第3話

「ルビー」

その日もルビーはベンチで本を読んでいました。わたしがいてもいなくても、ルビーはいつも通りに本を読んでいました。わたしの声に顔を上げてはくれたけれど、それが心底鬱陶しいと思っている事が、わたしにだってわかりました。

「あなたまだ来るのね」

「……サファイアって呼ばないの?」

「呼んでほしいの?」

ルビーは口端を歪めて笑いました。思えばこの子がきちんと笑った顔なんて見た事が無くて、わたしはそれが、とても悲しく思えたのでした。

「あなたがくれた名前だもの」

「他の子が沢山名前をくれるでしょう」

「だけどあなたのくれた名前がいちばん綺麗だわ」

そう聞こえたのよ、わたしが言えば、ルビーは呆れたように、それでも本を閉じてわたしをまっすぐに見てくれました。わたしは少し迷って、ルビーの隣に座りました。いつもよりほんの少し近くに座ったのに、ルビーは何も言いませんでした。ルビーは、サファイアはね、と、いくらかかみ砕いたかのように、いつもより柔らかく、わたしに教えてくれました。

「サファイアっていう石はね、コランダムっていう石につけられる名前よ。赤はルビー、それ以外は全部サファイア。だからあなたはサファイアなの」

私じゃない他の全部よ。ルビーはそう言ったけれど、わたしには別な風に聞こえました。

「わたしとルビーは一緒なの?」

「……一緒にしないで」

コランダムという石が、どんな石なのか、わたしは知りません。けれどルビーと一緒だった、それがすごく嬉しかったのです。ルビーは迷惑そうに顔を歪めて、けれど、すぐにいいえ、と言葉を翻しました。その横顔が悔しそうで、酷く機嫌が悪そうで、そんな横顔を、わたしはクレイドルで初めて見ました。多分、きっと、だから、わたしはルビーから目が離せませんでした。

「でもそうね。私はルビーでありたいけれど、ここにいるっていう事は。結局私もサファイアで――少女でしかないんでしょうね」

「ルビー……」

俯いた横顔はどこか悲しそうで、わたしは無意識にルビーの手に触れていました。ルビーの手はとてもあたたかくて、涙を流すまいと堪える瞳はきらきらと輝いていました。わたしはその時、はじめて自分の心でルビーの友達になりたいと思いました。いいえ、友達なんかじゃない、ルビーの一番になりたいと、そう思ったのです。

「ねえ、本を読みましょう。わたしあなたが好きな物語を読みたい」

「私、お姫さまが出てくる話は好きじゃないの」

「いなくっていいわ」

わたしの言葉に、ルビーはきょとんとした顔をしました。初めて見るルビーの顔に、わたしはなんだか嬉しくなって、触れていた手を握ってしまいました。だけどルビーは解かなかった。わたしはルビーの手を握りしめて、ルビー、名前を呼んで、その珍しい顔を見つめました。

「言ったでしょう。あなたの好きな物語が読みたいの。……あなたの事を知りたいの」

それは自然と出た言葉で、わたしの願いでした。ルビーの事をもっと知りたい。もっと近くに行きたい。そう思ったのです。

ルビーは視線をさ迷わせて、それからたくさん考えて、ようやく小さな声でいいわ、と言ってくれました。

「つまらないって、言わないって約束するのなら、いいわ」

「もちろん!」

わたしが約束すると、ルビーは本を貸してくれました。お姫さまも王子さまも魔法使いも出て来ない、恋なんて探す事も出来ない、離別の物語でした。けれどとても美しい、そう思わせる物語でした。わたしが長い時間をかけてようやく本を読み終わるまで、ルビーは私の隣で待っていてくれました。本を閉じたわたしに、ルビーはどうだった、と尋ねて来ました。わたしは笑って答えました。

「ありがとうルビー。寂しいけれど、素敵なお話しだったわ。読めて良かった」

するとルビーも、初めてわたしに、柔らかい笑顔を向けてくれました。

「……ありがとう、サファイア」

それはまさしく花が綻ぶような、そうでなければ星の零れるような、そんな綺麗な笑顔でした。

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