追憶のチョコレート

犬飼 拓海

Op- メモリーズ

プロローグ

 電話のベルが鳴り始めた瞬間には、まだ私に何が伝えられるのかなんてわかっていなかった。がちゃりと受話器を取り上げて「もしもし」と電話の向こうにいる相手に尋ねてみる。

「夜分遅くに申し訳ありません。呉署の長谷部(はせべ)です。病院からの依頼でお電話差し上げました。小林 智恵(こばやし ともえ)さんのお宅で間違いないでしょうか」

「はい、そうですけど……母に何か?」

「先ほど、お母さまが事故に遭われました。意識不明の状態で、現在も手術中です。すぐに呉市医師会病院に行ってください」

「母が事故に……?本当ですか」

「お気の毒ですが……」

「わかりました。夜遅くにありがとうございます」

 急激に跳ね上がった心拍数と溢れ出る冷汗がより一層不安を煽る。小刻みに震える手で受話器を必死に耳に押し当てながら一瞬で乾ききった喉から声を振り絞り、そのまま受話器を下ろした。

 まさか、こんなことが起こってしまうとは予想だにもしていなかった。一度台所へ行ってガラスコップで水道水を一杯、二杯。焦りと恐怖心でからからに乾いた喉と咥内(こうない)の粘膜は潤いを取り戻した。そして固定電話の前に立ち、近場のタクシー会社に電話を入れる。

「もしもし?」

「はい、東和交通でございます」

「迎車をお願いします! 至急でお願いします!」

「どこまででしょうか」

「仁方(にがた)のバス停まで!」

「かしこまりました。五分ほどで到着しますので、少々お待ちください」

 長く話しているのが癪で、必要最低限の事を聞くだけ聞いて受話器を叩きつける。それから大急ぎでクローゼットから服を出し着替え、鞄と携帯、財布、ペットボトルに入った水を手に取り家を飛び出した。夜遅くの住宅街、アスファルトに踵が当たる音が不気味なほどに反響し、更に私の焦燥を加速させる。二歳の時に私の父が死んだことを知らされた時とは段違いの焦りと恐怖感が私を内側から蝕んでいった。

 バス停に着くとタクシーはもうすでに到着していて、運転席のドアを何度かノックし中に乗り込む。

「呉市医師会病院までお願いします。急ぎ……急ぎでお願いします」

「かしこまりました」

 運転手はそう言うとペダルをぐっと踏み込んで、ハンドルの横にあるレバーを一番上から下に落として走り出した。

 タクシーが交差点で信号に捕まるたびに私の心臓がばくばくと大きな音を立て、額には冷汗がどんどん噴き出してくる。大きく深呼吸をしようと思っても息が詰まって思うように呼吸ができない。下を向きながら必死に心を落ち着かせようとしてみる。



「お客様、到着しましたよ」

 その声ではっと我に返った。

「いくらですか?」

「三七四〇円です」

 運転手に五千円から払おうと思ったが生憎と私の財布の中には樋口が一人もおらず、結局千円札四枚を取り出し「お釣りはいいです!」と置き土産のようにそのセリフを落としながら病院のエントランスへと駆けこんでいった。




「小林智恵の娘です。母がここに搬送されたと聞きまして……」

「三階の集中治療室(ICU)に行ってください」

 外来受付にいた看護婦がパソコンの画面を覗きながら何度かマウスを動かしクリックしてからそう言う。

「はい」

 そうとだけ言うとまずはエレベーターホールへと向かった。しかし当のエレベーターは今しがたこの階を去ったばかりで全て上階ないし地階へと進んでしまっている。

「あぁ、もう。最悪!」

 私は小さくそう呟くと、ホールの横にある小階段を全速力で駆け上がった。タンタンタンと鉄の階段を駆け上がる音と心臓の鼓動が共鳴する。


 三階に到達したころにはもう息は完全に上がっていて、肩で息をしないとまともに立っていられない程だった。必死に呼吸を整えながらICUの自動ドアを潜るとそこには数名の看護師と白衣を着た男性の医師が立っていた。

「小林智恵さんの……娘さんですね?」

「っ……はい」

 息が上がっているせいで返事することすら難しい。

「智恵さんはくも膜下出血を起こされています。手当は続けていますがどうなるか分かりません。お父さんはお亡くなりになっているとのことですから、万一の際に備えてあなたに延命治療の方針についてお伺いしてもよろしいですか?」

「ええと……」

「もし意識が回復する確率が著しく低く、脳の活動が全て停止し、ただ生きているだけになった場合に延命治療をしますか、という話です。ご本人の意思カードにはしないでくれと書いてあります。どうされますか?」

「延命治療はしないでください」

「承知いたしました」

 彼らが去って行ったあと、一度ICUから出て外の待機所で夜を明かした。心配で心配で、眠ることすらできなかった。そしていつの間にか一本から三本に増えていたペットボトルは水の重みを失い、力なく待機所のソファの上に転がっている。


――そして、さっきの医師がやってきた。今度は一人で。


「母はどうなりましたか!?」

「小林さん、お気の毒ですがお母さまは息を引き取られました」

「え? 嘘……」

「こちらとしてもできる限りの手は尽くしましたが、損傷が酷くつい先程脳波が焼失し、心拍も停止。脊髄反射も消失しました」

「……そう、ですか」

 頬に涙が伝う。

「葬儀会社に連絡しますね」

「よろしくお願いいたします」

 消え入るような声でそう言い、出棺まで見送りそのまま歩いて自宅へと戻った。

 外の風を浴びたい気分だったから。



 そして葬式の日、母の葬儀は小さく行われた。私以外の出席者は叔父夫婦だけ。そしてその後、叔父夫婦と私は今後のことについて話し合うことになった。

「して、優花ちゃんはこの後どうするんだい?」

「どうしようも、ない……です」

 俯いて畳の目を見ながら聞こえるか聞こえないかわからないほどの大きさで呟くように返す。

「なんならうちで面倒見てやろうか?」

「え、迷惑じゃないんですか……?」

「なぁに、問題なんてないし迷惑じゃないさ。子供が一人増えたと思えばいいからね」

「本当に……ありがとうございます!」

 二つ返事で叔父夫婦に面倒を見てもらうことに決まったその日から、私は生前の母の痕跡が鮮明に残るこの家を片付け始めた。

 脱衣所、ダイニング、和室……順々に整理を進めていく。冷蔵庫にはタッパーに小分けされた生前の母の作り置きが残されていた。それを電子レンジで温めて口に運ぶと、つい先日までそこにあったいつもの夕食が思い起こされる。

「お母さん……なんで死んじゃったのよ……」

 ぼろぼろと零れ落ちる涙は留まることを知らず、無慈悲にも母が本当に死んでしまったという事実をこれでもかと押し付けてくる。

 その日は一旦片付けを切り上げ、その翌日。最後に残った母の部屋に残されたモノ(思い出)を片付けていると、どこからかチョコレートの箱が一つ。母が私の誕生日の度に毎年くれていたチョコレート、初めて貰ったのは三歳の時だったはず。

「あと五つも残ってる……ってことは、私が二十歳になるまでは祝ってくれるつもりだったんだ」

 小さく感傷に浸りながらそのチョコレートを大きなカバンの一つに優しく入れた。



 引っ越しを済ませてから私が三十路に入るまでで特に言うべきこともない。まあ、異性との関わり合いを除けば人並みに青春とやらを過ごせてはいたと思う。そしてかのチョコレートは私が三十歳の誕生日を迎えるまで忘却の彼方にあった。しかしその日、半ば実家と化した叔父の家にある自室の片隅にいつかに見た奇麗な箱を見つけた。古ぼけた薄いビニールのフィルムで丁寧に包まれたその箱は確かに私が幼かったころに見たものだった。

「なんだったけなぁ……これ。昔に見たことがある気がするんだけども」

 箱を開けるとその中にはチョコレートが入っているではないか。逆によく溶けずにこの形を維持し続けているなと一瞬感心したが、本題はそこではない。確かにこの形のチョコレートは薄れゆく過去の記憶の片隅にわずかに残っている。不思議なほどに込み上げてくるノスタルジックな感覚にそのチョコレートを一つ口に運んだ。ふわっとカカオの香りと甘くてほんのりと感じられる苦みが口の中いっぱいに広がる。

「っ……お母さん……」

 直後、私の目から涙が零れた。その味は十五年もの時を経て今ここに帰ってきた、私の懐かしい記憶の中にある確かな想い出の味だった。

 そしてまた、私はチョコレートを一粒口に運んだ。今度は母の顔が鮮明に思い出される。「母に会いたい」という一心で何度も何度もチョコレートの粒を口に含んだ。

 はっと素に戻った時、箱に入っていたチョコレートは半分ほどに減っていた。この味(思い出)は今でも買えるのだろうか? 気になって箱の裏に印字された店名と思しき文字を検索窓に入れて検索に掛けてみる。するとかつて母と共に住んでいた家の近所にある一軒の洋菓子店が検索結果の上位に上がってきた。


「スイートラジオ」


 聞きなれない名前だったがチョコレートの箱にはちゃんと製造元としてそう印字されている。

「見つけた」

 零れ落ちていた涙はいつの間にか収まっていた。




「さぁて、明日はどうしようかな」

 わざとらしく呟いて、私の心に問うてみる。

 返ってきた答えは一つ、「スイートラジオに行くこと」。


 そう、私の母に会うために。

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