届かぬ救い

ナイフ。


それそのものは、水菜の日常でもよく触れられている。飯田家の家事係は水菜だ。その分、その辺りの高校生よりは刃物の扱いには慣れているつもりだった。


しかし、いや、だからこそか、水菜はこの時初めて知った。


空気、ただそれだけで、それ一つが違うだけで、これほどまでに恐怖を突き付けてくる凶器ものだということを。


「相羽……さん? いったい――」

「喋らなくて結構」


凍えるような冷たさだった。


暖かさもなく、怒りもない。ただ、あくまでも機械的な声色で、もう変更の出来ない決定事項を告げるように、当たり前のように言う。


「貴方には、死んでもらいます」


それだけだった。


それだけ言い、床を蹴る音が耳に入った時には、彼女は水菜の目の前にいた。


反応など、出来るはずがない。そもそも、何が起こっているのかも理解できていないのだ。


水菜が息を飲んだ時には、ナイフの切っ先が水菜の目線に沿って、眼球に吸い込まれていった。


何もかもが理解不能。


そんな中で、水菜の頭には暢気に、ただ一つ呟きがあった。


あ、死んだ。


そして、



耳をぶっ叩く破壊音と共に、相羽の身体が横に吹っ飛んだ。



それと同時に、ナイフの切っ先も水菜の目から引きはがされる。


今更のように恐怖が体中に伝わり思わず腰が抜け落ち、呆然とする水菜の目の前には、吹っ飛んだ相羽の代わりに、その相羽の側頭部に突き刺さった綺麗な足があった。


ゆっくりと足を下したその者は、一息吐くと、金色の長い髪をすくいながら、耳の真珠を模したピアスを光らせ、禍々しい目で水菜の方を見た。


「さ、とう……さん……?」

「ったく、だから言ったろう。夜に気を付けろって」


これまた予想外。と言うか、意味が分からなかった。


いきなり隣のクラスの転校生が夜にナイフを持って現れ、ナイフ持ったまま貴方を殺しますとか言われて、それでいきなりナイフでマジで殺されそうになって、死んだと思ったら自分をめちゃくちゃ睨んでいた金髪ヤンキーが助けてくれた。


一分も経っていない間に詰め込みすぎだ。何がなんだか一切合切分からない。


「え、なん、なんで……」

「あいつがお前を殺そうとした理由か? それとも私がお前を助けた理由か? どっちでもいいが説明させてくれる時間はくれそうにないぞ」


言われたままに相羽の方を振り返ってみると、まさに相羽が立ち上がろうとしている時だった。


あれだけの蹴りがモロに顔に直撃したというのに、首を鳴らすだけでダメージなど全く入っていないように見える。


近くに来たせいか、月の明かりで彼女の顔が鮮明に見えてきた。その無機質な顔は、突然横槍を入れてきた佐藤を睨んでいる。いや、あれは睨んでいるのだろうか。そんなこともわからないほど、相羽の表情には何もなかった。


「また、貴方ですか、佐藤麻衣。私の邪魔はしないで頂きたいのですが」


その声色が、先程までより若干低くなっている。その言い方からして、この二人は知り合いなのだろう。


「おいおい、ずいぶん他人行儀な呼び方じゃねえか。前みたいに『姉さん』って呼んでくれてもいいんだぞ?」


その言葉に、相羽の顔が歪んだ……ように水菜は見えた。


手に握られたナイフを構え、切っ先を佐藤に向ける。


しかしあくまでも、佐藤は余裕の笑みを持って鼻で笑っている。


「そこをどいてください。私はその女を殺すだけで貴方に用はありません」

「はっ、まーた佐々木がらみか? お前もいい加減しつこいねえ」


当事者のはずなのに置いてきぼりの水菜だが、ここで優一の名前が出てきて、そういえば水菜は、優一のことでかなり危機的状況にあったことを思い出す。


いや、しかし確か、水菜は佐藤麻衣に狙われているはずではなかったのか。ならばなぜ、その佐藤麻衣はこうして水菜を助けているのだ。


そもそも、なぜ相羽愛は水菜を狙っているのか。


根本的な立場が分かっていないのに、状況だけが水菜を置いて進んでいく。


「その女は佐々木さんにとって害でしかない。その女達と出会ってしまったせいで佐々木さんは変わってしまった」


何もわからない状況の中、その声だけで一つだけ分かった。


明らかに今までの無機質なものとは違う声。こんな声を出せたのかとすら思えるほどの、敵意、いや、殺意に満ちた声を、容赦なく水菜に浴びせてくる。


これだけでわかる。


彼女は、飯田水菜という人間に果てしない憎悪を抱いているのだと。


「ならば、その女を佐々木さんから引きはがせば、佐々木さんは戻って来てくれるはずです」


すぐに事務的で淡泊な声に戻り、相羽はナイフを持って踏み込んだ。


佐藤と相羽の間は四メートルもない。一瞬で、相羽は佐藤の目の前まで足を踏み入れた。


顔の近くに構えたナイフの切っ先を、佐藤の顔へと狙いを定める相羽。


唐突に、佐藤の右足が勢いよく後ろに跳ねた。水菜にはわからなかったが、相羽ナイフに視線を誘導し、その隙をついて佐藤の脛に向かって蹴りを入れようとしていたのだ。


それを見越し、避ける為に後ろへ振りかぶった右足で、思いっきり相羽の側頭部に回し蹴りを食らわせた。


「グッ……!」


なんとか左腕で防いだ相羽だが、ローキックの空振りで体制を崩してしまっていた為か、踏ん張ることが出来ず、軽くひるんでしまう。


体制を立て直そうと図り、一旦後ろへ引こうとするが、突然、相羽の視界が闇に包まれた。佐藤の右手が、両サイドの眉間を挟み込むようにして相羽の眉間を鷲掴みにしたのだ。


そのまま左手でナイフを持った右手を掴まれ、身動きが取れなくなる。


「がッ」

「ちと痛いかもだが、我慢できるよな?」


佐藤はその状態で相羽の両足を払い、鷲掴みにした顔の後頭部を甲板へと叩きつけた。


「あぐァっ‼」


甲板に鈍い音とうめき声が響く。次に金属音が複数回。佐藤に捻られた手からナイフが落ち、甲板に跳ねる音だ。


あっと言う間だった。あれだけ脅威を突き付けていた相葉愛は、本当にあっと言う間に床に押さえつけられていた。逃れようと空いた左手で抵抗しようとしたようだが、すぐに足で手首を踏みつけられ、完全に身動きを封じられる。


もはや呆然とするしかない。当事者であろうはずなのに、ここまでの出来事をただ口を開けて眺めて、何が起こっているのか全く分からない水菜だったが、殺意を向けていた相葉が無力化されたこともあり、取り合えず危機は去ったのかと、ひとまず安堵する。


「もう……大人しくしてろ、お前は」


暴れる相羽を押さえつけている佐藤の口から、そんな声が漏れた。


「こんなことして、佐々木がお前になびくはずがねえだろう。こんなことをすればするほど佐々木はお前から離れていくって、わかるはずだろ」


甲板に押さえつけ、相羽を圧倒しているはずなのに、その声は、どこか悔しそうだった。


本当に、寂しそうだった。


相羽の抵抗は、いつの間にか止まっていた。観念したのか、佐藤の言葉に聞き入っていたのか。



しかし、佐藤は、擦れる声と共に、それを見た。


「だまれ」


顔面を掴んだ手の、指の間から覗く、黒く、黑く、黯いを。


その瞳自体に動揺したわけじゃない、その擦れた声に動揺したわけじゃない。佐藤は分かっていた、相羽にどう思われているかは分かっていたつもりだった。でも、それでも、あの相羽愛が、自分にそんな瞳を向けてくることに、佐藤は胸が苦しくなった。


そして、その一瞬の動揺を、相羽は逃さない。


「ッ、がああッ!?」


悲鳴を上げた佐藤の右足から、鮮血がほとばしった。


一瞬の隙をついて、足の拘束から逃した左手で、どこに隠し持っていたのか、鉛色のナイフを取り出し、佐藤の右足に刺しこんだのだ。


痛みに体制を崩した佐藤を、相羽は横に突き飛ばし、右足に刺さったままのナイフを抉るように引き抜く。


佐藤の絶叫が響くが、それを無視し、相羽は標的を見据える。


ここでようやく、水菜は事がふりだしに戻ったことを認識した。


佐藤の血で赤黒く染め上げられたナイフが、水菜を狙う。


逃げなければ殺される。そんな当たり前のことを認識し、それが当たり前になっている状況に恐怖した。


それでも、なんとか足は動いてくれた。佐藤のことが心配ではあったが、今狙われているのは自分だ。広くもないこのスペースでは、ぐだぐだしていたらあっという間に追いつかれる。抵抗しても勝てる相手ではないことは先ほどの戦闘で十分に分かった。ここは、逃げの一手しかない。


そう思い、左の下へ続く階段へと足を踏み出したが、その進行方向の床に、勢いよく血塗れのナイフが突き刺さった。


思わず立ち止まって、相羽の方を振り向く。それが、いけなかった。


すぐ目の前まで、ナイフが迫っていた。


鉛色に光るそのナイフは、相羽が投げた三本目のナイフだろう。先ほどの血塗れのナイフで動きを止めて、三本目のナイフで、仕留める。


そんな流れが、なぜか頭の中で勝手に想像された。


そして、あまりにも簡単に、小気味よい音を立て、ナイフは薄い皮膚を突き破った。


水菜は、目を見開いた。痛みは感じていない。水菜に、ナイフは刺さらなかったからだ。それは、相羽が狙いを外したわけでもなく、水菜が避けたわけでもない。


水菜の目の前に、一人の少年の背中があったからだ。


「だい、き……?」


#  #  #  #


最初に聞こえたのは、何かが床に叩きつけられる音だった。


百円玉を自動販売機の下に落とし、覗いてみると案外金が落ちていて拾うのに夢中になっていた時のことだ。


最初はなんの音かよくわからず、何か重い者でも落ちたのかとさほど気にせず、水菜の好きなりんごジュースと微糖のコーヒーを買った。


正直な話、コーヒーはあまり大樹の好みではない。ここ十年間飲み続けているが、微糖でさえ一向に慣れる気配がないのだ。それでも飲み続けるのは、野球漫画を読んでピッチャーになりたくなるようなものなのだろう。


そして、二つの缶ジュースを取り出した時だった。


悲鳴が、聞こえたのだ。


「……みず、な?」


嫌な予感しかしなかった。今の悲鳴は、水菜のものではない。それでも、水菜のいる甲板の方から聞こえたのだ。無関係と断じるのは浅はかであろう。


急いで甲板の方まで走った。心臓の鼓動が邪魔くさく、胸に焦燥感と不安が募る。


幸い甲板は、廊下の角にあった自販機から右に曲がったすぐそこだ。階段につくまで、五秒もかからない。


そして、階段を駆け上がり、繰り広げられる惨状が目に入った。


足から血を流し倒れている少女も目に入ったが、大樹は別の方を見ていた。


正面。大樹のいる階段とは別の、下り階段の方へと走る水菜と、それを追う血濡れのナイフを持った少女。


何が何だか全くわからなかったが、それだけで、身体は勝手に走り出していた。


少女が血塗れのナイフを、水菜が逃げようとした先の床に投げつけ、その後瞬時に、どこからか取り出した二本目のナイフを水菜に向かって投げつけた。


(ッ、駄目だ、止まるな!)


心の叫びも空しく、少女の目論見通り、水菜は思わず立ち止り、少女の方を振り向いてしまう。


水菜も二本目のナイフに気が付いたようだが、もう遅い。今更避けることなど、出来るはずがなかった。


だから、だから、


大樹は、水菜の前に飛び出した。


とっさに顔を庇った右腕に、言い知れぬ激痛が走る。


後ろで、水菜が自分の名前を呼んだ気がするが、大樹はそんなこと気にする余裕などなかった。


「にげ、ろ」


状況は一切分からない。それでも、大樹は目の前の少女を睨みながら言う。そうするべきだと思ったから。


「で、でも……」

「いいから逃げろ馬鹿ッ!」


そう叫び付け、大樹はナイフを抜く。その勢いで飛び散った血を、いつの間にか眼前まで迫っていた少女の顔に浴びせる。


その時点で、大樹は生まれて初めての激痛に、痛み苦しみ、倒れたくなる。


それでも、それでも踏ん張る。水菜を、逃がすために。


飛んできた血を手で庇った少女に、右手の拳で力いっぱい殴りつけた。痛みで意識が飛びそうになる。


しかし、少女は血を浴びた腕でそのまま大樹の拳を掴み、左の拳をがら空きの水落に叩き込んだ。


「がッ……!?」


息が詰まる大樹に、さらにその横っ腹に回し蹴りを叩き込まれた。


「大樹ッ!」


横に吹っ飛ぶ大樹を尻目に、相羽は逃げようとして思わず立ち止った水菜に狙いを定める。


そんな相羽を見て、水菜は小さく悲鳴を上げ、階段へと逃げ込もうとしたが、


「あがッ!?」


階段の一歩手前で、足に激痛が走る。


太ももの辺りに、鉛色のナイフが突き刺さっていた。


(な、何本持ってんのよ!?)


思わず思ってしまう水菜だが、相羽は一切躊躇せず、水菜の水落に右のストレートを叩き込む。


肺の空気が、一気に外に放出される。


悲鳴を上げることすらできず、立て続けに、相羽の足が水菜を後ろに吹っ飛ばした。


階段を越え、柵を越え、海の、真上まで、


「あ、」


一時の浮遊感。その瞬間、重力が水菜の身体を海へと引きずり込む。


絶叫が、船の至るところまで響き渡る。


「水菜ああッ!」


大樹が、手すりを越え、水菜に向かって叫んだ。


しかし、手など、救いなど、届くはずが、無かった。


「だい、き」


確かに、そんな声が大樹の耳元に聞こえた。


その瞬間、無慈悲なげんじつが、水菜の姿を消した。

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