小説よりも奇なる現実
身体が異常に重かった。
小学二年の頃にスイミングスクールに通っていたため平均よりは泳ぎが得意な水菜だったが、布が吸い込んだ海水の重みで、泳ぐことなど到底できなかった。
いや、例え代わりに水着を着ていたとしても、この海で人が泳ぐことなどできるはずがなかっただろう。
止むこと知らない大粒の雨、視界に瞬く閃光、それと共にやってくる轟音。
先ほどまであんなにも美しかった海は、その凶暴な一面の全てを使って水菜に襲い掛かっていた。
身動きなど、取れるはずがない。海水がナイフでできた足の傷口に染み、全身に猛烈な痛みが走るが、その痛みを叫ぶことすら、その海はさせてくれなかった。
ゴミ屑のように波にもまれ、もまれ、もまれ続ける。
「ッぷは!」
いくらか波が落ち着いた場所に流され、海面を割りようやく肺に空気を入れることができた水菜は、痛みと疲労によって意識が朦朧としながらも、なんとか辺りを見渡す。
あんなにも奇麗だった空は、薄汚い雷雲に覆われ、周りに船など、どこにも確認できなかった。
しかし、代わりに近くを流れていた木の板を見つけた。藁にも縋る思いで木の板にしがみつく水菜。
ボロボロで薄汚い木材だったが、それでも水菜に少なからず安心感を与えていた。
だが、
「……うそ」
水菜が見たものは、まさしく〝絶望〟だった。
渦。
日常生活で使うことなどまずない、しかし決して聞きなれない言葉でもない
今の水菜にとってそれは、まさしく絶望でしかなかっただろう。
抵抗する間もなく飲み込まれ、やっとのことでしがみついた小さな希望など、一瞬で奪い去られた。
再び波の牢獄に閉じ込められ、身体中の酸素が奪われる。
あれだけ荒れ狂っていた海面だったが、海中は穏やかだった。
外に出なければ死ぬ。でも、海中の方が静かで心地よかった。それはまるで、麻薬のようなものだったのだろう。
ああ、死ぬのか。
自然と、そんな言葉が水菜の脳内に過った。
怒りはあった。
なんでこんなことにならないといけないんだ、と。自分は何も悪い事なんてしていないの、と。
悲しみはあった。
まだ十六年しか生きていないのに、と。もっともっと楽しいことがしたかったのに、と。
後悔はあった。
諦めもあった。
だけど、それよりも、
両親に、一樹に、奈乃葉に、ゆづるや優一に、京に、そして、救ってくれた大樹に対する、申し訳ない気持ちがあった。
あまりにも弱すぎる自分に対する、情けない気持ちが、あった。
(ごめんね……大樹)
そして、水菜は、静かに、その瞼を、閉ざした。
と思った瞬間、急に身体が上へと引っ張られた。
「ふべっ?!」
突然の事態に理解不能の水菜だが、そんなことお構いなしに身体は水菜の意思関係なしに上へ上へと引っ張られる。
そしてあっという間に海面へとたどり着き、勢いよく外へと飛び出した。
「よぅっし釣れたあああぁぁぁ…………って、あれ?」
すぐそばでそんな声が聞こえたが、今の水菜の身体にとっての最優先事項は体内に入った水分を吐き出し、酸素を入れることだ。
呼吸困難なほど吸ったり吐いたりを繰り返す水菜は、ようやく自分の置かれている状況を視覚に入れることができた。
目の前には、こちらを見ている青年が一人。年は大学生ほどだろうか。黒に少し青みがかかった髪に、肌が少し焼けているその少年は、黒いズボンに白いTシャツといたって普通の恰好をしており、その手には釣り竿が握られていた。
少年は船に乗っており、船の上からこちらを困惑した目で見ている。
そして水菜は、釣り竿で吊るされているのが現状、ということだ。
「えーっと…………どちらさん?」
当然の質問をする少年に、いまだ呼吸が落ち着いていない水菜がなんとか答えようとするが、その前に事態は動いた。
すぐそばで、海面が割れる音がしたのだ。首を動かしてそちらを見た水菜だが、確かにその姿をしっかりと確認できたのに、何を見たのかが全く理解できなかった。
「へ……び?」
そこにいたのは、蛇だった。と言ってもそれを見て、ただの蛇という者はいないだろう。
なにせ、全長10メートルを越え、額に水菜の身体よりも大きい角を携えているのだから。
意味が分からない目の前の現実に呆けていた水菜は、しかし、そんなことをしている場合ではなかったのだ。
「きた、ホーンスネークだ!」
先ほどの少年からそんな叫び声が聞こえたかと思うと、少年は釣り竿を放って大蛇の方へと走り出したのだ。
「え、ちょまっ!」
なにかを言う前に水菜は再び海の中へカムバック。
せっかく吐き出した海水が再び体内に侵入するのを必死に抵抗しながら、水菜はぼやける視界の中、水面の向こう側からの轟音と、何かが水中を割る音が耳に入った。
# # # #
「いやー悪い悪い。ホーンスネークは最近全然釣れなかったからつい舞い上がっちまってなあ」
溺死寸前でなんとか助かったと思ったらまさか再度トライさせられるとは思っていなかった水菜としては、すげえ軽い感じで謝ってきたその少年に小さく殺意を覚えなくもなかったが、正直いまは酸素を身体に補充させるのに必死でそれどころではなかった。
「と、とりあえず……ハァ、ハァ、助けてくれて、あ、ありがとう……ございます」
「いいよ別に。それよりもなんでこんな海のど真ん中で溺れてたのかが気になるんだが……」
だいぶ気が楽になってきた水菜は、その言葉にまあ当然だろうなと思ったし、事情を話した方が楽だろうとも考えたのも事実だ。
しかし水菜としてはそんなことは放っておいてまず先に確認しなければいけないことがある。
「あの……えっと」
「アイン。俺の名前な。好きなように呼んでいいよ」
「あ、はい。ではアインさん。一つお聞きしたいことがあるんですが……
と、水菜が指を指した先。水菜が今乗っているのは小さな白い漁船のような船だが、小さいといっても大型バス程度の大きさはあるため、どんな間違いがあろうと爬虫類なんぞに越えられてはならないのだが、その海には、明らかに船よりも断然大きな蛇がぷかぷかと浮いていた。
鱗は濃い目の青、つまり藍色と白に彩られ、そこだけ見たら大きいだけの(その大きさが異常なのだが)ただの蛇のようにも見えるが、その眉間にはサイのものなどよりも数倍大きい角が生えている。
明らかに地球上の生物ではないそれを改めて見て思考が停止しかかる水菜。溺死して夢と希望のネバーランドにでも迷い込んだのかと思ったが、それにしては初っ端から水菜の扱いに夢も希望も一切感じられない。
「なにって……ホーンスネークだよ。知らねえの? 刺身にすると旨いんだぜ」
「いや蛇の刺身なんて食べたくないですよ。ってそうじゃなくてですね……」
何の気なしにそういう青年、アインの反応を見るに、この謎の生物は彼にとって特に気に掛けるような物ではないようだ。
(私が知らないだけで、地球にあんな生き物がいた……? いやいやいやいやあんな生き物いたら絶対有名になってるはずだし、第一ここはまだ日本からそんなに離れたところでもないからあんなのがいたら間違いなく知ってるはずだし。それに…)
そして、それに関しても気にかかるのだが、水菜にはもう一つ、気にしていることがあるのだ。
(嵐が、止んでる……)
そう、あれだけ荒れ狂っていた海は静けさと美しさを取り戻しており、薄汚い空の汚れは奇麗に拭い去られていた。
海の天気は変わりやすいとはよく聞くが、それはここまで変化の激しいものなのだろうか。異常気象だと言った方がまだ納得できる。
(…………まさ、か)
ここで、水菜はある一つの結論にたどり着いた。それは、ここ最近大樹がハマっている漫画やアニメなどの話を聞いていたからたどり着いた答えだったのだろう。
「アインさん……ここは、この星、いやこの世界の名前はなんですか? 地球、ですよね?」
恐る恐る口に出した水菜のその言葉に、アインはキョトンと首を傾げ答えた。
「チキュウ? 何言ってんだお前。この世界は〝ラメール〟だろ。」
その言葉は、水菜の直観に確信を持たせるのに十分だった。
最近、大樹がハマっている創作ジャンル。
地球の人間が、まったく別の世界へ迷い込んでしまう物語。
つまり、
「異世界……転移、って、マジで?」
本当に、異常気象の方がまだ納得の出来る現実だった。
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