相談のカカオニブ

「あ、僕の分も捨ててくれたんですね。ありがとうございます」

 バックヤードに戻ってきた茂樹くんは先程の陰鬱さを微塵も感じさせない立ち振る舞いを見せている。そこに僅かな不安を覚えたが「なぜそうなっているか」と聞くのも無粋に感じられ、深くは聞こうとしなかった。

「とりあえずもう少ししたら店を開けないと何かとまずいので、雑談の続きはバックヤードの外でしましょう」

「ん、わかった」

 私はそう返事してバックヤードから出て行った彼の後を追うように立ち上り、手に持っていたスマートフォンをエプロンのポケットに入れてカウンターへと向かった。



 私がカウンターに出ると、茂樹くんは背もたれのない、よく学校や病院で見かけるような折りたたみの椅子を広げて座っていた。彼は手前に置かれたもう一つのそれをぽんぽんと軽く叩くと「どうぞ」と言って微笑む。客相手には見せない、ふとした時に自然に零れる微かな笑みにほんの少し胸が揺れた。

「じゃ、失礼しますね」

 差された椅子を軽く手前に引いて座る。ちらりと横を見てみると、彼は大きなあくびをしていた。

「……眠い」

「店長が寝ちゃだめだよ!?」

「もちろん起きていますよ……」

 そう言いながらまた大きくあくびをする彼。目尻に浮かんだ涙をシャツの袖で拭い、懐からいつの間にやら持っていた紅茶のペットボトルを取り出した。正直あんなことがあったばかりだから私から話し始めるのが多少憚られたが、先程のあくびと思わず零れた二人の言葉でどうでもよくなった。絶好の導入を作ってくれた彼に感謝しながら私は話し始める。


「あのさ……ちょっと相談したいことがあるんだけど……いい?」

 そう切り出したのも束の間、茂樹くんはこちらを大変奇妙なものを見るような目で眺めると小さくふっと笑って「他の人に相談した方がいいのでは?」と言ってくる。

「いや、そうやって相談できる人がいなんだって!」

「……え? 嘘でしょう?」

 ペットボトルの蓋を開けて中身を口に注ごうとした彼はぴたりと動きを止め、目を丸くして驚きに満たされた声で言った。

「……もう一回言おうか?」

「あ、大丈夫です。ところで何の相談ですか?」

「恋愛の……話……」

 

 そう言った瞬間、彼の表情が崩れるのが見えた。

「っ――!?」

 口に含まれた紅茶を吹き出しそうになりながらなんとか飲み込むと、むせ返りながら笑い声をあげる。

「何?そんなに面白い?」

「いやっ……ゆっ、優花さんが……恋愛の話なんて、っ……すっ、すごく意外だなぁと……思って……」

「笑いすぎ。しかも意外って?私だって女の子なんだよ!?」

「いえ、性格が男勝りとかそういうことを言ってるわけではないので……」

「はぁ……一体私ってどんな奴だと思われてるの……?」

 ひどく大きなため息を吐いて私は言う。当の茂樹くんはまだぴくぴくと震えながら笑いをこらえている。全くひどいものだ。昔から男勝りだねやらなんやらと言われていたのは事実だが、私だってれっきとした"女の子"だ。三十路に到達してしまったことを除いては……だが。


「ふう……で、どのようなお話ですか?」

「あのね……最近また彼氏と別れちゃってさ……」

「ほう……なぜまた」

「ちょっと言い合いになってね、私が言いすぎちゃったの」

「あぁ、なるほど。喧嘩別れというやつですか」

 うんうんと頷きながら彼は言う。

「うん……あの人は何も悪くないんだけどね……」

「そうですか。ところで優花さんって、これまでに何回告白されたことあるんですか?」

「うーん、記憶の中だったら三回……かなぁ?」

「それの中で一年間続いたものはありましたか?」

「失礼な……一回はありますよ! 一回は!」

「じゃあ、それはどれくらい?」

「一年三か月」

「ほんとにギリギリじゃないですか……」

 哀れみなのか、煽りなのか、どうとも取れない半笑いでそう言う茂樹くんに少々ムッとしてしまう。

「優花さんは内面に自信がないのかもしれませんね。自分に自信がないから彼氏に強く当たってしまうのではないですか?」

「あ……えっと」

 思い当たる節が山ほどあって、どもってしまう。そしてそのまま黙っていると、茂樹くんは畳みかけてくる。

「内面に自信がない、すなわち駄目だと思っているのは優花さんがそれを意識していないからです。外面には限りがありますが、内面はいくらでもよくできるんですよ」

「でもさ……」

「性格なんてよほど重症でもない限り、なんとかなるんです。僕もかなりの偏屈者でしたが、徐々に自分に自信を持つことで僻みを表に出さないようにしました」

「自分に自信を持つ……ねぇ……」

 確かに、言われてみれば自分に自信をもって生きていたことなんて中学三年の受験直前辺り位だけだ。周りよりも少しいい成績を取っていたからとか、模擬試験の成績が少し良かったとか、そんなくだらない理由で。

「まあ僕の場合だとチョコレートになりますね。親父のチョコレートを世界に広めたのは僕ですから」

「店員さんが私以外にいないのってなんで?」

「……優花さん、なぜ?」

 一瞬彼の表情が険しくなったのがわかった。触れてはいけない話題だったのだろうか、それでも私はそれがなぜなのか店の見た目の問題が解決した今ではどうしても気になってしまう話題となっている。

「なんでって、気になるから?」

「どうしてもですか?」

「うん」

「みんな僕の傍に居たくないって言うんです。求人のレビューは常に一。給料もそこそこ、いやかなり出しているのに……本当に不思議なものです」

「どんなこと書かれてるの」

「それ以上は聞かないでください」

「ふぅん、ならいいよ」

 私がそう言った時、いつもの心地よいベルの音が店内に響いた。


「いらっしゃいませ」

 そう茂樹くんが言うと、私と同年代くらいの女性はこちらにぺこりと会釈し、スマートフォンを片手に店内をぐるぐると回り出した。並べられた商品を一通り眺めた彼女はこちらへ来ると

「このチョコレートって、もう売ってないんですか?」

 とスマートフォンの画面をこちらに向けて尋ねてくる。茂樹くんはそれを確認すると少し何か考えてからはっと思いだしたような表情を浮かべ

「あー、"孤高のビター92(ここうのびたーきゅうじゅうに)"ですね。実はそれ、少し前にパッケージデザインを変えていまして……少々お待ちください」

 そう言うと彼は厨房に下がってそこから一つの箱を持ってきた。


「こちらになります」

「それください」

「かしこまりました。九八〇円になります」

「これでお願いします」

「こちら二〇円のお釣りになります」

  おもむろに財布から千円札を取り出した彼女はそれを茂樹くんに渡し、小さく会釈してからお釣りと商品を受け取ってそそくさと店を後にする。再びカランコロンとベルが鳴り、また店内に静けさが戻った。

 


 そうしてそれからは時折やってくるお客さんを捌き、他愛もない世間話や趣味の話に小さな蕾をつかせる。気が付けばいつの間にやら店を閉める時間となっていた。

「優花さん、今日は終わりです」

「ん、お疲れ」

「はい、お疲れ様です」


 バックヤードに入る手前の分電盤で店の照明を落とした茂樹くんはエプロンを脱いでバックヤードに入ってすぐにあるハンガーラックに掛ける。

「優花さんもここに掛けてください」

「わかった」

 彼にそう言われたので私もエプロンを脱いでそのハンガーラックに掛けた。


「そう言えば、今日は正面からしか入ってませんでしたね」

「正面からしか……?」

「ああ、通用口があるんですよ。店を閉めた後にシャッターを下ろしに出られるようにですね……」

「なるほど、要するにそこから出ろって話だね?」

 彼の言うことを自分なりに解釈して伝えてみる。間違っていたらどんな反応をされるかなんて気にしてもいなかった。

「理解が早くて助かります」

「……で、どこにあるの?」

「そこです」


 彼が指差したのは妙に不自然な位置に建て付けられたドア。私はてっきり彼の居住区画に繋がるドアだと思っていたのが違ったようだ。

「あ、もう帰っちゃって大丈夫なの?」

「ええ、私も優花さんも特にすることはないですね」

「じゃあ、失礼させてもらうね」


 私は彼に教えられたドアのノブを捻って外へ出た。右を覗いてみると大通りの歩道に繋がる小さな通路になっている。風が隙間を吹き抜け、夏だというのに少し肌寒く感じた。人一人抜けるのでやっとの細い通路を抜けて歩道に出るとまだシャッターの閉まっていないスイートラジオを見る。そこでは茂樹くんがちょうど店の鍵を閉めようとしていた。

 そんな彼に「またこんど」と口を動かして手を振ってみる。すると彼はこちらに手を振り返してくれる。それを見た私はくるりと踵を返して自宅のある方角へと歩を進めた。


 夏の高い夜空の下を歩き、道中スマートフォンのロックを解除してウェブブラウザを起動した。そして検索窓に『スイートラジオ 求人 レビュー』と入力して検索ボタンをタップする。検索結果の最上位に上がってきたWEBサイトのリンクをタップして中を見てみた。


――一瞬、息を呑んだ。


『求められるレベルが高すぎる職場です。学歴不問とありますが、まず普通の教育を受けている人には絶対に向きません。また、店長の感じも悪く、独断専行を貫き、従業員の言うことには耳を貸しません。絶対におすすめできません。星一つは多いと思います。』

『条件がいいように見えますが、店長は若いのに頑固で頑迷です。好条件に釣られないでください』


 想像以上の酷評っぷりに寒気がする。「私はこんなところで働いていたのか」と、私は自分の愚かさを悔やんだ。やっぱり彼は全く変わっていなかったんだ。自分勝手な所とか、他人(ひと)をあてにしない所とか。昔だってそう。クラスで何かをしたときに全部ひとりで進めて、他の人の意見も取り入れずして勝手に完結させたり、班行動では班長でもない癖に話を進めて、意味の分からない指示を出して。なかなかにひどかった。

 

「ちょっと信じてたのに……あの頃と全く変わってないじゃん!」


 人のいない県道二六一号線に叫び声が響く。そしてそれを搔き消すかのように横を大きなトラックが通り過ぎて行った。

 

 何故か居ても立っても居られなくなってスマートフォンを握ったままトラックの赤いテールランプを追うようにして走り出す。この煙たい気持ちを走って誤魔化したかった。

 何も考えずにただひたすらに走った。少し躓きそうにもなったが何とか持ち直して走り続ける。地面を蹴る音が変わり、川を逆らって流れてくる海風が、私に纏わりつく。そして降りた遮断機の光と音で足を止めさせられた。横断歩道を渡っていない。

 車もない踏切の前を横切ると、からっぽの電車が横を過ぎ、また少しだけ伸びた髪を揺らした。そのまま弱い風に吹かれながらアパートに続く路地を歩く。一軒家の門灯と料理の匂いに照らされながら走って荒くなった息を切れかけて明滅する蛍光灯がぼんやりと輪郭を映す廊下で整え、一室の鍵を開けてドアノブを捻った。


 ハンガーラックに鞄をかけてそこからスマートフォンを取り出す。画面を何度かタップして、とある番号にコールした。


「はい、店長の山です」

「レビュー見たよ」

「はぁ、そうですか」

 茂樹くんは普段と全く変わりのない様子で受け答えする。それがどうにも癪に触ってついつい語気が荒くなってしまった。

「何あれ、さすがに酷すぎない? 働いた人があそこまで言うって相当だよ? それに独断専行だとか、従業員の声には耳も貸さないって、どんなブラック企業なの!?」

「……あの時彼らの言うとおりにしていたら実際計上した倍、いやそれ以上の損失を被っていたんです! レビューなんて所詮ただの戯言たわごとです!」

「嘘吐き! やっぱり何も変わってないんだ! 信じた私がバカみたいじゃない!」

「はあ……そうですか。そうならそうと勝手に思っていてください。スイートラジオは今日でおしまいです」

 茂樹くんはそう言うと一方的に電話を切ってしまった。言いたいことは山ほどあったのに、一方的に切られては話しようもない。言いたいことは一通り頭でまとめてたはずだったけれど、それは何度も反芻する内にとてもつらい文句になって、私の心の内を冷ややかに写し出した。



 ところで……茂樹くんに言いたかったことって、なんだっけ?



 そう思った直後、猛烈な疲労感に足元を掬われた。そのままベッドに突っ伏して、私は微睡の中に落ちていく。一瞬で裏切られたような気になって勝手に落ち込んで、自棄になって、なんだか馬鹿らしいようにも感じられたけれど、仕方がない。


 だって、茂樹くんは『もともとそういう人』だったから。

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