白状のカカオリカー
店に入ると一番最初に出迎えたのは店員ではなくファミリーレストランによくある受付表とそれを置くためだけの台だった。
「あ、私が書いておきますので優花さんは先に待っていてください」
「ん、ありがと」
私は彼の言うように先に座って待たせてもらい、彼は記名台に『ヤマ』と二文字書き込んでから私の横、少しの感覚を開けて腰を下ろす。
「そういえば優花さん、今日は遅れてきましたけど何か用事でもされてたんですか?」
そして僅かの沈黙の後、彼はそう言ってこちらを向いた。
「え!? あ、あー……会社の後輩とちょっと……ね。買い物しててさ」
「……?」
唐突にされた質問に、「茂樹くんのために時計を探してた」と言えるはずもなく、自分で見ても明らかな程に吃ってしまう。茂樹くんはいつものような不思議なものを見るような目でこちらを見、不意に通りがかった誰かも知らない人にも訝しげな眼を向けられた。もう取り繕っても無駄だと諦めかけた時
「二名でお待ちの『ヤマ』様、お席の準備ができました」
奥から女子高生と思しきアルバイトであろう店員が記名台の名前を確認して読み上げる。「助かった……?」 心で大きな安堵のため息を漏らすが、果たして本当に大丈夫だったのだろうか。ほんの一握りの後悔を握りつぶして、先に立ち上がった茂樹くんの背中を追う。
「十五番テーブルです。どうぞ、ごゆっくりと」
渡された案内票に指定された席に向かい、対面になるように腰を下ろす。ほんの数年前まではこういうことも忌避されていたが、今となっては反動のように普通の日常に逆戻り。丸一年経ったというのに終息宣言直後の賑わいは衰えることを知らない。特に休日の夕方となればそれは顕著である。周りのテーブル席のほとんどは埋まり、日本国民がどれだけ鬱憤を貯め込んでいたかが理解できた。私は今も昔も職に就いてからはあまり外出しない質だったのでその気分はよくわからないのだが。
「ご注文がお決まりでしたらお伺いいたします」
先程案内してくれた店員が水の入ったコップと夏でもないのに氷がこれでもかとばかりに詰め込まれたピッチャーを持ってやってきた。
「大盛サラダ二皿とタンとハラミ、それからカルビでいいですか?」
「サラダ……なんで二皿?」
「全部僕が食べます」
「……え?」
「僕が食べます」
サラダを二皿も、さらに大盛とはよく食べられたものである。私には到底食べきれる気がしない。かなり美味しくても、野菜独特の食感ですぐに飽きてしまいそうだ。そして驚きのあまり彼からメニューを奪い取って大盛サラダの写真を確認する。
「……いや、冗談でしょ」
「いいえ、ちゃんと僕が食べますよ?」
「えぇ……」
理解し切れず彼の身体とメニューのサラダを交互に見る。あの身体にこれが二つも入るのか? 彼を構成しているのはもしかして植物性タンパクだけなのか? そう考え込む私をよそに彼は
「大盛サラダ二皿とタンとハラミ、それからカルビと……ささみを二つお願いします」
横でにこやかな笑顔を見せながら今か今かと注文を待っている店員に注文を伝えた。彼女は注文内容を復唱して間違いがないことを確認してからほんの少し急ぎ足で厨房の方へと向かって行った。
私たちが「調子はどうだった?」とか「最近何してた?」と他愛もない話を繰り広げていると、先とは別の店員が配膳用のワゴンの上に注文したそれを全て載せてやってきて
「お待たせいたしました。ご注文のお品になります」
そう言って皿を六枚置くと、また忙しそうに別のテーブルへと歩いて行った。
私は一緒についてきたトングでタンをしっかりと挟み、網の上に落とす。ジュッという音と肉が焼ける匂いが私の空腹中枢をこれでもかとばかりにつついてくる。
「そういえば、あの時もそうだったね」
そう言いながらテーブルの隅に置かれた箸箱から箸を四本取り出し、先を握らないように気をつけて茂樹くんに渡した。
「そうですね……懐かしいとも言えませんが」
茂樹くんは金属製の箸を手に取ってサラダボウルを手前に寄せる。「肉は野菜が終わってから食べるので食べられる分だけ焼いていてください」と言って一つ目のサラダボウルと闘い始めた。
「なんで? 私としてはある意味いい思い出なんだけど……」
「僕は、過去のことをよく覚えているからです。いつまで経っても、記憶は色あせませんからね」
ひたすらに肉を焼く私の前でそう言いながら大盛りのサラダをもしゃもしゃと食べる茂樹くんは心なしか草食動物のように見える。そして炭火の煙はもくもくと上の換気口に向けて狼煙のように、彼と私の間を隔てる壁のように上っていた。
「そうだ茂樹くん、ビールって頼んでもいい?」
注文した肉が二人の胃袋に、異常な量のサラダが茂樹くんの胃袋に消えてすぐ、私は最初の水だけでは飽き足らず、そう尋ねてみた。
「お好きなようにどうぞ?」
「あ、じゃあ遠慮なく……」
私は彼の返事を聞くや否や、注文呼出用のボタンを力強く押した。
「はい、ご注文お伺いします」
また先程とは違う大学生くらいの男の子がテーブルの廊下側、隅にある伝票立てから伝票を抜いてバインダーに挟む。
「あ、じゃあ中生二つと……カルビ、ハラミ……あと大瓶を二本……」
「あと大盛サラダを」
「え?」
まだ食べるのかあんたは、と思わず口から零れそうになったが、店員の手前そんな醜態は晒せない。ぐっと唾と一緒に飲み込んで店員の「ご注文は以上でしょうか?」という言葉に静かに頷いた。そして店員が厨房に下がった時、茂樹くんはほんの少し私に対する当たりを弱めた。
「優花さんは普段どれくらいお酒を飲まれるんですか?」
「まぁ……そこそこ? 上司からは「お前と飲むと死ぬ」って言われたんだけど……」
「そこそこってレベルじゃないじゃないですか」
ものすごく引き攣った顔で、まるで未知の生命体を見るかのようなその目からは、彼がいかにお酒に弱いかがわかってしまうようだった。
「うーん、では優花さんには今度『カカオリカー』を試してもらいましょうか。カカオ豆から作られた、甘くて芳醇なお酒です」
「カカオリカー? 面白そうだね」
テーブルに置かれた二つのジョッキを互いに煽りながら、茂樹くんはそう言ってジョッキを下ろす。そして一度置いたジョッキをもう一回大きく煽ると、中身が半分より少なくなったところで彼はおもむろに話し始めた。
「何から話しましょうか?」
「あのレビューの件以外になくない?」
空気が一瞬、体感十度程下がったような気がした。妙に嫌な空気。和やかな周りから見ても明らかに異質な空気。そして沈み切ったそれを切り裂くように茂樹くんが話し始めた。
「レビューのこと以外に色々あるからこう言った訳ですが、まあ話しやすい所から順番に話させてもらいましょうか」
私は「うん」と言ってビールを一口、口に溜まった嫌な空気と一緒に流し込んだ。
「では、昔いた店員の話から始めましょう。昔、スイートラジオには新卒採用、定年退職後の再就職、兼業主婦の三人の従業員たちがいました。あの人たちはよく働いてくれましたよ。ですけど、まだ始まって間もないスイートラジオの売り上げはあまり芳しくありませんでした。そんな中、私のもとに大手デパートの『ヒシマキ(菱槇)』からの多額の資金援助の申し入れと、出店のオファーがきました」
「出店の……オファー?」
「従業員たちも私も大いに喜びました。でも私はそれを蹴りました」
彼の真剣な表情と語り口から嘘偽りはないように感じられたが、それでも未だに信じられない自分がいる。
「なんで蹴ったの?」
「その話はもう少し後にしましょう。資金援助の話は無くなり、結果従業員は皆離れていきました。まあ当然ですよね、売り上げが伸びるチャンスを無にしたようなものですから。しかしながら、スイートラジオはヒシマキの多額の援助の申し入れと出店オファーが来るような店だと大きな宣伝効果を得ました。そうして、現在の知名度があるという訳です」
「へぇ……」
本題から話さずに少し脇道から入っていくのにほんの少しイラっとしてしまう。そういえば昔からこうだったな、と思い返すが今ここでそれを言ってしまうと前のように、もしかすると前よりもひどくなってしまうなと思い、ぐっと堪えて相槌を打つ。
「ここでヒシマキのオファーに飛びついておけばもっと良かったと思われるかもしれません。でもそれは違います。あと、その前にしておくべき話があります。リフォームの件なのですが……私は昨日、優花さんが店に来た時があのメガネの初出番だったと言いましたよね」
「そうだね」
「何度脇道に逸れれば気が済むのか」と零れそうになったが、ジョッキに残った僅かなビールを言葉とを一緒に胃に押し込んで溶かす。茂樹くんも残ったビールをぐいっと飲み干し、また話し出した。
「それがあのような結末に終わって、私はとても悲しかったんです。なぜだか分かりますか?」
「新しい店員の当てがなくなったから?」
「いいえ、違います」
ビールをジョッキに注ぎながら彼は小さく首を振る。
「じゃあ……変わった自分を主張できないから?」
「そうでもありません。あえて今言いますが、私は優花さんが店に来たとき、過去の色々を再構築できると思って本当に嬉しかったんです。私は過去に色々ありました、それは優花さんもご存じでしょう? その色々を上書きできると思うと、とても嬉しくて……」
「上書き……? とても嬉しい……?」
珍しく普段よりもよくアルコールが回り、真面目に考えたい本心とは裏腹に軽く麻痺した脳でしか考えられず、言いたいことさえ纏まらずについには彼に追い越されてしまった。
「ええ。過去のことで私には良いイメージもあまりないでしょう? 私も優花さんに対する良いイメージはあまりありません。それでも私は嬉しかったんです。なぜかって、過去の悪いイメージを払拭して新しいイメージを作れるからです。でも、あんな結果になって、あなたも悲しかったかもしれません。どうですか?」
「確かに茂樹くんが変わってないって思ったよ、正直悲しくはなかったけど」
私も茂樹くんも喋りながら、この異常なほどに重苦しい空気をなるべく感じないようにビールを少しジョッキに注いでは飲み干して、注いでは飲み干してを繰り返していた。周りの和気藹々とした空気とは全くもって違う絶対零度までに冷え込んだ空気は十数分前に配膳されたハラミとカルビの表面の水分をじわじわと奪って、しまいには凍らせてしまうのではと思えた。
「何にせよ、あなたも過去の悪いイメージを変えたかったんでしょう? なら私たちは同じことを目指していたわけです。なのにすれ違ってしまった」
「必要だったのは情報の共有……ってこと?」
彼は顔の前で手を組んで、下半分を隠すようにして肘をついた。
「まあ企業的に言うとそうなりますね。でも、情報の共有ができない状況になっていたらどうでしょう。ちなみにあの時は情報の共有がまったくできなかったんです。むしろ、しようと思ってもできなかった」
「なんでまた……?」
「デパートが出店オファーをする際の条件の開示は、責任者に限っても違法ではありません。ヒシマキはそれを逆手に取ってきたんです……」
茂樹くんが嘆くように、恨めしそうに言い放った言葉は、自営業ではない企業勤めの私にとっては全くもって想像できない、現代資本主義の恐ろしさの片鱗を感じさせるような言葉だった。
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