Ⅰ-Ⅱ ガリオーム
癇癪のアラザン
私が茂樹くんと再会してから約三か月が経った。十一月の風はもう秋から冬に変わって、ほんの少しだけ肌寒い。あの日を機に全く関わりの無くなったスイートラジオは今も賑わっていることだろう。彼がああいうことを言う時はたいていが脅しだと知っているから、特に深刻にも考えていなかった。
仕事も休みで特にするべきこともない暇な土曜の午後、私は散歩『がてら』にスイートラジオへ行ってみることにした。
いつものショルダーバッグを片手に、軽く上にデニムジャケットを羽織り玄関を出る。ひゅうと風が吹いて、隣室の前に置かれた古新聞を縛っている紐を倒した。カンカンと鉄の階段を下って細い路地に出ると、さらに強い風が吹いて私の身体をさらに冷やした。少し歩いて橋を渡り、ふと違和感を覚える。
「あれ……?」
遠目でも見えるはずのスイートラジオ前の行列が消えていた。土曜の午後なら客は少し減れども多少の賑わいは見せているはずだが、それが全くない。
少し近付いてスイートラジオの前に立った私は、下ろされたシャッターの上に一枚の紙を見つけた。
『八月三十日ヲモチマシテ、閉店サセテイタダキ〼』
それはシャッターを揺さぶる北風にはためいている。
「嘘でしょ……」
閉店日になっている八月三十日は私が茂樹くんに電話をした翌日。なんでまたこんなにも唐突に店を閉めたのだろう、もしかして私の言い方が悪かったのだろうか? それとも私の言葉が彼の気に触れたのだろうか? そもそも彼の生活は大丈夫なのか? 浪費するようなタイプではないと思うから楽に生き永らえているとは思うが、私には知る由もない。
「なぁんだ、面白くないや」
子供のようにそう言って、今来た道を引き返そうとする。散歩で来ただけなのに、何故か徒労に終わった気がして少しばかり落ち込んだ。
「……あれ、なんで私スイートラジオに来たんだっけ?」
自宅に戻ろうと一歩踏み出したとき、私の脳内にその言葉が浮かび上がってそのまま口から零れる。丁度自分に問いかけるように。
あくまでも今日は『散歩』だ。でも、元々はどうだっただろう。答えは考えるまでもなく、口をついて出てきた。
「お母さんのチョコレートがほしかったから……?」
そう言った途端、何とも取れない感情が一気に全身を支配して、ショルダーバッグからスマートフォンを取り出す。今更謝っても遅いだろう。でも私はあの味が恋しい。不純な動機なのは完全に理解している。傲慢な願いだということも理解している。でも茂樹くんにちゃんと謝って、もう一度お願いしたい。
「あのチョコレートを、蘇らせて……」
目尻にうっすらと涙が滲む。小刻みに震える手で登録してある連絡先から彼に電話をかけてみる。静かな発信音のあと、プルルルという呼び出し音が流れた。スマートフォンを握る手に一層力が籠る。
その直後、「何してるんですか」と聞き覚えのある柔らかい声が後ろから聞こえた。
「茂樹くん……?」
「今日からスイートラジオのリフォームが始まるんで見に来たんですけど……」
私の軽く取り乱した様子を不思議がるような素振りを見せながら彼はそう言う。
「リフォーム?」
「ええ、そのための休業です」
「でもこの前『今日でおしまいです』って言ってた……」
彼の予想外の返答に脳内にクエスチョンマークが連続で浮かび上がってきて、私の理解の範疇を飛び越えた。
「ああ、そう言えばそんなことも言ってましたね。あの時の思い付きでリフォームを早めました」
「なんで?」
「それぐらい察してくださいよ……」
「ええ……?」
「これの初出番があんなことになっちゃったんですからね……」
苦笑しながら茂樹くんはポケットからレンズの大きい少し歪んだ眼鏡を取り出してこちらに見せた。
「でも……」
彼の話を聞いていると申し訳ないという思いがだんだんと募っていき、言葉を返そうと思ってもうまく繋がらずに途中で途切れてしまう。
「レビューの件は明日説明します。明日の十九時にくろがね通り商店街の"アイアン鼻唄"まで来てください」
「……わかった」
「優花さん? どうかされました?」
「いやぁ、なんかよかったなって」
ころころと変わる私の様子と返答を彼は心底不思議そうな目で見つめてくる。まあ仕方ないか、彼にこんな姿を晒すことなんて生まれてこの方なかったから。
「じゃ……じゃあさ!」
「じゃあ?」
「チョコレートの再現、続けてくれるの?」
「ええ、もちろん。ただし『あなたが協力してくれるなら』ですけどね」
「はいはい、協力しますよ!」
「では、僕は打ち合わせがあるので……ではまた」
茂樹くんはそう言ってあの狭い通路に入って行った。彼の口からチョコレートの再現を続けてくれるという言葉が聞けて、あの日の事は全く意に介していないようで、すごく安心した。
彼がスイートラジオの中へ入るのを見た後、私はくるりと踵を返して来た道を引き返す。足取りは来たときよりも驚くほど軽かった。茂樹くんは『レビューの説明』とか仰々しいことを言っていたけれど、実質『なんとやら』というやつだ。少し吊り上がった口角を右手で抑えながらまた冷たい風に打たれた。
翌日の午後五時、私はスイートラジオから少し離れた商店街の中にある『アイアン鼻唄』の店先に立っていた。換気扇から吐き出される焼き肉屋特有の脂っこい空気が冬風に乗って六時間以上何も食べていない私の胃袋に猛烈なボディーブローをお見舞いしてくる。
『いまどこ』
『くろがね通り商店街の北口看板の前にいます』
後輩社員の中島さんにLINEを送ると、一分も経たずに既読がつき、返信が飛んできた。私が予定よりも三時間近く早くここにいるのは、とある目的のため。「わかった」と書かれたうさぎのスタンプを貼り付けて焼肉屋の店先から商店街の入り口看板に向かう。
「あ、小林先輩!」
奥の方で私の存在を認知した中島さんが私の方に手を振りながら駆け寄ってくる。
「中島さん、今日はありがとうね。なんか変なことに付き合わせて」
「いえ、先輩を実験だ……あっ、違う違う。お手伝いできる貴重な機会ですから」
彼女はすごくニコニコしているが『実験台』という言葉が聞こえた瞬間その笑顔が恐ろしいように見えてくる。
「今実験台って言った?」
「いえいえ滅相もない」
けらけらと笑いながら私の手を引いて歩く彼女は普段よりも子供っぽい。なぜかそのギャップと身長差で愛らしさを感じてしまう。
「で、どんなものがいいと思う?」
「想い人さんのご趣味は?」
ぐいぐいと引っ張られる私がそう問うてみると、彼女は悪戯そうな笑みを浮かべてこちらに訊き返してくる。
「想い人じゃないから!」
「実質想い人のようなもんじゃないですか」
「なんでよ」
「無自覚な先輩も可愛い……ま、いいや。して、プレゼントを渡す相手の趣味というのは……」
「まだ渡すって決まったわけじゃないからね?」
そう言うと彼女は何故かつまらなさそうな顔をして、強く握った私の手首を離した。
「はぁ、そうですかそうですか……」
小さく溜息を吐きながら中島さんはそう言って、続けるように「早くその人の好きなもの教えてください」と私の腰を小突いてくる。
「うーん……好きなものと言えば軍とか、時計とか、刀とか。あとは小説とかそう言う感じかな?」
「刀は高すぎますし、本ももしかしたら被っちゃう可能性もあるので時計とミリタリーを合わせるならば米軍か自衛隊の払い下げが一番……ですね」
うむむ、と軽く考える仕草をした彼女は何かぶつぶつと呟いてからそう言った。
正直私は軍も時計も刀もまったくもってわからない。知っていることとすれば戦車が『10式(ヒトマルしき)』やら『16式(ヒトロクしき)』と呼ばれていたり、所謂ミリオタという人たちがある戦闘機を「イーグルおじさん」と呼んでいたのを聞いたことがある程度。時計はカシオやセイコー、ロレックスといった有名どころしか知らないし、刀に及んでもはや何もわからない。一昔前に刀を擬人化したゲームが流行っていたがキャラクターデザインがいいと思って、やろうやろうと思っている内に一部の過激なファンたちが暴走して問題を起こしまくり、いつの間にかサービスが終わってしまっていた記憶がある。ふっと現れた回想はほどほどに抑え
「なるほど……じゃあ、ミリタリーと時計でいこう。で、どこかいいお店ってあるの?」
茂樹くんに渡す『予定』のものを決めて、私は中島さんにどこにそんなニッチなものが売っているのか聞いた。
「この商店街に『行進曲くろがね』というミリタリーショップがあります。大体ここから一分ちょっとと言ったくらいでしょうか」
「凄いね、ここの商店街」
「そうですね。じゃ、行きますよ」
日曜の夕方、外食しに来る家族連れや土産を買いに来たのであろう観光客が多く歩くくろがね通り商店街の中を、彼女の後ろについてその店へと向かう。心なしか前を歩く彼女は楽し気な歩き方をしていた。
商店街を北上して少し歩いたところ、川の堤防に合わせて入り口が半地下になった『知る人ぞ知る』といったような隠れ具合で、店先にはモデルガンを構えてガスマスクをつけた人形が仁王立ちしている。
中に入ると壁一面には「払い下げ」「DEAD STOCK」と書かれた札が下がった帽子やゴーグル、星条旗のあしらわれたワッペン、床にはスイス軍仕様と書かれた赤十字バッグやシャベルが並べられ物凄い密度を保っている。
「小林先輩! ちょっと用事よりも先に見せてもらっていいですか!?」
中島さんは店に入った途端に目の色を変え、そう言って商品を物色し始めた。
「凄い! DDR(東ドイツ)国境警備隊に空軍の制帽……それに旧ソ連のウシャンカまで……えっ、MKⅡヘルメットも!? これはやばいですね……」
嬉々としてお皿のようなヘルメットや帽子をかぶり、合わない丈の迷彩服をスカートのようにふわふわとさせている。よく見ればもう手に数着持ち、頭の上には『ウシャンカ』と言っていた帽子をかぶっている。
「中島さん……それ買うの? 値札見たけど結構するじゃん」
「ええ、掘り出し物があれば買わないとですから! さあ、次は下ですよ!」
彼女が手に取った物の近くにあったものを見てみるとウシャンカが四千円、どこかの軍の迷彩服が六千円、ズボンが四千円。趣味の域としてはあまり使っていないほうなのだろうが、趣味の少ない私にとってはかなり大きな額だ。
「小林先輩! ちょっとこれ持っててくれませんか?」
思いの外重たい迷彩服と帽子を私に持たせて、面白い場所を見つけた子供のように、装備品の類が置かれる階下を探索し始めた。
「これはっ……! AK5(えーけーふぁいぶ)、それにこっちはルガーのナンブカスタム!? これは買い……でもお金が……」
数分その場で固まってから、どうやら諦めたのだろう。くるりとこちらの方を向くと少し不満気な表情を浮かべて、私が手に持った迷彩服と帽子を手に取ってさっさとレジカウンターへ行ってしまう。彼女が支払いをしている間に私はガラスケースの中にある時計たちを眺めていた。
「時計はフルチタンか布バンドに限ります。ゴムだと蒸れたりアレルギーが出るのであまりお勧めはできませんね」
支払いを終えて大きな紙袋を携えた彼女が私にそう言ってくる。
「へえ、そうなんだ」
「例えばこういうのがいいと思います」
彼女が指差したのは『米海兵隊仕様』と書かれた布バンドの時計を指差した。下に挟まれた小さい値札には『¥-21500 +tax』と書かれている。
「高くない……?」
「いや、この類の物を買うとなったら安い方ですよ。私もお金に余裕があれば買ってましたし」
「じゃあ……一旦キープしとこう」
私はそう言ってまた別のものを眺める。中には桜に錨が描かれた『海自仕様』や『フランス特殊部隊仕様』と書かれたものがあった。
「そういえば、その人が特に好きな軍って知ってますか? アメリカとか、ドイツとか、ソ連とか」
「たぶん……ソ連とかそのあたりかな? たまにカリンカカリンカって言ってたし」
「うん、間違いなくソ連ですね。じゃあ、これとかどうでしょう?」
彼女が指差したのは『Восток(ボストーク)』と印刷された箱。値札に目を凝らすと『\-8975 +tax』と書かれている。
「一万円もしないのか……じゃあ、これにしようかな」
「じゃ、これで決まりですね」
私は店員にボストークが買いたいという旨を伝えて、一万円札を手渡して紙袋に入れられたそれを受け取って店を出た。
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