Ⅰ- ブート・ランデブー
Ⅰ-Ⅰ ヴァリアブル
戸惑いのショコラティエール
自宅に戻った翌朝、目覚まし時計のデジタルな音にに叩き起こされた私はナイトテーブルの上に置かれたスマートフォンを見て絶叫する。
「やば! もう七時!? 寝坊しちゃった……」
スマートフォンの電源を落とすとそこには短く整えた髪をボサボサにして虚ろな目で画面を覗く三十路の女がいた。そして彼女はベッドから勢いよく立ち上がるとよろよろと力のない足取りで台所へと向かい、トースターにパンを突っ込んで、食器棚にあったマグカップを手に取りインスタントのコーヒーを淹れる。
それから焼きあがったパンにざっとマーガリンを塗りつけると台所で立ったまま口に運んだ。つい先日頑張って二人掛けのダイニングテーブルを買ったのに朝は全く使わずいつもこの調子。
超簡易的な朝食を一瞬で胃の中に落とし込んでからマグカップはシンクに置きっ放しにしてクローゼットの前に向かう。そして中からつい先日買ったレーヨン生地のシャツと下着、横にあるハンガーラックに雑に掛けられたスーツを取りベッドの上に投げる。ベッドのスプリングでハンガーにかかったシャツが小さく跳ねた。
私は眠っている間世話になったパジャマに別れを告げてベッドの上に投げられた下着、シャツ、スーツと順々に着揃えていく。そのまま小走りで洗面所に行き蛇口を捻ると落ちてくる水を手で顔に掛け、洗顔料を泡立てて夜中に出された脂を洗い落とし、その上から化粧水、美容液、乳液。毎日朝夕に欠かさないルーティーンだ。
そして下地を塗ってから化粧を整えてすべてが終わった頃にはすでに八時の手前。大急ぎで仕事用の鞄にハンカチや水筒に入れたお茶を入れ、昨日実家から持ってきたチョコレートの箱も忘れないように入れて、玄関横に掛けられたキーホルダーから鍵と社員証を手に取り家を出た。
定時を過ぎて少しの残業を終えて帰路を辿り、仁方駅に着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。スマートフォンの地図アプリを使ってスイートラジオへの経路を表示させる。私はその案内に沿って歩を進める。少しづつ近付いていく距離にまるで子供のように心を躍らせながらあの場所(母の思い出)へと向かって行く。
――そう、私の母に会うために。
「へぇ、ここがスイートラジオ……」
そこの前に着いた私は黄土色とグレーの古ぼけた何かしらの機械のような少し奇妙な外観に一瞬驚きを隠せなかった。「本当にここが人気店なのか」と。インターネットで調べた時にはテレビで放送されていただの雑誌の取材を受けただのと言われていたが、今の私には全然そのようには見えなかった。
「よ、よし……入ろうかな」
私は一人でそう呟くと、店内に入った。カランコロンというドアに付けられたベルの音と店内に流れているクラシック風の音楽が外観とは裏腹に見事な調和を見せている。
「いらっしゃいませ」
「すみません。このチョコレートってまだ売っていますか?」
にこやかな笑顔を見せながらお辞儀をする若い店員の前に行くと鞄からあの箱を取り出してそう尋ねる。すると彼は少し驚いたような顔をしてから
「お客様……これ、ずいぶんと古いですね。実はこれ、もう作ってないんですよ」
「え?じゃあそこに置いてある箱は……?」
私は店の角に積まれた母の遺したチョコレートの箱と同じデザインのものを指差した。
「あぁ、あれはリメイク商品です」
「リメイク……ですか?」
彼の言っていることが全く理解できず思わず聞き返す。
「ええ。うちが今作っているチョコレートは全て先代が考案したもので、今あなたが持っているその"ノーマルビターチョコレート"だけはレシピが残っていなくて、先代が死んだときにレシピが消滅してしまったんです」
「はあ……」
「先代が亡くなった当時は私もまだ子供でしたから味も分析できなくてですね……あなたが今持っているものと今のものでは全く別物であると言っても差し支えはありませんね」
「なるほど……?」
想像していた以上に話が濃くて生返事しか返せなくなってしまう。「じゃあ、もう大丈夫です」といって帰ろうとした時、彼から声を掛けられた。
「つかぬ事をお伺いしますが、もしかして優花(ゆうか)さんですか……?」
「え、えぇ。そ、そうですけど……」
唐突に会った記憶もない男に名前を口に出されて体が硬直してしまう。咄嗟に社員証が首に提げられていたのかを確認するが、それは帰りの電車に乗るときに鞄の中にしまっていたために一瞬物凄い悪寒が走った。
「あぁ、やはりそうでしたか……二十二年前にご来店いただいた際には大変失礼致しました」
「えぇ……?」
どうやら私は記憶にないがここ、スイートラジオに一度訪れたことがあるようだ。しかもその時に彼からとんでもないことをされたらしい。再び謎の悪寒が走る。
「僕はあなたにひどい事をしてしまった。お客様相手には絶対にしてはいけないことをしてしまったんです……」
「えぇ……一体私が何をされたというんですか……」
「小学校であなたと喧嘩をして、その日丁度あなたがここに来たものですから怒りのあまり水をかけてしまったんですよね。しかも真冬に」
恐る恐る聞いてみると彼はそう答えた。そして私の記憶の中から一人の人間の名前が思い出される。
「……もしかして、茂樹(しげき)くん?」
「名札にも書いて……おっと失礼。名札を後ろに忘れてきてしまいました」
彼はそう言うと一度調理場へと行くと、次は名札を付けて戻ってくる。
「お久しぶりです、優花さん。山 茂樹(やま しげき)です」
「茂樹くんかぁ……なんかすごく変わった気がする」
彼は名札を傾けながら私に彼が『山 茂樹』であることを証明したのだが、それでは何か足りないような気がしてならなかった。
「変わった、ですか……あぁ、トレードマークがないとわからないですもんね」
茂樹くんはそう言うとエプロンにあるポケットから一本の古い眼鏡を取り出してそれを装着してみせた。
「あ、あの頃の茂樹くんだ」
「今はコンタクトレンズをつけてるんですよ」
彼のその言葉で今までにあった違和感は全て払拭され、大きなレンズの眼鏡をかけた店員の若い男は私と同い年で同じクラスだった茂樹くんに変身した。
「この眼鏡、いつか昔の知り合いがこの店に来た時にはかけようと思っていつも準備してるんです」
「で、何回かけたの?」
「実は今日が初めてなんですよね」
あはは、と照れ隠しのように小さく俯きながら笑う彼には少しの幼さと同じクラスだった頃とは違う雰囲気が感じられた。同い年にも関わらず私よりも大人で、余裕がある。そんな感じ。
「ということは……私が初めて?」
「そうですね。優花さんが私の店に入った同級生のお客様第一号ですね」
「ふぅん……なんか嬉しいかも」
「……で、一つお願いがあるんですが」
私の中で流れていた空気が一瞬で凝固点まで急降下したような気がした。もしかしたら再会した同級生がちょっとばかしかっこよくなっていたからと少々浮かれ気味になっていたのかもしれない。
「そこは「僕も嬉しいですよ」とか返してくれたら嬉しかったんだけどねぇ……」
「はは、それはすみません」
「それで、お願いって何?」
「さっき持っていたチョコレート、私に譲っていただけないでしょうか」
「それは嫌」
さすがにそれは私でも無理がある。何と言ったってこれは今は亡き母との想い出の味だから。
「できたら十倍……いや、百倍にして返しましょう。本物のノーマルビターチョコレートがあればおそらく先代の味を再現できるんです。今の僕が作っているものはいわばまがい物。味を見ればわかると思いますが、苦いだけでそれ以外はただのビターチョコレートです」
「なるほど……」
「あ、そこに試食用のやつが置いてあるのでどうぞ」
彼に言われ、積まれた箱の手前に置かれている缶の中からチョコレートを一欠片取り出して口に放り込んでみた。
「うん……なんというか……違うね」
口の中に広がったのは苦みと甘みが合わさった単純なビターチョコレート。
「おそらくチョコレートのカカオマスや豆の配合が違うので、苦みが立ってしまうんだと……」
「なるほど、なんかよくわかんないけどまぁ試食は私に任せて!」
「別に大丈夫ですけど……だって本物はもらえないのでしょう?仕方ない話です」
「強請(ゆす)られてるみたいに言わないでくれる?」
「仕方ないに嘘はありませんよ」
「それはそうなんだけどさ……そうやって語弊のある言い方をするからあの時いじめられたんじゃないの?」
しまった。と思った瞬間には茂樹くんの目つきが変わっていた。先ほどのにこやかな笑顔から一転、宿敵を睨みつけるような目つきに変わっていた。謝ろうとしたのも束の間
「それをネタにしないでください!」
そう彼の静かな叫びが聞こえた。
「いじめた方はすぐに忘れても、いじめられた方は死ぬまで忘れないんです! そもそも水をぶっかけたのも助けてくれと言ったのに助けてくれなかったのが……」
「わかった! わかったから!」
「全然わかってないですよ! 二度とその話は私の前でしないでください!」
茂樹くんは会計のカウンターを強く叩いて言った。
「うん……ごめん。わかった」
「それならいいんです。では、またのご来店をお待ちしております」
いつの間にやらカウンターの外に出ていた茂樹くんが私の事を追い出すかのように外に引っ張ろうとする。
「ちょ……なんで追い出そうとするのよ!」
「もう閉店時間です」
「今何時?」
「九時です」
彼は店内にある時計をちらりと確認してから笑顔で答えた。
「おぉう……もうそんな時間なんだ……」
「ではまた明日……」
「この後飲みに行かない?」
「明日なだけいいじゃないですか! 二度と会わないって言ってもいいんですよ!? 私は明日の準備があるので……では」
ぽいと店外に放り出された私は鍵を閉める茂樹くんに向かって手を振ってみる。すると彼の側からも手を振り返してくれた。
「意外と優しいんだよね……君」
結局二時間ほど続いた立ち話は翌日に持ち越されることになり、私は人通りのなくなった県道沿いを自宅に向けて歩いて行く。
ようやくたどり着いたアパートの一室に転がり込むと、一目散に台所へと向かい冷蔵庫にしまわれた作り置きのおかずが入った容器を取り出し、適当に皿に盛り付ける。もう白米なんて焚いているような余裕はない。
かき込むように金平ゴボウとインスタントの味噌汁を平らげ、朝のマグカップが残ったままのシンクに食器を投げ入れ、テレビの前に置かれているビーズクッションに倒れ込む。
「もう無理! なんか異常につかれた!」
むくりと体を起こしてパンツを脱ぎ、ベッドの上に投げ捨てられていたハンガーをつけるとそのままハンガーラックに掛けて脱衣所へと向かった。
人間、風呂が近いと疲れが少し軽くなるようで、鼻歌を歌いながら私は今日一日世話になったレーヨンのシャツを脱ぎ、重たい胸を支え、外敵から私の秘部を守り続けた下着も脱いで、これらはネットで別にして洗濯機に放り込む。
いつも通りに洗剤を入れて、叔母に教わったようにボタンを押す。確か特殊な素材は表示を見て丁寧に洗えとも教わったがたぶん大丈夫だろう。洗濯機はがたがたと揺れながら仕事を始め、私も浴室へと入った。
風呂椅子に座った私はシャワーの握りを捻り、体中に湯を浴びせてからボディソープを泡立てて身体に纏わせる。ふわふわとした泡がすごく心地良い。腕、太腿、お腹、胸の間、丁寧に洗う。そしてまたシャワーで流してやれば今日一日空調の効きが悪いオフィスでかいた気持ちの悪い汗も忘れられる。髪の毛に絡みついた汗も、顔の化粧も脂も洗い落とす。癖毛なのでもちろんコンディショナーも忘れずに。爽やかに見せようとあえて短くした髪も少し伸びている。最後に切ったのは春の終わりだから仕方がない。
入ると同時に浴槽に溜めていたお湯はいつの間にやら丁度良い量になっていて、私はそこにどぼんと飛び込んだ。すると無数の小さな気泡が現れ、湯に浸かっている部分を包み込むようにくっついた。それを払いのけると奴らは四方八方に散らばって、そのままぱちんとはじけて消える。小さな泡たちが何か自我を持っているように感じて、ついつい楽しくなってしまう。数十分ほど浴槽の外で泡立てていた泡を浮かべてみたり、小さな気泡たちと戯れるとそこから引き揚げ、栓を抜いた。数十秒ほど待てばそこに溜まったお湯がしゅるると渦を巻いて排水溝へと吸い込まれて行く。
湯が完全に抜けきるとまずは浴槽の中に風呂洗剤のスプレーをかけ、スポンジでごしごしと中を擦る。一頻り中が終われば次は壁周りやシャワーを泡立ったスポンジで擦る。こまごまと着いた水垢や軽いシャワーだけでは落ち切らなかった石鹸のかすが落ちていく。だが、疲れ切った私に丁寧に掃除する気力なんてものはなく、大雑把に奇麗にしただけ。最後は全体にざっと水をかけて洗剤を落とし、後は明日の自分に任せようと決めて、浴室から出た。
洗濯機は一仕事を終え、ピーピーと中に入った洗濯物を出してくれと言っている。そして洗濯機の蓋を開けた瞬間、ある種の地獄を見た。
「え! なんで!?なんか大変な事になってる!」
レーヨンのシャツが子供用かと言わんばかりのサイズまで縮んでしまっていたのだ。せっかくかわいいと思って買ったのだが、まさか一回着たきりで着れなくなるとは想像もしていなかった。
「レーヨンの洗濯の仕方、叔母さんに教えて貰おう……」
すっかり意気消沈した私はベッドのそばにあるクローゼットから新しい下着を出し、パジャマと一緒に着る。そして朝夕のルーティーンであるスキンケアを一通り済ませると今日のカレンダーに斜線を引いて、部屋の電気を消した。ふと彼の事を思い出す。
「うん……やっぱり茂樹くんかっこよくなってるよね……昔は丸かったやつがなんであんなすらっとした男になるんだよ!」
そう小さく叫びながら私はベッドに飛び込んだ。
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