第2話
あの日からわたしたちは一緒に本を読むようになりました。自分で本を読むのはやっぱり退屈だったけれど、それでもわたしはママのためだと思って我慢して必死で文字を追いました。その子はけれど、本を読むのも楽しそうには見えませんでした。いつも静かにページを捲るだけで、にこりとする事も、涙を零す事もありませんでした。だからわたしは気になって、ねえ本当に面白いの、聞いたのですが、あなたにはわからないわ、と言われてしまいました。
「わからないなんて、さみしい事を言わないで」
「別にさみしい事なんかじゃないわ。価値観なんて人それぞれよ」
「だけどあなた、本当にたったひとりだわ……さみしいわよ」
わたしは少し泣きたい気持ちになりました。その子と一緒にいればいるほど、その子が一人きりである事を痛いほどに知ってしまったのです。本はおしゃべりしてくれないし、一緒にお菓子を食べてもくれないし、頭を撫でてくれる事もありません。少なくとも、その時のわたしはそう思ったのです。
その子だってクレイドルの少女の仲間なのだから、みんなと一緒におしゃべりをして、お菓子を食べて、ママに頭を撫でて貰ってほしい。わたしはその子に対して、そんな事を考えていました。だからわたしは、ねえ、と本に栞を挟んでその子に話しかけました。ずっと考えていた事を、とうとう口にする決心がついたのです。
「あなた誰にも名前を呼ばれないじゃない?わたしが考えてあげる!」
「いらないわ」
わたしはなんでかとても傷ついてしまいました。本当に泣いちゃいたい、それを必死で堪えながら、そんな事言わないで、そう言って用意していた名前を教えました。
「ねえ、ルビーってどうかしら。わたし赤い色が好きなのよ」
「勝手につけないでくれる?」
「ルビー!ほら返事をして」
「嫌よ」
そこまで来るとわたしは本当に泣きだしてしまいそうで、唇を噛んでそれを耐えました。そうして俯いていると、その子――ルビーは、ルビーも栞を挟んで本を閉じて、小さく息を吐き出しました。
「私がルビーならあなたはサファイアね」
「どういう事?」
「ルビーじゃないって事よ」
「……どういう事?それって素敵な意味を持つ名前?」
クレイドルでは、みんな思い思いに友達の事を呼びます。ママにも、名前をつけて貰えます。わたしはアイリスとママに呼ばれていましたし、友達には優子とか、パピヨンとか、お姉ちゃんとか、他にもたくさんの名前がありました。クレイドルの少女は、生まれた時の名前を憶えていません。だからそうやって、誰かに自由に呼んで貰う事が出来るのです。クレイドルはとても自由で、そして愛に満ちた所です。それはママがそう望んでいるからで、わたしたちはみんな、ママの願いを叶えてあげたくて一生懸命になります。それがクレイドルの少女です。わたしも、それにルビーも。クレイドルの少女でした。わたしたちは、愛情を、素敵な意味を込めて友達を呼びます。クレイドルの少女は、そうだと決まっているのです。
だからきっと、ルビーもわたしに素敵な意味と愛情を込めてくれたのだと、わたしは思いました。けれどルビーはまた、口端を歪めて笑うだけ、わたしに愛なんて、ひとかけらだってくれないのでした。
「あなたって本当に少女ね。それ以外の何者でもないわ」
「どういう事?」
「あなたってそればかりね。……いいえ、あなただけじゃないわ。みんなそう。だから私にとって、あなたはただの『みんな』だっていう話よ」
ルビーは閉じた本を持ってベンチから立ち上がりました。私もう行くわ、ルビーは言って、それから座ったままの私を振り返りました。ルビーはいつも、私を睨んでいました。
「私、あなたの事が嫌いだわ。もしかしたら女神以上に。だってなんでもないんだもの。気持ち悪い」
「……わたしはルビーの事が好きよ?」
「だから何だっていうの?」
ルビーの言葉は棘が生えるようで、私はなんだか耳が、そして体の中が、ちくちくと痛むのを感じました。ルビーはそれだけ言うと、すぐに立ち去ろうと足を進めました。私は慌てて後を追って、待って、その手を掴みました。
「ねえ、ママの所に行きましょう。そうしたら、きっとママの事好きになるわ。それにみんなとお友達になれる。みんなに紹介するわ、あなたがルビーだって」
わたしの話を、ルビーはとてもつまらなそうに聞きました。その表情を見て、わたしは何故か、ああルビーは本を読むのが本当に好きで面白く思っているのだ、という事を理解しました。ルビーは、そして本当に、わたしの事が嫌いなのだという事も、わかってしまったのでした。
「私ね、ママって言葉を使う子が嫌い。だけど私、母さんの事をママなんて呼ぶ女の子だったかもしれない。それがすごく怖いわ」
「ルビー?」
「……あなたにはわからないんでしょうけど」
ルビーはわたしの手を解いて、あの、口端を歪める笑い方をして、私を呼びました。サファイア。わたしはそれがとても嬉しくて悲しくて、ルビー、私が呼ぶ声は、震えてしまっていました。
「ねえ、大好きなママに何かもわからない恋をしてるサファイア。私あなたの好きが嫌いだわ」
いやよルビー、嫌いになんてならないで。それが言いたかったのに、どうしても言えなくて、わたしはただ、遠ざかっていくルビーの背中に伸ばせない手でスカートを握っていたのでした。
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