カランコロン
紫鳥コウ
カランコロン
1
十八年の歳月分だけ鉛筆で塗り固められた影を崖の下に突き落としてしまうと、ぼくは導かれるように大洋に背を向けた。まばゆい光が眼の奥の濁りきった塊を灼いてしまった。見たくないものを見てきた両眼は、これからは見たいものを見るようにと調教された。
「地獄にはうめき声がとどろいていて」
彼女が口にした地獄という言葉が指し示すのは、蓮のうてなのことのように思えた。
「天国では神様の召使いさんたちが、休むことなく整った演奏を流していて」
彼女の前では、神様さへ俗悪な存在に違いない。もしくは、推敲によって削られる一文のようなものに決まっている。
「わたしがピアノを弾くことができるのは、この地上だけ」
ぼくは、彼女の肌に自分の実印を押したい気持ちだった。輸血の相手は、彼女しかいないと悟った。そして、理由なく死ぬことはできないと思った。
「また、聞きにきてくれるよね?」
耳だけは、大切にしなければならない。いや、眼だって鼻だって舌だって皮膚だって、そうだ。ぼくの自由意志が彼女に惹かれているのではない。ぼくの五感が、彼女に恋をしているのだ。
この世から、酸素なんて消えてしまえばいい。ぼくは窒息したい。薄らぐ意識のなかで、恋をしたい。意識が途絶えたところで、生まれかわりたくなんてない。彼女を転生させたくもない。天国なんて灯油をばらまいて燃やしてしまい、地獄をブラックホールに放ってやりたい。ぼくは彼女と、肉体の置き場のないところで、愛しあいたい。
「わたしね、ピアノを弾いているときに、ずっと思っているの。届けって。わたしの想いが、届けって」
書きたいと思った。うすぐらい密室で月を見ている少年が、窓の外から猟銃で撃たれる。そして、その少年の母親が殺人犯の猟師を探しに、世界中を旅する。そんな小説を、書いてみたいと思った。
ぼくは、危険な思想をふところに培って、大学の風紀を乱したいと思った。ならば、受験勉強をするしかない。日本史の教科書を蹴飛ばして、物理のノートを床に叩きつける狂乱に、陥らなければならない。
心臓にタコをはりつけて、苦しみたい。イカの墨を、胃腸にためこみたい。恋は、海のまん中にある。浅瀬にはない。砂浜に打ち上げられた流木は、恋に敗れたロマンティスト。ペットボトルは、恋が人工物ではないことを知った、厭世主義者。
陽光に煌めき、月光に慰められたにもかかわらず、疲れた、もう、死んでしまいたいと海は言うけれど、ぼくは、海のまん中で恋をしなければならない。生きてほしい。はじめてなにかに対して、生きてほしいと思った。
「音大に行きたかったの、本当は。でも、そこまで巧くなかったから、はじかれちゃって。普通に国立に行ってね、普通に卒業をしたのだけれど……うん、それで良かったんだと思う。ここで弾かせてもらえるんだから。ねっ?」
この喫茶店にいるだれもが、西アフリカのことなんて考えようともしない。コートジボワールの国旗さえ知らない。だからといって、この店の珈琲を飲むことができなくなるわけではない。太陽が天空でめらめらと燃えている農園のことを想像しないにもかかわらず。
珈琲豆が挽かれている光景は、十九世紀。そんなことを言うと、怒られる。けれど、ここの珈琲を急いで口にいれて火傷をするということは、西アフリカの歴史を追憶することと一緒なのだ。コートジボワール産の珈琲豆だからといって、コートジボワールのことだけを頭に浮かべればいいわけでは、ないのだ。
2
祝福したい。ぼくはくす玉を割って、彼女を祝福したくてしかたがなかった。そして、ありがとう。いままでありがとう。本当にありがとう。そう言って、彼女の靴を磨いてあげたかった。
嫉妬なんて、なかった。
ただ、祝福したい。彼女の後ろ姿が地平線に踏みつぶされるまで見送りたい。
3
次にここでピアノを弾くのは、だれなのだろうか。そんなことは知らなくてもいいことかもしれない。けれど、次の演奏者が、赤色のピアスをしているのかどうかだけは、知りたかった。
カランコロン。
この喫茶店の入り口に、いつから鈴がつけられていたのだろう。
ああ、そうか。去ったことを報せるなにかを、そこに残しておかないと、去ったということを忘れられてしまう。彼女は、ずるい。檸檬の汁を、ぼくの傷口に塗りたくって、夕焼け小焼けで逃げてしまった。
4
五感に万年筆を走らせた。
ぼくでは、ダメだったのでしょうか。未成年だからですか。トレンドの服を着ていないからですか。印象派の絵画が好きではないからですか。煙草の銘柄をひとつも言えないからですか。
あなたの演奏への感想に、濁点が多く含まれていたからですか。
カランコロン 紫鳥コウ @Smilitary
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