終幕

「みずな、水菜! クソッ」


大樹は叫びながら、手すりに足をかける。刺された腕が激痛で訴えるが、そんなこと構うことすらできなかった。


まだ、間に合うかもしれない。


自分が飛び込んでなんの助けになるかは分からないが、それでも水菜を手放すよりはマシだった。


しかし、寸でのところで肩を強く捕まれ、動きを止められる。


「ば……っか野郎……! 死にてえ、のか…………!」


途切れ途切れのその言葉に振り返ると、髪を金色に輝かせた少女が、鋭い眼光で大樹を睨んでいた。確か、同じクラスの佐藤麻衣とかいう名前だったと、大樹は思い出す。


かなり疲労しているようで、その足から流れる血液は止まることを知らないようだった。


「うるせえ、速くいかねえと水菜が―――――」


と、佐藤に構わず飛び込もうとした、その瞬間だった。



閃光が、大樹の視界のどこかで瞬いた。



そして、遅れてやってくる爆音が、大樹の耳をぶっ叩く。バケツをひっくり返したように、唐突に視界を埋め尽くすほどの雨が大樹の全身に降りかかった。


嵐だ。


いつの間にか、あれだけ静かだった海は暴れ回る大蛇のように荒れ狂っていた。


まるで、世界そのものが、水菜を救いから引きはがしているようだった。大樹から、希望を引きはがしているようだった。


人一人が、太刀打ちできる相手ではない。ましてや、少女を助けに行くことなど、ただの少年に、出来るわけが、無かった。


「いま、飛び込んだら、おまえも、一緒に死ぬぞ……!」


力なく、言葉を出し続ける佐藤だが、肩を握るその手は、決して弱い物ではなかった。


まるで、絶対にこれ以上犠牲を出すことを許さないように。


そしてそれは、もう、一つの犠牲は諦めろと、言っているように。


「……ふざけんなよ、おい」


それでも、大樹は認めることが出来なかった。


そんなこと、出来るわけがなかった。


「ふざけんな、ふざけんなふざけんなッ! なんであいつがこんな目に会わねえといけねえんだ。なんで、なんでまたこんな目にッ…………!」


大樹の頭に浮かぶのは、あの日の情景。


また、やってしまった。


また、失ってしまった。


守ると、誓ったはずなのに。


だが、現実は、大樹の思いを汲んではくれない。


「どちらにせよ。貴方には死んでもらいますよ」


近くで、その声が聞こえた。酷く冷たい、死人のようなその声。


一瞬後、大樹は手すり側に身体を押された。


そして、目の前を鉛色のナイフが横切った。


大樹を助けるために佐藤が身体を押したと気づく前に、ナイフを引いた相羽は右足を佐藤の横腹に蹴り入れた。


メキメキと、何かが軋む音と共に佐藤は横に吹っ飛んだ。


「佐藤ッ!」


思わず吹っ飛んだ佐藤の方を見てしまう大樹の視界の先で、相羽がナイフを振りかぶっているのが見えた。


とっさにしゃがむと、真上でナイフが横一線を描いた。


「ッ、らああああああああああッ!!」


そしてそのまま、相羽の細い体に抱き着き、押し倒す。雨に濡れた冷たい甲板に相羽の背中を叩きつける。体制を整えられる前に馬乗りになってナイフが握られている手を右手で押さえつけた。


そして左手で相沢の胸倉をつかみ、頭で思いっきり額を打つ。


「なんで、なんで水菜をッ!」


雨にうたれ、ぐしょぐしょに冷たくなった身体でも、その怒りは冷めることを知らなかった。


同じように雨で濡れた相羽は、そんな大樹を、変わらない無機質な目で見ていた。人を一人、殺したというのに。


「なぜ、と問われれば、憎かったからとしか言えませんが」


そして無機質で、機械のような声で、その少女は言った。


声を荒げることもなく、嘲笑うこともなく、ただ、当たり前のことを口にするように。


「てめえ、そんな理由で……!」

「では聞きますが、貴方はどうなんですか?」


怒り狂う大樹の耳に、そんな声が聞こえた。


相葉は胸倉をつかむ大樹の手首を、押さえつけられている方とは逆の手でつかんだ。


大樹の視線が、自然とその手に集中する。


「私は飯田水菜が憎くて殺した。貴方は私が憎くて、今殺そうとしている。同じではないですか?」

「ッ! 誰が、誰がお前なんかとッ!」

「同じですよ」


手を振りほどこうと、いや、そんなことなど考えず、ただ我武者羅に相羽の頭を甲板に叩きつける。鈍い音がし、雨に紛れ濡れた甲板に朱色が混じりだす。


それでも相羽は手首を握り続け、何もない、真っ白な顔で言葉を紡ぎ続ける。


「邪魔だと思った相手を殺そうとする。その点で、貴方は私と何も変わりない」


ここで、大樹の手にナイフがあったら、どうなったか。


今にも首を絞めそうに、犬歯をむき出しにして荒れ狂っている大樹と相羽の違いなど、致命的な凶器を持っていない。ただ、それだけだ。


大樹の腕をなでるように手を動かす相羽は、酷く冷たい声で、そう告げた。


「所詮貴方は、私と同じ人殺しです」



そして、その細い指を、腕の傷口にねじ込んだ。ナイフに貫かれた、その傷に。



何が、起きたのか、分からなかった。


ゆっくりと、止まった時が流れ、脳に信号が届く。


言い知れぬ、痛みという信号が。


「があああああああああああああああああッ!!?」


掴んでいた襟を離し、もがくために後ろへ倒れようとして、少女の指が抉るように抜かれ、さらなる激痛が大樹を襲った。


体制を崩した大樹を突き飛ばし、相羽は後ろへと下がったのが目に入った。


ナイフを、まるでペンのように指で弄ぶ相羽を、大樹は腕を抑えながら睨みつけた。そんな大樹を、相羽は見下ろしていた。


「愛ッ!」


後ろから聞こえた声と共に、大樹の上を長い脚が通り過ぎ、相羽へ襲い掛かる。


バックステップでそれを避けた相羽に、その声の主、佐藤はその鋭い眼光を浴びせるが、その足からは、まだ流血が止まっていない。


腕を刺され、しかも傷口を抉られた大樹と、足を刺された佐藤に対し、所々血は出ている物の、大きな怪我もなく、ナイフを無数に持っている相羽。


二対一とは言え、絶望的な状況なのは簡単に見て取れた。


相羽が再びナイフを構える。次こそ、仕留めるとでも言うように。


それを見て、何かを悲しむような表情を作る佐藤も、大樹を庇うように前に出た。


「待て、そいつは俺が……!」

「寝てな。今のあんたじゃ、万が一あいつを倒せても本当に殺しかねない」


そう言う佐藤も、片脚が小刻みに震え、まともな状態じゃないことは一目で分かった。


そして、相羽が一歩、佐藤に向かって踏み込んだその時だ。



「お前ら、何やっているんだッ!?」



突然、上からそんな声が大樹達に降り注いだ。


見ると、一つ上の階の甲板で、担任の香川が驚いた様子でこちらを見ていた。先ほどから叫び声が何度も鳴り響いているためか、他にもちらほら人が増え始めているのが見える。


「桜木!」

「ダイちゃ……ってその腕どうしたの!?」


その声を聞き大樹が振り返ると、大樹が来た階段から、優一とゆづるがこの階へと昇ってきていた。


優一も、ゆづるの台詞で大樹の怪我と、そして大樹達の前に立っている少女に気がついた。


「相羽、さん…………」


そして、そして、だ。


「ああ、佐々木さん」


大樹は相羽の方に顔を向け、思わず、顔が固まってしまった。


信じられないものを見る目で、大樹は相羽の顔を見ていた。


笑っていたのだ。


あの、無機質で、人を殺した時でさえ変わることのなかった、冷たすぎる仮面のような顔が、ただの少女のように、目元も、口元も、全てが、彼女の笑顔を現していた。


「すみません。お見苦しいところをお見せしてしまったようで」


まるで、何事もなかったように。


まるで、間違っているのは大樹達の態度だと言わんばかりに。


この異常な空間でのその普通な態度は、逆にその狂気を露わにしていた。


「本当はその女も含めて始末したかったところですが、人も増えてきたのでこの辺りで引かせてもらいます」


淡々と紡がれるその言葉に反応し、大樹は我を取り戻した。


「てめえ、逃げる気か!?」


憎悪と憤怒がむき出しの剣幕で叫ぶ大樹だが、もはや、相羽は大樹どころか佐藤すらも目に入れていない。


少女の目に居るのは、佐々木優一の、ただ一人だけだった。


佐藤はそれを、痛ましい目で見ていた。まるで、過去の自分を責めるような目で。


「それでは佐々木さん。またどこかでお会いしましょう」


そう言って翻した相羽は、手すりを飛び越え、荒れ狂う海へと飛び込んだ。


「待て、てめえええっ!」


叫ぶが、すでにそこに少女はいない。重い物が海へと落ちる音が、嵐の中でかすかに聞こえた気がした。


「い、いったい何が起こったんだ!? 相羽が海に落ちたぞ!」

「え、なになに、何があったの!? ダイちゃん大丈夫!? っていうかなっちゃんはどこ?!」


ゆづるや優一、上にいた香川達が大樹達に駆け寄る中、大樹は雨に濡れた冷たい甲板で打ちひしがれていた。


「ちくしょう、ちくしょう……!」


その頬に、雨以外の水滴が流れる。


また、守れなかった。


また、失ってしまった。


「ちくしょうがあああああああああああっ!!!!」


そして、


天空のイルミネーションは、薄汚い幕で閉ざされた。

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