驚きのバロタン

 どすん、と体に響く衝撃で目が覚めた。

「あたた、落ちちゃった」

 ベッドから転げ落ちた私はむくりと体を起こし、寝起き眼をごしごしと擦る。いつものようにナイトテーブルの上で充電されているスマートフォンの画面を覗くとプラスチックの液晶に「07:03-08/30」と表示され、丁度今一分進んだ。

 今日は土曜日、仕事もないので二度寝でもしてやろうと思ったが、どうしてかそんなことをするよりももっと大事なことがあったことを思い出して洗面所へと歩いて行く。

 毎朝のように洗顔料で顔を洗い、肌を保湿する。ついでに歯も磨いたら台所へ向かいフライパンをIHコンロの上に乗せて食器棚から大きめな皿とマグカップを出し、冷蔵庫から卵とレタスを取り出して準備は万端。フライパンに直接卵を割ってそのままそこでかき混ぜる。世間一般的にはカラザとやらをここで取るようだがそんなことはしない。二度手間だからね。

 程よく卵が溶けてきたら塩コショウが全体に満遍なくかかるように振りかけてコンロのスイッチを入れる。そしてここからは私のフィーリング次第。フライパンの中の卵を強火で永遠にそれっぽい形になるまでかき混ぜ続ける。大体形になってくればコンロを止めて、皿に盛り付ける。そうして私の朝食は完成だ。

 昨日の朝は活躍しなかったダイニングテーブルに皿と先程淹れておいた砂糖とミルクが大量に入ったコーヒーを置いてテーブルの上に置かれたゲルマニウムラジオの電波を普段朝に聞く局に合わせてボリュームをゼロから二十程に上げる。


「皆様聞こえますか。……HAMF、HAMF、こちらは広島AM第五放送局『ラジカル広島』です。おはようございます、『モーニングセブン』の放送を開始します。本日も司会を担当します声優の鞠間 繁輔(まりま はんすけ)です……」


 ラジオのスピーカーからは心地の良いキャスターの声が聞こえてきた。でもこの名前、男性なのに柔らかくて母性をくすぐるような声……どこかで聞いたことがある。

「鞠間……声優……!?」

 スクランブルエッグを口に運ぼうとした腕がぴたりと止まった。

「好きなゲームの最推しがラジオキャスターだなんて……土曜日に早起きする理由ができてしまったかも……」

 他人には一生見せることのできないような醜いにやけ顔を虚空に晒しつつ彼の声を堪能しながら朝食を済ませる。

「そういや、昨日の食器置きっ放しだった……洗わなきゃ」

 スクランブルエッグと食パンとコーヒーをすべて胃に放り込むと昨日のサボりの代償が襲い掛かってきた。シンクの前に立って今日使った食器と一緒に泡立てたスポンジをごしごしと押し付ける。流石に二十四時間も放置されたコーヒーの渋は洗浄力が高い洗剤でも洗い落とすのが難しい。数分間のもみ合い殴り合いの末何とか私が勝利した。

「とりあえずこれで終わり……この後はまたスイートラジオにでも行こうかな。化粧するのも面倒だしもうそのままでいいや」

 ふうと大きく息を吐いて私は一度背伸びをする。なぜか背骨がパキパキと小さく音を立てた。

 キッチンから出るとクローゼットから適当に目についた下着と服を取り出してそれに着替える。白い無地の半袖のTシャツにジーンズというとてもラフな格好だ。そしてハンガーラックの飛び出した縁に掛けられた藍色のショルダーバッグを手に取ってその中にペットボトルの水と財布と携帯、小さな化粧ポーチ、ハンカチを入れて玄関を駆けだした。



 土曜日朝の仁方は静かだ。まばらに犬の散歩やジョギングをしている人は見受けられるが車通りも少ないし朝一からバカ騒ぎするような若者もいない。理想の田舎、といったところだろうか。県道に出てもいるのはほとんど二トンほどのトラックや謎の液体が入ったタンクローリーばかりで、大きな工場に向かって物資を届けるためにごとごとと荷台を揺らしながら走り去っていく。そして私はまだ蒸し暑さの残る晩夏の晴れ空の下をスイートラジオに向けて歩く。一つコンビニのある交差点を通り抜けると、店の前でシャッターを押し上げようとしている茂樹くんが見えた。

 私は小走りで彼のもとに駆け寄るとこちらに気が付いたようで「おはようございます」と軽く会釈をしてから

「ちょうどいいので少し待っていてくださいね」

 そう言って店の中へ入っていくとレジカウンターの下から一つの紙袋を出してこちらに持ってきた。

「何これ」

「うちの店のエプロンですよ。来るかさえ怪しい新しい従業員のために用意していたんです」

「いや、なんでエプロンなんか渡されないと……」

 新しい従業員? 私は昨日の話の続きをしに来ただけだというのになぜ? 紙袋を差し出してくる茂樹くんの考えが一瞬理解できずに狼狽える。

「少し考えてみればわかるでしょう。たった一人しかいない店員がお客様と二時間も雑談するなんて絶対ダメじゃないですか」

「まぁ……うん。そうだね」

「という訳で、今日から優花さんはこの店の従業員第二号です。報酬はしっかり労働基準法に基づいて出しますので。要するに短期バイトみたいなものです。あ、履歴書は大丈夫です。あなたの経歴は大体わかりますから」

 最後の「経歴は大体わかりますから」を妙に得意げに話す彼にわずかな恐ろしさを覚えたが副業としてお金が入ってくれるならありがたい話だ。それにチョコレートの事についても、それ以外の事も茂樹くんと話せるわけだし。

「……でも、そんなにお客さん来るの?」

「えぇ、来ますよ。一応テレビや雑誌でも紹介されているんですから」

「ほんとに来るの?」

「まぁ見ていてください。とりあえずバックヤードに案内するので鞄を置いて、必要であればお化粧直しもしてください」

「わかりましたよー」

 茂樹くんの後ろに付いて行き店内に入るとそのままバックヤードに案内される。

「では僕は先に前に出ていますので準備が終われば来てください。その時に人が来るってこと、証明できますから」

 彼はそう言いながら小さく微笑んでそのままバックヤードの外に出て行った。鞄を小さな机の上に置いた私は紙袋からエプロンを出して身に着けてみる。丈も肩のストラップも丁度よい位だった。エプロンを着ると鞄の中から小さな化粧ポーチを取り出して中からシャドウを出そうとした。でもメイクしようにも面倒くさかったからそのままポーチを鞄にしまってカウンターへと出て行った。


「……ちょっと出るの遅すぎた?」

 私がレジカウンターに出た時にはすでに店内を十数人のお客さんが闊歩していた。ただでさえ狭い店が人でいっぱいになる。

「いえ、遅くはないですよ。ちょうど今開店したばかりなので」

「それにしても人、意外と来るんだね」

 意外なほどに混雑していて正直驚いていた。インターネットのレビューでは『知る人ぞ知る名店!』というような売り文句を書かれていたのだが、これでは『みんなが知っている名店』と言った方が適切かもしれない。

「ほとんどが観光客の人なんだけどね」

「結構知名度あるんだ」

「まあ、ね。この時間帯は大都市圏に向かう観光バスが出発するくらいの時間になりますし」

 私は店内の商品の配置図を見ながら茂樹くんと横並びになって話していると一人のどうやったんだと思わず聞きたくなるような派手なドレッドパーマをかけたレゲエチックな男の人が山のように積み上げられた箱を持って近づいてきた。

「I’ll take this.(これをください)」

「OK. The total is 13,500 yen.(わかりました。合計で一三五〇〇円になります)」

「Use credit card?(クレジットカードは使える?)」

「Of course. Please insert the card here.(もちろんです。ここにカードを入れてください)」

「I want eighty small package,sir?(小袋を八十個くれないかい?)」

「Sure.(わかりました)」

「Thank you so much.(ありがとう)」

 お客さんとさも当然のように英語で自然な会話を繰り広げる茂樹くんに内心驚愕しながら私はレゲエチックなお客さんが持ってきた箱の横文字を読み取って空いている棚にそれを補充する。


「あの……すみません……」

 棚に一つ一つ丁寧にチョコレートの箱を並べていると横から若い男の子が声を掛けてきた。声質と背丈からして高校生くらいだろうか。隣にいる女の子とぎゅっと指を絡めて手を繋いでいる。それを見て少しばかり昔の事を思い出してしまった。そういえば私、ろくに恋愛と言えるような恋をしていない気がする。歳故なのか、それともただの羨望なのかはわからないがどうにも彼らが一瞬輝いて見えてしまう。「あぁ、だめだめ」そう自分に言い聞かせて「どうされましたか?」と声を掛けた。

「あの……ビターチョコフレークってどこにありますか?」

「こちらでございます」

 さっき店内の配置図をしっかり読み込んでいてよかったと思った。勤務初日とはいえ流石にここで場所に迷っていたら面目が立たない。

「すみません、値札ってどこにありますか?」

 思わず憧れてしまうような二人を店の隅にあるチョコレートが山のように積まれた棚に案内すると女の子が尋ねた。私は慌てて茂樹くんの元へ行って値札がどこにあるのかを確認する。すると彼は商品の前で待っている二人を一瞥すると

「あぁ、朝置くのを忘れてしまっていました。値札はこれです」

 そう言って一枚のプラスチックのカードスタンドと一緒に紙の値札を渡された。私はそれを受け取って二人の元へと小走りで向かい

「一三八〇円になります」

 と言う。男の子は「ありがとうございます」とにっこりと微笑んで小さく一礼してから恋人であろう女の子と一緒に個数を確認し始めた。そしてその一般的に見れば微笑ましい青春の一ページと捉えるであろう光景を見て私は

「ああいう青春、してみたかったな……」

 そう誰にも聞こえない程の声で呟いた。遠くでこちらを眺めていた茂樹くんがぴくりと小さく動いたがたぶん偶然だろう。お客さんたちの邪魔にならないように店の隅に立ってぼうっとしているとヨーロッパ系らしい老夫婦が私に声を掛けてきた。

「Excusez-moi, s'il vous plaît dites-moi. Combien coûte ce chocolat?(すみません、このチョコレートはいくらですか?)」

「……え?」

「Vous avez besoin d'une traduction automatique?(翻訳が必要?)」

「あ、あー……うぇ、うぇいと! ぷりーずうぇいとひあー!」

 身振り手振りを使ってたいして得意ではない、むしろ苦手で下手な英語を晒しながらどこの国かもわからない人に待ってもらうように言う。英語は世界共通語と聞いたことがあるからロシア人でもドイツ人でもフランス人でもイタリア人でも誰でも通じるはずだ。

「優花さん、どうかされましたか?」

「茂樹くん、英語じゃない人」

 どうやら異常を察してくれたようで茂樹くんがこちらに駆け寄ってきてくれた。

「May I help you?(どうされましたか?)」

「Quel est le prix de ce chocolat.(このチョコレートっていくら?)」

「Could you speak in English?(英語で話していただけませんか?)」

「Ne peut pas. Je ne comprends pas l'anglais.(できないわ。英語がわからないもの)」

「Wait a moment please(少々お待ちください)」

 私にはよくわからない会話を繰り広げながら茂樹くんはエプロンのポケットに入ったスマートフォンを手に取って何かのアプリを開いた。

 そして彼は「Please talk to here(ここに話しかけてください)」とスマートフォンに話しかけ、それをその老夫婦に見せる。すると老婦人が画面を一度タップするとそれに向かって何か言語を喋った。正直何を言っているのか私にはまったく理解できない。彼女が話し終わってからくるりと自身の方に画面を向けた彼は「なるほど」と呟いてまた画面に話しかける。

「これは一五〇〇円です(C'est 1500 yens)」

 そしてそれを見せられた老婦人は「J'en veux 15.(一五個ください)」と言って手で『一五』と表した。

「わかりました、二五五〇〇円になります。それではカウンターに(D'accord, ça fera 25,500 yens. Veuillez venir au comptoir.)」

「Oui je comprends.(はい、わかりました)」

 老夫婦はそう言って茂樹くんの後についてカウンターへと向かう。

「優花さん、それを一五個お願いします」

「あ、うん。わかった」

 私は茂樹くんに指差された一五〇〇円のチョコレートを一五箱、落とさないようにしっかりと抱えてカウンターへと運んだ。


 カウンターでは会計が始まり、茂樹くんはタブレットに値段を入力して老夫婦に見せる。彼らは財布からぴったりの額を取り出し手渡す。それを受けっとった茂樹くんは私が持ってきたチョコレートの箱を慣れた手つきで大きな袋に入れ、老夫婦に渡した。

「Merci beaucoup(ありがとうございました)」

 老夫婦はそう言うと小さくお辞儀をして店を去って行った。


 そしてその直後ににこやかだった茂樹くんの表情は一瞬で冷ややかなものへと変貌し、「優花さん、今スマホって持ってます?」そう言って彼はスマートフォンをカウンターの上に乗せた。

「いや、入れてないけど……今バックヤードの鞄の中に入ってる」

「ポケットに入れてきてください。そうじゃないとまたさっきのフランス人のお客様のようなことが起こってしまいます。ああやって対応しているとレジを開ける時間が増えて他のお客様を待たせかねないので」

「うん、わかった。でもちょっといい方きつくない?」

 わざとらしく頬を小さく膨らませてみるが「普段からこの口調ですので」と一蹴される。

「わかりました。じゃあ取ってくるね」

 私はそう言ってバックヤードに繋がるドアをに向かい、ノブを捻った。ちらりと彼の方を見やるとそこにはにこやかな笑顔でレジ打ちをしている茂樹くんがいる。

「私にだってあんな笑顔、見せてくれたらいいのに……」

 ばたん、とドアを閉めてそこにもたれかかると少し震えた声で呟いた。



「はい、今戻りましたよ」

 少しだけぐちゃっとなった心を落ち着かせてからバックヤードを出ると、さっき会計をしていたお客さんはもう外に出ようとしていた。

 十一時を過ぎてピークより客足が減ったものの、まだまだ店の前には長い行列ができている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る