はじまりのチョコレートポット
スイートラジオのシャッターに、茂樹くんがもたれかかっている。
「早いですね」
「それ、茂樹くんが言っちゃう?」
「ええ、三分前に来ましたからね」
彼はポケットからスマートフォンを取り出し画面を確認してそう言った。
「三分……ねぇ」
「今が七時三分です。七時過ぎ、と言ったので遅刻云々とは言いません。して……」
「あ、待って待って。私から先でもいい?」
「なんでしょうか」
先に話し出そうとしている茂樹くんを抑えて、私が先に話し出せる状況を無理やり作る。こうでもしないと、今日も渡し損ねてしまうかもしれないと思ったから。
「あ、あのさ……ちょっと目、閉じててくれる?」
「どうしてですか?」
彼の声には完全な困惑とほんの少しの疑念が混ざっているように聞こえた。どこか私が彼の話を聞かずにさっさと行ってしまうのではないか? というような恐れの感情に近いもの。異常なまでの警戒心をなるべく逆撫でしないように間を開けないようにして話す。
「渡したいものがあるんだよね」
「そう言われては、目を閉じるしかなさそうですね」
彼がそう言って目を閉じるの確認してから、私は鞄の中身、一番上に収められた取り出して「目、開けていいよ」と言った。そして彼が目を開けた次の瞬間、彼の目はまるで両親から一番欲しかったものをプレゼントに貰った子供のように光り輝く。
「包みも開けて大丈夫ですか?」
「いいよ」
私の目の前にいる茂樹くんは本当に子供のようだった。彼の頭の中では学生時代に歌っていたソ連国歌や軍歌が流れているのだろう。彼からは微かに鼻歌が聞こえてくる。聞き覚えのあるリズムかと思ったが、全くの別物で私にはわからなかった。
当の茂樹くんは丁寧に裏止めに使われた共産主義的なステッカーを丁寧に剥がし、包装紙も破らないように丁寧に開いている。全て剥がされた包装紙の下からクラフト紙が顔を覗かせると更に目の輝きを増した。そしてクラフト紙の箱を丁寧に開けると特徴的なロゴマークと『VOSTOK』と大きく書かれた説明書が現れる。
「……ボストーク!」
「どう?」
「ありがとうございます! チョコレートの再現頑張りますね!」
「良かった……茂樹くんのことだしもう持ってるかもなって思ってたよ」
「海軍仕様は持っていましたが、フルメタルの機械式は持っていません」
「別の持ってたんだ……」
海軍仕様とか、別のものとか、ミリタリーに関わるものはかなり奥深いのだと、前から中島さんと一緒にいる内に何となく知っていた気になっていたが、改めて感じた。
「それにしても、プレゼントとはかなり賭けに出ましたね」
「貰っておいてそれ言っちゃうんだー」
「あくまで感想ですからね」
「ふぅん……感想ね」
彼はクラフト紙の箱といつの間にか丁寧に折りたたまれていた包み紙を鞄にしまうと、「じゃあ、私からもいいですか?」と話し始める。
「スイートラジオは十二月十九日から営業を再開します。再開当日には限定千箱限定の特別バロタンに入ったハイミルクチョコレートを販売する予定です」
「ふんふん、それで?」
「それでなんですが、また一緒に働いてくれませんか?」
「うん、わかった」
私がそう言って小さく頷き、茂樹くんの方を再び見ると、さっきまで気付かなかった違和感に思わず尋ねてしまう。
「あれ、眼鏡どうしたの? 家に忘れて来たとか?」
「いいえ、もう持たないことにしたんです」
「なんで?」
「私ももう『子供』じゃないのでね」
「え、どゆことどゆこと」
「まぁ、そのまんまの意味ですよ」
彼はそう言ってふいと私から軽く視線を逸らす。その目は最後に会ったあの日より、幽かに光があるように感じられた。そして彼はポケットから銀紙に包まれた小さなチョコレートの粒を取り出して口に放り込む。
「あ、優花さんも食べますか? ハイミルクチョコレートの先行生産品です」
「え、欲しい」
「じゃあ、どうぞ」
彼はポケットからまた一つ銀紙に包まれたそれを出して私の手のひらに乗せた。包みを開けると、クリーミーな茶色のチョコレートが姿を現す。口に放り込むと、舌に絡みつくようにしつこく、それでいてあっさりとしたチョコレート特有の風味を感じた。
「うん……なんか美味しいけど癖が強いね」
「まぁそれが売りなのでね。私としてはカカオ九十五パーセントのウルトラハイビターも作りたかったんですが、流石に物好きしか買ってくれなさそうだったのでね」
「そりゃそうだ」
「そうですよね……」
私の言葉に一瞬物悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに「次の記念にでも作ってやろうかな?」とも言わんばかりの微笑を浮かべている。
「いきなりなんですけど、優花さんは普段カレーを作る時はチョコレートを入れますか?」
「ん、まぁ……入れるけど……」
唐突な問いかけにそう応えたが、嘘八百である。そもそも料理なんて面倒くさいからできるようにしようと思った試しもないし、なんなら食べられればいいと思っているような人間だからだ。
「普通のカレーに入れるなら冬のチョコレートの方が良いですが、辛めもしくは長時間煮込むカレーに入れるチョコレートは夏のチョコレートでもいいんです」
「へぇ……夏とか冬って区別されてるの?」
「日本の夏というのは本来チョコレートを保存するには不向きな環境なので、夏に売るものには溶けにくくするために特殊な油が入っているんです。うちのものにも少し入っていますが、メーカーのものは大量生産の都合上うちのものとは違って融点が高いだけの特殊な油なのであまり口溶けが良くないのです。しかし、かなり高温になるとちゃんと溶けて、辛みをなじませてくれる効果があるんです。今度試して見てはいかがですか?ちなみに現在売られているチョコレートは同じ種類でも夏仕様と冬仕様の二つが混在しているんですよ」
「う、うん……すごいね」
そんじょそこらの一般人には夏冬でチョコレートに差異があること自体気付かないだろうし、水を得た魚のように口が回る茂樹くんの話を何とか理解した気になって適当に相槌を打っておく。
「ありがとうございます。チョコレートはかなり奥が深い世界ですよ」
「未だに簡単なはずのレシピが再現できないもんね」
「ええ」
「朝ごはん食べたの?」
「もちろんです。今朝は豆腐一丁と味噌汁、そしてご飯ですね」
「すごいね……さすが料理人」
「どうしたんです?」
「私、めんどくさいってずっと敬遠してたせいで料理は無理なんだよ」
「じゃあ作り置きでいいじゃないですか。土日に一週間のご飯を全部作って、ジップロックに入れて冷凍しておけば楽でいいですよ」
彼の言う『楽』は私にとってなかなかに理解し難いものであった。毎日料理するというのが面倒なのではなくて、調理器具諸々を準備するのでさえ億劫だし、そもそも作ったとして焦げて到底食べられるような代物ではなくなってしまう可能性しかないからだ。
「そんな醒めた目で見ないでくださいよ……」
「だって消し炭になる未来しか見えないんだもん……」
「では、あと半月くらいは暇するので料理の仕方教えてあげましょうか?」
「え、いいの?」
「ええ、もちろん」
「じゃあ……よろしく」
あまりにも脈絡のなさすぎる約束の取り付けに少々困惑してしまったが、この上なく嫌いな料理を教えてくれるというのなら万々歳だ。それに茂樹くんとなら普通の料理教室よりも楽しく、上手くやっていけそうな気がする。
「そういえば、四時ごろに優花さんの会社が大変だって言ってましたけど、どれくらいの被害だったんですか?」
「ベルトコンベアが切れてて、制御システムの入ったハードディスクが粉々になってて、顧客情報は全部消えてて、モーターの線は元通りにしたけどまだ三週間は動きそうにないとか言ってた」
「うっわ……月曜停止魔よりも殺意が高いじゃないですか」
ここに来る前に言っていなかった被害状況を聞いた彼は絶句していた。生産ラインが三週間も動かないという痛みは私にもわかるが、経営者たる彼はその恐ろしさをよく理解しているから、こういう反応をしたのだろう。
「やばくない? ここまで来ると経営陣も大混乱だよ」
「流石に三週間も入荷がなければ、在庫があったとてパーツ店の値上げも必至ですね」
「へぇ」
「優花さんって本当に社員さんですよね?」
「いやもちろん」
「じゃあ、他人事のようにするのはやめた方がいいと思いますよ」
「わかった」
唐突に始まる彼の説教を聞き流して、スマートフォンの時間を確認してみる。プラスチッキーな画面に踊る時刻はもう七時半を過ぎていた。
「やばい、そろそろ行かないと遅れちゃうかも」
「あ、そうですか。もう少し話していたかったですがしょうがないですね」
「じゃあ、行ってくる」
「はい。仕事、頑張ってきてください」
彼の声を背に、私は動き始めた仁方の街を歩きだす。普段なら直進する交差点を、よく知らない会社名が印字された社用車と一緒に左折して、仁方港線を北に上がっていく。時折冷たい冬の風が私の体温を奪い、ぶるっと小さく震えた。スマートフォンで時刻表と現在の時刻を確認しながら歩を進めていく。次の電車はあと三分。「遅刻はするまい」と一瞬の絶望を走りに変えて、すでに電車が入っているホームに掛け込むべく改札を通った。
「二番線、ドアが閉まります。ご注意ください」
直後、そういつもの自動放送が構内に響く。そして電車はドアを閉め、さっさと呉方面へと走り去っていってしまった。
「あ、やっちゃった……」
次の電車は三十分後。遅刻は必至である。
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