空気はカカオバター
駅を出てすぐの小さな道を抜けて、県道を北に上る「どうしてこうなった」と言いたくなるような独特の形状をした交差点にかかる横断歩道を渡る。そうしてスーパーマーケット塩田の前に到着した時、まるでタイミングを見計らったかのように和徳が店から出てきた。
「どうも、和徳さん」
「どうも。そういや来月誕生日だったよね?」
「そうだね……今年はクリぼっちも回避できそうだし……ね?」
中島さんの声は和徳を前にして、普段私たち同僚に使う声よりもトーンが高く、さらに冷静そうに聞こえる割に、世間一般にはカワイイ系と言われる彼女の声から冷静さは完全に抜け落ち、もはやただの『かわいい声』に変貌していた。
「ふぅん、それは良かったね」
それは和徳も和徳で、彼も満更でもない顔をしているし、普段よりもほんの少し声が上擦っているように感じられる。
「あなたの提案じゃん」
「まぁ、それもそうだけどね」
「あ、あー……待って。いい雰囲気のところ悪いけど私もいるから……」
眼前に広がる違和感を覚えたくなるほどの濃密な空気に驚き、私は思わず声を上げてしまった。
「なんでしょう、小林先輩」
「まず一番気になったことなんだけど、いま二人はどういうやつなの……?」
「ミリオタ仲間兼十一ヶ月目」
和徳が少し不機嫌そうな声で言った。でも私は知っている、和徳は照れるとそれを隠そうと不機嫌そうな口調になることを。少し前までは祝ってやろうかな、とも思っていたがその気持ちもなぜか次第に薄れていくような気がする。
「あ、和徳さん照れてる」
「そこまで認知してるのか……」
満更でも無さそうだな手前ら! と叫びたくなったが彼らに勘付かれないようそっと引っ込めて嚙み砕いた。
「まぁもう付き合い始めて約一年ですからねぇ」
「へぇ……で、どこで知り合ったの?」
「行進曲くろがねですね」
「ふーん……そうなんだ」
そう私が言うと、中島さんはくるりと和徳の方に体を回す。
「そうそう和徳さん、今日うちの会社すっごく大変だったんだよ!?」
「どうしたの? 大口顧客に見切られたとかそういう感じ?」
「いやぁ……生産ラインが止まっちゃってさ、ベルトコンベアには薄くミシン目が入ってたし、モーターの線はあべこべにつながれてるし、モーターは回転数がいじられててギヤが粉砕するし、過充電する回路が仕込まれててコンデンサは破裂するし、制御に使うパソコンのハードディスクは中で粉々になってたし……」
「それどこの諜報機関の破壊工作?」
和徳は一瞬驚いたような顔を浮かべたと思えばすぐにそれを崩して笑った。
「さぁ、ГПУ(ゲーペーウー)とかそのあたりかな……ってそういうのじゃなくて、最近話題の月曜停止魔っぽい手口だけど違うんだよね……」
「月曜停止魔……? なにそれ」
「最近製造業を恐怖のどん底に叩き落してる奇怪な噂」
「そんなのがあるんだ。で、どういうやつなの?」
「月曜日に工場のラインが破壊工作されてて停止させられるっていう事件が多発してる……っていう噂」
「その破壊工作は全部同一犯ってこと?」
「そうらしいよ、ラジオスタイルや週間エリアにも特集記事が組まれてるし」
「へえ……でもそれとは違うって?」
「私の見立てだと、これは月曜停止魔を騙って私怨を晴らそうとしている月曜停止魔ではない犯人の仕業だと思うの」
「どうして?」
ころころと表情を変えながら和徳は彼女の説明を聞いている。ただその顔は一貫して内容をあまり受け入れられていないようだった。
「うちに送られてきた封筒が少し高いやつだったの。停止魔は私が知ってる限りでは予告状を安い封筒に入れてたから……」
「なるほど……まるで探偵だね」
「へへ、ありがと」
再び始まった砂糖の配分を間違えた生クリームのような重く、甘ったるい空気は私の気分をどん底まで叩き落とす。これが勝手な私怨だということも、ただの嫉妬だということも理解しているけれど、どうもこの後に和徳と茂樹くんの話をする気にはなれなかった。
「じゃあ、なんかお邪魔するのも悪いから私は帰るね」
そう言い残して、私は彼らに背を向けて元来た道を引き返す。二車線のくせに少し道幅が広い県道を次は小さな水路に沿って南へ下がって行く。港の側からは荷台がからっぽの小ぶりのダンプカーが私の横を通り過ぎて行った。横の水路は次第に大きくなり、いつもの踏切に差し掛かったとき、時間帯の割にがらんとした快速が私の目の前を通り過ぎた。
冷たい北風がアパートに繋がる路地を歩く私の背中を、まるで鼻で笑うかのようにふっと撫でる。一軒家の柔らかい光の門灯も、どこからか漂う料理の匂いも、八割が嫉妬で構成される私の心には大きな杭となって突き刺さった。
「あーあ、なんかもう嫌になっちゃう……」
大きな溜息と共にそう零した私は玄関の戸を開けると、そのまま社用鞄をダイニングテーブルの上に投げ置いてクローゼットの前へ向かう。そしてバスタオルと着替えを手に取って風呂場に向かった。
とぷん、と湯気で煙った浴室にかわいらしい音が響く。私は「ふぁぁ」と情けない声をあげながら一日の疲れを投げ出した。体全体の力を抜くと、下半身がお湯に浮く。そのまま思考も一緒に投げ出してやろうと思ったが、ふと頭にあの時計の事が浮かんできた。
「あ、時計……明日でいいかな……」
そう呟いて並々と張られたお湯を顔に掛ける。直後、暖まっているはずなのに背筋が凍り付くような感覚に苛まれた。
「こうやって先延ばししていると、いつまでも先延ばしにすることになるのでは……?」
それはダメだ、という思いが湧き上がってくる。でも今日はもう渡せない。大急ぎで浴室から出ると、寒さにも気づかず、全身びしょ濡れのままでダイニングテーブルの上に置かれている付箋とボールペンを手に取って『明日 時計 絶対に渡す』と書き殴ってまた浴室に戻った。一瞬で冷え切った身体が温度差で粟立つような感覚を覚える。数分身体を暖めなおし、大雑把に浴室を掃除して体に付いた粗方の水分を取り、寝間着に着替えた。
「夜ご飯どうしよ……コンビニ行くの忘れたしなぁ……」
徒歩十分圏内にコンビニがあるとはいえ、お風呂に入った後にまた外に出るのが煩わしすぎて「もう家にある物で何とかしよう」と決めて冷蔵庫を開ける。
「いや、まともに使えるの白菜だけ……?」
私の目の前で白菜は「ぼくがいるよ!」となぜか勝ち誇ったような表情をしながらこちらを伺っていた。仕方がないので彼を冷蔵庫から引っ張り出し、まな板の上で容赦なく切り刻んでやる。切り刻まれた彼にちょうど良い相手はいないかとキッチン下の収納を覗くと、醤油や胡椒の隙間で怯えている塩昆布がいた。
「あ、ちょうどいいのいるじゃん」
そう呟いて手前にある醤油たちを退かし、「嫌だ!」と叫んでいる塩昆布を出して白菜と和えて、簡単な酒のつまみを作る。
小皿の上に乗った彼らを箸でぐるぐると混ぜている時、ふと「優花ってズボラだからさ、そうやってろくでもない縁にしかめぐり合わないんだと思うよ」と大昔に大学の同級生から頂いた『お言葉』が斜め上から矢のように突き刺してきた。
「あーあ、もう! なんでよ!」
やり場のない怒りと嫉妬と不安感をダイニングテーブルの上に置かれた社用鞄に押し付ける。ベッドの上に投げられた鞄はコイルスプリングに跳ね返され、少し跳ねあがった。そして広くなったそこに白菜の塩昆布和えとノンアルコールビールを壊れない程度に力いっぱい置く。
「正直、アルコール入れたいけどな……明日仕事だし、今だったら冷蔵庫の中身が空になりそうだし」
そう呟いてプルタブを引き、そのまま口を付けた。
すっと、永い眠りから覚めたような感覚がして、顔を上げる。嵌め殺しだったはずの窓から吹く隙間風が私の身体を冷やしている。昔母と暮らしていた家。今ではすっかり見ることのなくなった分厚いテレビ。不思議な構造をした食卓の上の吊り下げ電球。私の眼前には懐かしい光景が広がっていた。夢かと問うと現実だと答え、現実かと問うと夢だと答えられる、良くも悪くも現実味の無い空間だった。
唐突にけたたましく鳴る電話の音、そして近付いてくる一つの足音。私は振り返った。視界に入る一つの人影は私にそれが母であるということを認識させ、電話を取った直後の声でさらに確実性を高くした。
「はい、小林です」
受話器と耳に少し隙間を開ける母の癖は健在だった。そこから微かに漏れ出す男の声は「呉署の長谷部……」と言っているように聞こえた。
「え、優花が……?」
母が私の名前を言った瞬間、彼女の口調が一気に深刻なものになった。私はさして非行少女という訳ではないし、時々学校の備品を壊したりして生徒指導を受けるくらいで警察のお世話になるような事とは無縁なはず。
「はい……わかりました。今すぐ向かいます」
彼女が受話器を置き、台所へ駆けていく。コップに水道水をいくらか溜めて一気に飲み干したと思えばコートハンガーから上着と鞄を取り上げて、財布と水のペットボトルを入れて、再び電話の前に立った。電話帳から一つの番号を探し出すと、彼女はそこに電話を掛ける。
「……迎車をお願いします。仁方駅前のロータリーで。はい。よろしくお願いします」
また受話器を置き直すと、彼女は食卓の椅子に掛けられた上着を羽織って鞄を取り上げる。そして玄関へ向かって歩き出す。
「お母さん! 私ここにいるよ!?」
そう叫んで彼女の後を追おうとしたが、リビングから外に出るドアの手前で得体の知れない力に行く先を阻まれる。
「なんでっ……なんで!」
私はそれを振り払おうとして力を込めるが、それも込める力に比例して強くなっていく。玄関のドアがバタンと閉まる音、鍵が閉められる音と振動が我が家に伝わったとき、得体の知れない力は消失し、私はその場に崩れ落ちたまま意識が闇に落とされた。
気が付くと、私はダイニングテーブルの上に突っ伏して眠りに落ちていた。頬には涙の流れた感触が、目尻には僅かに涙が残っている。体を起こすと、テーブルの上には食事を始めた時には存在していなかった発泡酒の空き缶が数本転がっていた。そして時計の針は午前四時を少し回った位を指し、いつの間にか起動されていたラジオからは「東京FMから全国四十七局ネットでお送りいたしました」と渋い声のパーソナリティーが番組の締めをしている。
「あーあ……やっちゃったなぁ……」
私はどうやらノンアルコールでは飽き足らず安酒まで手を出していたようだ。暖房のせいか、アルコールのせいか頭がぼうっとする。
「もう、起きとくしかないよね」
私はテーブルの上に転がった缶をシンクに放り込んで、食品庫からパックご飯を取り出し、温めボタンを押した。かなり早い今日の朝食は昨日のおつまみだ。
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