四章『霧笛 FOGHORN』

 島に逃げ帰るととんでもないことが発覚した。

 船底に大きな損壊箇所がある。

 調査船の船底があと少しで破れるところまで磨耗していたのだという。応急処置が終わるまで航行はできない。

 つまり、この島に閉じ込められたのだ。

「修理は突貫で明日までに終わればゴールデンって感じですね」

 すでに夕日は沈み、夜になった。

 救難信号は出し続けている。どこかの誰かが気づけば早ければ今日中にでも助けは来るだろう。

 灯台の明かりが点灯される。

 あの怪物たちに発見されることを考えると点灯しないほうが適切だったかもしれない。が、救助隊の誘導のためにも必要だとアンゲリカが主張したのだ。

 アンゲリカはあの突然弾けた水槽を回収して学者たちと解析して少しわかったことがあるという。

「強酸による腐食と異常なまでの高圧電流。破裂の原因はそれですね」

「それを誰がやったっていうんだ? 水槽にはプランクトンしかいなかったんだろう」

「だから、そのプランクトンが……正確には動物プランクトンがやったんですよ。死骸が検出されたんです」

 アンゲリカにしては珍しく神妙な面持ちで言う。

 プランクトンは自身の放った攻撃に体が耐え切れずに自滅したのだという。

「死体はすべてグチャグチャで原型がなくなってました」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 霧笛の音。


 その場の全員が顔を上げた。

 調査船のものではない。救援の船か? もしくは、

 外からメリメリという音と誰かの悲鳴。

 嫌な予感がして、剣次は窓から外を見た。

「うわっ」

 案の定。島がススと硫黄に、スモッグに包まれていた。

 目を凝らしながら船着場を見下ろすと。

 船が真横に滑っていた。

 海上を引きずられるようにして船が遠くに動いていく。船に取り残された船員たちが海に次々と飛び込んでいった。

 いや、飛び込んでいくように見えただけか。

 真っ黒いタールのような海は、水しぶきひとつなく船員たちを飲み込んだ。

 誰一人浮かんでこない。

 まるで海に食われたようだ。

 調査船は遥か遠くで玩具のように真っ二つに折れて沈んでいった。

「海が人を食べたですって? そんなバカな」

 よせばいいのにアンゲリカは懐中電灯で近くの岸壁を照らしてしまう。

 映るものは草に砂利に岩に崖に、打ち寄せる暗黒の波。

 ではなかった。

「ヒッ」

 あまりの光景にアンゲリカが懐中電灯を放り投げてしまう。

 映ったものは、波ではない。

 うごめく異生物の群体。

 寄り集まり黒い海と化し、島を根元から食らっていた。


 わらわらざわざわぞろぞろ、ばりぼりびきびきぐちゃぐちゃがちがちぎちぎちがりがり。


 怪物たちで構成された漆黒の波がコンクリでできた防波堤を打ち砕きながら、島の中心に迫って来る。

「囲まれてるぞ! 上がれ! 一番高いところまで!」

 職員たちと剣次は息せき切って灯台の最上階に駆けあがる。

 最上階は割れたポリタンクとボロ布が散乱していた。

 この灯台にいて消えたという灯台守のものか。

 船の警笛のような重低音。

『ぼおおをををををををををおををををおおお――――』

 職員の一人がなにを見たのか錯乱した。

 落ち着くように言い聞かせても「目が! 目が!」と要領を得ない。

 なんだ、なにが見えているというのだ。

 灯台の光に照らされ漆黒の霧に包まれる暗黒海を垣間見る。

 島はもう灯台を残してすべて海に食らいつくされた。


『ぼおおをををををおおおをおをおおわぁ――――』


 重低音。

 異形たちで構成された海の一点がせりあがる。

 泥泡のように下品に弾けると、現れた。

 苔色をしたタコの頭部。

 万本もあろうかという触手。

 触手はうねりからみあい、ひきあって人体を構成していく。

 足ができた。腰ができた。腕の完成。頂点にはタコの頭。

 灯台の光は周期的に怪物のてらてら光る表皮を照らす。


『ぼおおおおををををおおお――――』


 ああ、魔神だ。霧の魔神だ。


 重低音を響かせて魔神はぞぞぞと怪物どもをかきわけて灯台に向かってくる。

 ざざん、むうううん。

 一歩。

 ざざん、むうううん。

 二歩。

 蛞蝓じみたその歩行は人間を絶望させるには十分過ぎるほどの効果を上げた。

 

『ぼおおおおおををををおおおおおおおお―――――――』

 

 重低音の鳴き声が響くと、魔人に呼応するように魔人の両脇に巨大な波が立ちあがっていく。

 灯台の窓が叫び声をあげるかのように軋んだ。


 ぞぞぞぞぞ、むううううん。

 波の音。


 それはもはや波と言えるのだろうか。


 ぎぎぎぎ、むううううん。


 あれではまるで壁だ。

 壁の如き津波を引き連れて魔人が一歩一歩迫って来る。

 誰かが助けを求めている。

 だが体はそちらを見ることができない。

 魔人の濁った眼球から目をそらせない。

 目をそらせばその場で飲まれてしまいそうだ。

 魔人の両脇の津波から数百の異形たちの瞳がこちらを見つめている。

 ついに灯台に到達した魔人は獲物たちを見下ろした。

 感謝するように恭しい手つきで腕を伸ばす。


 万物に幸あれ、我々に幸あれ。

 食物に感謝を、我々に恩恵を。


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