Ⅰ-Ⅲ チューニング
パニックのカカオマス
「おはよーございまーす」
いつものように気の抜けた挨拶を晒しながら、タイムカードを押してオフィスに入る。
「あ、小林さん……おはよう……」
目の前の金森課長は競馬で大損こいた人のような雰囲気を纏い、今にも気絶してしまいそうな弱った声で言った。
「え、どうしたんですか!? 始業前にトラブルですか?」
「ああその通りだよ小林さん……大変だ、生産ラインが止まった」
がっくりとデスクに肘をついて項垂れる課長は「やばい……やばい……」と何度も何度も繰り返している。
「修理にどれくらいかかりそうですか?」
「わからん、ただ報告だとコンベアが切れたみたいだ。どれくらいかかるかもわからん」
「えぇ……」
「交換部品も無いみたいでな、製造部長の宇山さんが業者に連絡してる」
金森課長の視線の先、オフィスの隅にある電話の前で宇山部長がメモを見ながら部品の名前を一つ一つ言って落胆していた。
「じゃあ営業部(こっち)は……」
「始業後に全取引先に納入遅延の連絡だ」
「わかりました」
金森課長の報告と指示に頷いて、私は自分のデスクに荷物を置き、パソコンの電源を入れた。起動を待つ間、私物入りの引き出しから付箋とボールペンを出し、『納入遅延 連絡 全取引先』と書き込んで画面の縁に貼り付けた。
『MARテック(まーてっく)広島』――私が勤めている従業員約五百人の電子部品製造会社の総本山。真空管やトランジスタ、ゲルマニウムダイオードなど民生用では主にホビーやラジオに使われる、現代のラジオ社会になくてはならない必需品でもある電子部品を生産している。主力商品のラジオの組み立ては各地の工場に任せ、精密さが要求される部品を本社の工場で全て生産しているのだ。
「ここはどうなってる? 試してみろ」
「はい」
絶望的な空気を外に流してやろうと窓を開けると、階下の製造ラインは慌ただしく動いていた。そしてその会話を打ち消すように「なんだって!?」という叫び声がオフィスに反響してきた。その直後に階段を駆け上がる音が聞こえて来たと思えば、作業服を着て始業前だというのに大汗をかいた中年工員が勢いよくドアを開けて、宇山部長に何かを耳打ちした。
「それは本当?」
受話器を置いて、マイクの部分に手を当てた宇山部長が工員に尋ねる。彼は黙ったまま頷いた。宇山部長は「それでは、よろしくお願いします」と言って受話器を置き、工員が開けっ放しにしていたドアを抜けて
「社長! 社長ーッ!」
と叫びながら階段を駆け上がって行った。
「溝口(みぞぐち)チーフ、何が起こってるんですか?」
「コンベアのモータの線がね、あべこべにね……」
私はひとりぽつんと取り残されてしまった中年工員(チーフ)に尋ねてみた。
「あべこべ……!? つまるところ……」
「何者かによる破壊工作の可能性が」
「そんなにうちの会社は恨みを買うような事してましたっけ……? で、どうしましょうか」
「どうすると言われましても、被害届を出すことくらいしか……」
「そうですよね……」
そう話している時、宇山部長と社長が階段を降りてオフィスに入ってきた。
「金森くん、まさかあれが本当に起こるとはね……」
「どういうことですか?」
金森課長は社長が言った意味が理解できていないのか、記憶の海を航海するように目を泳がせている。
「いや、この前私宛に差出人不明の手紙が来ただろう?」
「ああ、そんなこともありましたね」
「あれに『ラインが止まれば分かるだろう』とか書いてあったじゃないか」
「そうでしたね」
どうやら課長は合点がいったようで、険しい顔がさらに深刻そうな表情へと変化した。
「あの郵便は切手を貼らずに、ここの住所を書いただけで投函されていた。筆跡を隠していたのも怪しい……」
社長は顎をさすりながら説明的にそう零した。
九時の始業チャイムが響いて、社長や工場スタッフ、開発部の面々が文字通り右往左往する営業部のオフィスは一気に電話の呼び出し音で騒がしくなった。
「はい、MARテック広島です。はい。そうです。納入再開の目途は今のところ……はい、よろしくお願いします」
似たような内容の話がいたるところで繰り返され、受話器を置いては取り上げて、置いては取り上げてのループ状態だ。
そして一回も鳴らなかった私のデスク近くにある電話機が「でんわだよ!」と叫ぶ。中島さんは急ぎ足でそこに向かい受話器を取り上げたと同時に録音ボタンを押した。
「はい、MARテック広島の中島です……」
彼女がそう応えてから一分も経たずに受話器は元あった場所に戻され、電話を取った本人は「犯人直々のお電話でした」と大きな溜息を吐きながら言う。社長は一度大きく目を見開いたかと思うと「流してみてくれるか?」と冷静な口調で尋ねた。
「わかりました」
中島さんはそう言って、録音再生のボタンを押す。
「……君たちのような無意味な生産者のラインはもっと前に止めておくべきだったかな? さぁて、MARテックは何時間止まるだろうね。楽しみだ」
電話機本体に付いたスピーカーから、警察官の雄姿を特集したテレビ番組で聞くような気味の悪い低い声が聞こえる。オフィスに響く犯人の声は未知なる敵からの宣戦布告を受けた政府機関のようだった。
「一一〇番に通報したから、もうすぐ警察が来てくれるだろう」
社長はそう言うと、苦虫を嚙み潰したかのような表情を浮かべる。周りの社員も皆どうすればよいのかわかっていない様子で、金森課長の「取引先への連絡を続けろ!」という指示に従うことしかできなかった。
結局終業時刻直前になってもラインが復旧することはなく、定時を超えても鑑識のような特殊な格好をした警察官がラインのあちこちに粉を振りかけ、耳かき棒の梵天のようなものではたいたり、ライトで隙間を調べたりしている。
「今日は大変でしたね……」
「中島さんはどこ行くの?」
普段なら私と逆方向なはずなのに今日は何故か私と中島さんは同じ方面のホームに立っていた。
「ちょっと、寄りたい場所があってですね……」
「どこ行くの? 仁方のほうって何もないけど……」
「和徳さんもそろそろ仕事終わりそうなので」
スマートフォンの電源を何度も点けたり消したりする彼女は小さく溜息を吐いて、鞄の奥底にスマートフォンをしまう。彼女の言葉と行動でどんな用なのかが粗方想像できてしまった。「私にかわいいって言ったくせに、君も可愛いじゃん」と無粋なことを考えたが、あえて口には出さず、仕事モードとは違う『恋する乙女』な中島さんの横顔を眺める。もしかしたら私も時計の件であんな顔をしていたのかもしれないと思うと、妙に恥ずかしくなった。
「まもなく列車が参ります。危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください」
聞きなれた自動放送の声が響き、次第に緩やかになる規則的なリズムと硬いレーザーのようなヘッドライトが始まったばかりの夜を切り裂いてホームに滑り込んでくる。鈍い銀色の車体が軽い音を立ててドアを開けた。そこをくぐって、薄く柔くホームを照らしていた蛍光灯の明かりとともに駅を去った私たちは、暖房ではなく人の体温のせいで温かい車内を探してなんとか確保した席に素早く座ると、再び列車に遮られた会話を始めた。
「で、結局どこ行くの? まさか病院?」
「病院の近くのスーパーですね」
「何するの?」
「何って、雑談ですよ?」
中島さんは鞄の奥底にしまわれたスマートフォンを取り出してLINEを起動する。私の質問に答える冷静な声とは裏腹に画面を覗き込む目は、まるで子供が何か楽しいことを待っているような目だった。
「ってことはもしかして駅も一緒……?」
「ええ、そうですね」
「そっか、アイツ今総合病院勤めか……」
「そうですね」
その時、中島さんのスマートフォンが小さく震えた。彼女は「あっ」と小さく声を上げると、すぐにロックを解除してLINEを起動させる。
「和徳さん、『仕事終わったよ~』ですって」
彼女は和徳から送られてきた文章を読み上げた。頑張っていつものようにしようとしているのだが、その声は嬉しそうで顔を見てみると頑張って口角が上がらないように片手で抑え込んでいる。
「あ、そうだ。私も少し付いて行っていい?」
「まぁ別に構いませんけど……どうしてですか?」
「いやぁ、話すことがあってさ」
「なんですか?」
さっきまでの嬉しそうな様子はどこへやら、彼女の声はどこか不機嫌そうだった。
「私がよく行くチョコレート専門店長の話」
「もしかして同級生ですか?」
「そうだね……腐れ縁というか」
「はええ……」
中島さんはトーク画面、恐らく和徳のものであろう所に『小林さんが行きたいって言ってるんですけど』と打ち込んでさっさと電源を切り、またカバンの奥底にねじ込んだ。
列車は小さなレールの隙間を跳ね、規則正しい二つ打ちのような音を鳴らす。周りに散見されるMARテックの同僚たちは皆スマートフォンとにらめっこか、睡魔に抗えずにうとうと微睡に落ちかけていた。
「あ、小林さん。今回の件は世間を恐怖に沈めている月曜停止魔か、はたまた怨恨犯、どちらだと思います?」
「うーん……私は月曜停止魔かなって思うけど」
「理由は」
「報道されてるのと犯行の手口が一緒だからね」
私がそう言うと、中島さんは待っていましたと言わんばかりに口を開く。
「ですが、わざと似せているという可能性もありますよ」
「でも脅迫状が届くあたりから一緒じゃない?」
疑問を投げかけると、中島さんは小さく息を吐いてから
「いえ、脅迫状の封筒が違いました。MARテック(うち)に届いた封筒はコクサイのものでしたが、月曜停止魔の封筒はアサキタ商事のものです」
「なんでわかるの?」
「週刊エリア(AERA)で特集が組まれて実際の写真が載せられてましたけど、糊付けの仕方がアサキタのものなんですよね。あそこのはズレが大きいんですよ。でもこの前届いたものはズレなくぴったりしています。コクサイのハイエンド長形三号です」
「へぇ」
彼女のこういう所、物を見る力や推理力が優れている点はものすごく尊敬できる。
「怨恨犯だとしたら、一方的な逆恨みでしょうね。うちの社長が恨みを買うとなると、相当ミスをしないといけませんから」
「だよね……」
「まあ、あとは公的機関にお任せするしかないですね……」
中島さんはそう言うと、すっと立ち上がってドアの前に立った。
「次は仁方(にがた)、仁方です。切符はお近くの係員に渡すか、改札の集札箱にお入れください……IC乗車券、IC定期券は自動改札機にタッチしてください。降り口とホームの間が空いている駅、段差がある駅があります。お降りの際は足元にお気を付けください」
またいつもの聞き慣れた自動放送が響き、その後に英語で同じ内容が繰り返される。それを起点に列車はブレーキの音を高らかに鳴らして減速し始めた。やがて列車は停まり、数人を吐き出してすぐに去って行く。私たちは改札を抜けて仁方総合病院近くのスーパー、『スーパーマーケット塩田』に向かった。
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