販路拡大のためにCMを全国区で放送し、さらに海外にも期間限定の直営店を展開する。

 これらの利益もスイートラジオに折半し、CMの費用は全額ヒシマキの負担とする……です」

「とにかく下手に出て来てる感じがする」

「そうですね……そこも引っかかります。ネームバリューはこちらの方が上ですが、ヒシマキの財力にものを言わせれば買収だってできたはず。とにかくおかしいですね……」

「まずはヒシマキの出方を探ったほうがいいかもね」

「そうですね……レシピを要求してきたら要注意です。開発に口を出す程度ならいいですが、この店の命ともいえる父の残したレシピを渡すわけにはいきません」

 茂樹くんの声は絶対に絶対にレシピは渡すまいという強い意志が感じられる。だがその言葉の裏には一抹の不安が残っているような気もした。

「さあ、もう少ししたら開店です。今日はイブなので大忙しだと思います」

「うん、わかった」

 茂樹くんと私はバックヤードを出て、開店前の最終準備を始める。店のブレーカーを上げて、コンポの電源を入れた。店内にクリスマスらしいご機嫌なBGMが流れる。

「優花さん、入り口の鍵を開けてくれませんか?」

「うん、わかった」

 私は彼の言うように入り口を開錠し、店のドアを開けた。外で待っていた数人の客が流れ込んでくる。彼らは行儀よく列を作り鞄の中を漁っていた。


「予約していましたカミシマです」

 先頭の客は一枚の紙を茂樹くんに渡す。彼はそれを見てカウンターの下にある冷蔵庫から一つケーキ箱を取り出した。

「Lサイズになります。お気をつけてお持ち帰りください」

 茂樹くんはそう言って客に箱を渡す。後ろに並んでいた他の客もお目当てのものは同じようだった。

「ケーキも売ってるんだ」

彼らが店を出た後、私は茂樹くんの横に立ってそう話しかける。

「クリスマス二日限定です。予約制と少しの当日分でやってます」

「へえ、凄いじゃん。ところでおいくら?」

「五千円ですね」

 彼は妙に誇らしげな表情をして眼鏡のフレームをくっと引き上げた。

「安くない?」

「ええ、原価厨も安心の原価率九十パーセントです」

 彼は更に「凄いだろう」と言いたげな表情へと変化し、声色も少々自慢的になっている。

「すごい……」

「さて、そろそろバスが来ますよ」

「うん、わかった」

 私はカウンターを出て、これからたくさんの客が入ってくるであろう入り口の横に立った。

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