上戸のウヰスキーボンボン
「……どういうこと?」
想像できないにしろ、何となくそれが彼にとって、いや経営者にとって大変不味い事態だったということだけはわかる。
「ヒシマキはデパートでの販売時にブランド名『スイートラジオ』を『ヒシマキスイートラジオ』に変更し、パッケージのデザインに関するすべての権利を譲渡するように要求してきたんです。それも守秘義務五年の極秘文書でね」
「守秘義務契約って……」
「ええ、違反すればそれ相応の報いを受けることになりますね。従業員たちはそんなこと知る由もないですから、私はヒシマキと彼らの間で板挟みです。ヒシマキ側の見込みでは私を窮屈にさせることで資金援助以上の大きな契約が転がり込むはずでした」
「それを何とかして回避したかったってことだね?」
大きく頷いて彼の話を嚙み砕く。少し前までの心配はどこへやら、彼の事を疑う気持ちはこれっぽっちも残っていなかった。むしろここまで来ると「同い年の癖に……」と軽く尊敬の念すら覚える。
「そうです。私は私と先代が作り上げたブランドを守り、本店への損害をなくす代わりに資金援助とヒシマキへの出店による販路拡大の攻めの一手を打たなかったんです」
「ってことは茂樹くんはちゃんと店を……」
守ったんだね。と言いたかったが言い切る前に彼が口を開く。
「残せましたよ。けれどもちろん、それを知らない従業員たちはかなり怒ってしまいましてね。結果私はひとりぼっちという訳です」
「結果はあれだけど、意味のある独断専行だったって訳だ」
「その通りです」
彼はそう言って大きく息を吸いながらジョッキに並々と注がれたビールを一気に飲み干し、ふう、と特大級の溜息を零した。
「レビューには『独断専行』と書かれていましたね。でも彼らと私、店を守りたいという思いは全員一緒だったんですよ。でも彼らは守秘義務に抵触しないように出した情報を読み取れずに、"私と"擦れ違ってしまった」
「なるほど……」
「まったく、私は店長としてやるべきことをやったまでなのに、本当にどうしてなんでしょうね……今はまだ何とか軌道に乗っているからいいですが、すれ違ってしまったおかげで従業員は私以外いませんしね」
彼はまた大きく息を吐きだすと天井にある照明を仰ぐ。そしてこちらに向き直り、更に大きな溜息を落とした。
「やっぱりさ、茂樹くんってよくすれ違うよね。昔からそんな気がする」
「そうですね……それよりも優花さん、お酒が入るときつい物言いがさらにきつくなりますね」
「あはは、よく言われる」
物言いがきついのは君もだろうが、とも思うけれど思い当たる節々がありすぎて私も彼の言うことが理解できるからそれ以上は言わないようにした。
「私もね、一人ぼっちってのは寂しいですからやめたいですよ? でもそれは無理だなって、何となく解ってるんですよ。こんな風に和解できる機会も滅多にないですし、私の近くにいたい人もあまりいるものじゃないですし」
彼は四杯目のビールを煽った。そしておもむろにトングを掴むとそれで表面の水分がかなり奪われた肉を摘まんで一気に焼き始める。
「これを食べきったらお開きにしましょうか」
「うん、そうだね」
そして再びもくもくと上がった煙とロースターが放つ熱は先の冷え切った空気を暖め、初めの和やかな雰囲気に私たちを連れ戻してくれた。じゅうじゅうとロースターの上で食欲をそそる鳴き声を上げて色付く肉たちを二人でつつきながら、私はなんでもない、単純に気になったことを聞いてみる。
「そういえば茂樹くんさ、自分の呼び方変えた?」
「いえ? 昔からの癖ですね、中学生の時は『私』だったはずです」
「そうだったっけかな……?」
中学生の時を思い出してみるが、彼と話した記憶があまり無く、申し訳ないが私以外の人と言い争っている記憶の方が多かった。ただ、その記憶はあれど彼が彼自身の事を何と言っていたかは思い出せない。
「まあ、話したことは恐らく確実に八回程度しかないので覚えていないのも当然かもしれませんけどね」
「八回……かぁ、でも言われてみたらそれくらいしか喋ってない感じがする……」
「ですね。悪口に聞こえるかもしれませんけど、優花さんは過去のことを僕ほど正確に覚えてもいないのに、僕と同じように過去に囚われているんですね……」
「……は?」
危うく……いやむしろかなり喧嘩腰になったが、茂樹くんの表情にはどこか深遠で、それでなお身近なものが見てとれた。私は箸(怒り)をそっとテーブルの上に置いた。皿に当たった先がかちゃん、と小さく音を立てる。
「過去というのは鎖のようなものです。僕たちがそれに囚われ、繋がれていたいと思えばいつまでも僕たちを離さず前進するのを阻む鎖で、首輪で、足枷です。それは僕たちが切っても切り離せないものですが、僕たちが離れて進むこと自体は止めません。まあ僕はそれに自ら囚われに行っているんですけどね」
「うん……なんかわかる。私も茂樹くんと一緒かもね」
「そうですか。私も、あなたは私と似たような人だと思いましたね」
そして、ロースターの上にいた肉たちは全て二人の胃に吸収され、残った大瓶は適当に分けて、最後に一杯ぐっと飲み干した。ふと茂樹くんの方を見てみると、彼の瞳がほんの少し潤い、反射する光が僅かに揺れていた。
「では、もういい時間ですのでお開きにでもしましょうか」
「うん、そうだね。立てる?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「合計、七六二六円になります」
「あ、じゃあこれからで」
彼はそう言って財布から渋沢と小銭を二枚出した。津田と柴三郎に分けて出さずに渋沢で済ませる辺り、やっぱり効率重視の経営者だなと感じる。
「二三八〇円のお返しです」
レシートと一緒にお釣りを受け取った彼はさっさとそれを財布にしまうとほんの少し覚束ない足取りで店の外に出て、入り口から少しそれた場所まで動くとまるで糸の切れたマリオネットのようにその場にしゃがみ込んだ。
「大丈夫!?」
「あの……な、涙が……」
彼はそうとだけ言うと上着のポケットからハンカチを取り出して涙を拭う。
「茂樹くん……大丈夫? タクシー呼ぼうか?」
「大丈夫、気にしないで。僕はもう、子供じゃないから……」
茂樹くんの口調は食事中よりも乱れていて、かなりアルコールが回ってしまっているのだとわかる。私は「やれやれ」と小さく息を吐いてから
「しょうがないなぁ、もう」
そう言ってスマートフォンを取り出し、タクシー会社に電話を掛けた。
「はい、東和交通でございます」
「迎車をお願いします。くろがね通り商店街の北口に」
「北口ですね、かしこまりました。五分ほどで到着しますので少々お待ちください」
オペレーターはそこまで言うと電話を切り、無愛想なビジートーンはツーツーと私の頭に反響した。
「ほら、タクシー呼んだから。行くよ」
「ありがとうございます……」
顔を上げた茂樹くんの頬には一髪、涙のあとが残っていた。彼はすんと洟(はな)を引っ込めて壁伝いに立ち上がる。私は彼が後ろからついてくると思って先に数歩だけ進んだが、一向についてくる気配がなかったので「ほら、行くよ!」と彼の腕を強引に引っ張ってタクシーの到着予定地へと歩き出した。
「いぃや、別に歩いてでも大丈夫ですって……」
「駄目! 酔っ払い店主が怪我でもしたらどうするの?」
九時の商店街は未だ賑わいを保ち、雑踏をかき分けるようにして歩く私たちの体格差と主客逆転の具合に周りは奇異の目を向ける。「いや、どうしたのよ……」とか「彼氏クン、彼女さんに引っ張られてんだけど。かわいいかよ」とか。
ぐずる茂樹くんを引っ張り、奇異の目に晒されながらようやく北口を抜ける。左手にある簡易ロータリーにはすでにタクシーが到着していた。どうやら茂樹くんはあの周囲の目がかなり刺さってしまったようで、私が「ほら乗って」というとよろよろと崩れ落ちるように乗り込んだ。
「お客様、どこまで」
「スイートラジオまででお願いします」
「かしこまりました」
ドライバーは軽く頷くと、サイドレバーをパーキングからドライブに入れ、サイドブレーキのペダルをぐっと踏み込んでから、アクセルペダルに体重をかけて車を走らせた。夕闇に光る街灯の光がぐったりとした茂樹くんの横顔を照らしている。数年前から小中一貫になった仁方小中の横を越え、コンビニのある交差点で曲がる。十分くらいの短い、見慣れた場所しか通らない旅を終えてスイートラジオに辿り着いた。
「七七〇円です」
「わかりました」
私は鞄から財布を出し、柴三郎をドライバーに手渡して二三〇円を受け取る。財布をしまった時、時計の入った箱の角が私の手の甲に「出番だよ」と言っているかのように当たっていた。茂樹くんは何とか自力で降車して、鞄を漁っていた。
「鍵はある?」
「ええ、ありますよ。じゃあ、店で休みます……」
私の問いに力のない声で答えた彼はそのまま、まだまだ覚束ない足取りで細い通用口へ歩いて行く。そして小さく鍵を開ける音とドアが閉まる音を聞いた私は「なんかちょっと、面白いものを見た気もするな」と呟いて、再び家路についた。海側から来たトラックが私を追い越し、ぶわっと強い風が吹いて私の身体を少し前にする。その風に押されて前に進む感覚が気持ちよくて、そのまま私は意味もなく駆け出した。スニーカーの踵が地面に当たって視界とまた少し伸びた髪が上下に揺れる。時折段差に躓き足がもつれるが、何とか持ち直して走り続けた。降りた遮断機の光が目に入って私は足を緩め、手前で立ち止まる。上がった体温は吹き付ける冷たい北風なんてものは感じさせず、あがった息も体の中の悪い空気が抜け出し、新しい空気が入ってくるように感じられた。
そこからは荒くなった息を整えるようにゆっくりとアパートに続く路地を歩く。少し前まで明滅していた蛍光灯は気付かぬうちに交換されている。スマートフォンを取り出して、ケースについた小さなポケットから自室の鍵を出した。そして自室の鍵を開けて、ドアノブを捻った。
「ただいま~」
明かりの無い自室に私の声が響く。誰も「おかえり」とは返してくれない。二十二世紀の青くて丸いロボットとか、黄色い亜種がいればな、とも思ったが、私は彼とでさえも上手くいきそうにないと思う。鞄を開けて今日使った洗濯が必要なものを取り出そうとした時、本来今ここにあるべきではない物が見えてしまった。
「あ、時計……まぁ今度でいいか」
私はそれを『あるべきではない物』から『あってもおかしくない物』に認識を変え、ラジオの置いてある台の上に優しく置く。中身を抜いた鞄はハンガーラックの縁に掛けて、今日着たコートはラックに付いたハンガーにかけた。
「あー、なんかそんなに飲んでないのに回ってるな……」
夕方以降蓄積された疲労に抗うことはできず、「明日の朝にシャワー浴びればいいや」と呟いて部屋の電気を落とす。手に持ったスマートフォンはナイトテーブルの上にあるワイヤレス充電器に乗せて、私はベッドに身を投げた。少しスプリングが軋み、僅かに揺れる。肩まで布団を被った頃にはもう意識は薄れかけて、数分もしないうちに眠りに落ちた。
「……!?」
はっと目が冴えて、がばっと起き上がった。咄嗟に手に取ったスマートフォンの画面をつけてみると、『06:19 A.M.』とナイトモードで暗くなった背景の上に無機質な文字が躍っている。
「あ、お風呂入らなきゃ」
昨日着ていた焼肉の匂いが付いた服のまま押し入れにあるバスタオルとフェイスタオルを取って風呂場へと向かう。髪の毛を軽くブラッシングしてから服と下着を脱いだ。仕事の終わりが遅く、風呂に入らずに寝てしまった翌日は少しばかり胸が痛くなったりするのだが、緩めのブラをつけていたからだろうか。珍しく今回は痛まなかった。そして服と下着は別に分けてネットに入れ、洗濯機に突っ込む。そして私は浴室の電気をつけてドアを開けた。
風呂椅子に座った私はシャワーの握りを捻り、体中に湯を浴びせてからボディソープを泡立てて身体に纏わせる。ふわふわとした泡が昨日から纏わり付いていた焼肉の雰囲気と走った時の汗を吸い上げた。腕、太腿、体全体を普段よりも丁寧に洗う。一通り洗えたかな、という具合を見てシャワーをもう一度浴びて身体はすっきり。頭も顔も普段よりも丁寧に洗って、コンディショナーは時間がないからパス。浴槽に浸かっている暇はあるが、朝にお湯を張るのが面倒なのでそれもパス。浴室に持ち込んだフェイスタオルで体の水分を取って外に出た。
「あ、タオルしか持ってきてなかった! てかめっちゃ寒いし!」
脱衣所に出た時、今日着るための服を持ってきていないことを思い出してしまう。バスタオルで何とか誤魔化し、「寒い寒い」と嘆きながら遠い押し入れに向かって行った。今日は冬の入り口、そして早朝。そして何と言ってもバスタオル一枚。このままでいれば矛盾脱衣までいってしまいそうな程である。何とか下着とワイシャツを取り出して、それを大急ぎで着る。こういう時に限って震える手が下着をつける枷になるのが非常に鬱陶しい。数分に及ぶ下着とスーツとの格闘が終わると、時間はもう七時を過ぎていた。
「あ、やっば……」
私は猛ダッシュで脱衣所に戻ると、生乾きの髪をドライヤーで乾かす。出力の弱った古いドライヤーが恨めしく思えた。
昨日風呂に入るのを諦めた私に「何を怠けている!」とかの国の将軍のような鉄拳制裁を加えてやりたい衝動に駆られたが、過去の私は今の私。「何をしてたのよ私!」と言って自分の頬を優しく叩いて、少し緩めて余った分のエネルギーを食パンを入れたトースターのレバーに与えた。彼は「ガシャン!」と普通のトースターが出すことは絶対にないであろう叫び声をあげて、じりじりと震えるような音を立てながら大人しくパンを焼き始めた。その間に私はマグカップにインスタントのコーヒーを注いで、冷蔵庫から数日前の調味料の配分を間違えてしまった作り置きを取り出した。
それからトースターくんが頑張って焼き上げてくれたパンにチョコレートスプレッドを塗りたくって、いつものように台所で立ったまま口に運んだ。ラジオ台の前に置かれた小ぶりなダイニングテーブルは休日にしか本来の仕事をせず、それ以外の時は大体物置きにされている。最近になって「つかってくれよ」というダイニングテーブルの悲痛な叫びが聞こえるようになってきた気がした。
ぶるる、ぶるる、とナイトテーブルの上で充電されているスマートフォンが震える。チョコレートまみれのパンを飲み込んで、マグカップ片手にベッドに腰かけて画面を確認した。「07:23」と書かれた時刻の下には『新着メッセージ』と角の無い長方形が浮かんでいる。この時間帯に送ってくる人間と言えばもう一人しかいない。
「やっぱ中島さんか……」
私は溜息と一緒にそう零すと、ロックを解除してLINEを開いた。
『昨日、どうでした?』
きらきらと星を浮かべるジンベイザメのスタンプが一緒に添えられたその言葉はそれ以上の説明なしでも時計だということが理解できてしまう。
『時計の事だよね? 渡せなかった』
『どうしてですか?』
『渡そうと思ってたけど渡せなかった』
『ふーん』
次にそう送られてきた後、虚ろな目でこちらを見るジンベイザメのスタンプが飛んでくる。思わず吹き出しそうになったが、コーヒーも同じ運命を辿ってしまうのでぐっと堪えた。
『そういえばさ、私を実験台に~とか言ってたけど実験で得られたデータをどうするつもりだったの?』
『それ聞きます?』
ぎょっと目を見開くウーパールーパーが文字を追ってついてくる。
『いや、聞くしかないでしょ』
『仕方ないですね……私、好きな人がいるんですよ』
そう送られてきたとき、私は思わず「えぇっ!?」と声を上げて立ち上がってしまった。
『へえ』
『へえ、ってなんですか へえって』
現実での口調と全く一緒の喋り方に本人の声が頭の中で再生されてしまう。
『続きは?』
『それで、その人もミリオタなんですけど、その人へのプレゼントの渡し方を考えたいので……』
『なるほ』
『おわかりいただけましたか?』
『で、好きな人って誰なの?』
『田中和徳です。たぶん先輩もご存じかと』
彼女から贈られてきたメッセージに少し驚きを隠せず、声を上げてしまう。もっとも、彼女には見えないし、聞こえないのだが。
『かずのりね……』
『中学の同級生と聞きましたよ』
『そうだね』
『じゃあ、続きは職場ででも』
彼女は最後に「またあとで」と棒人間が手を振るスタンプを貼り付けて、会話を切り上げた。時刻表示を見るともう八時手前。シンクにマグカップを置いてから洗面台に向き合って化粧水、美容液、乳液の順に顔にはたいて適当に化粧をする。そして仕事用の鞄に財布や痛み止め、その他必要なものを詰めてハンガーラックからジャケットとコートを取り、それを羽織る。
「よし、今日も頑張りますか!」
玄関の前で自分を元気づけて、仕事に向かった。
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