【5】




 藤田蒼澄は、夢を諦めた。いや、捨て去ってしまった、という方が正しいか。とにかく、彼の人生において大きな選択をしたということは間違いない。


 朱音を始めとした周囲の人間も当然のように蒼澄の夢を知っていたので、彼の変わりように驚きを隠せなかった。蒼澄本人としては、言わず語らずを通そうと思っていたのだが、それまでの彼が強く志望していた国立東雄高等学校のヒーロー科から普通科に進路変更した段階になっては流石に誤魔化せなかった。


「何があった?」

「悩みなら聞くよ?」

「どうしたの?」

「あんなに一生懸命だったじゃないか」

「考え直さないか?」

「もったいないよ」

「もう少し良く考えた方が良い」


 小五郎、栗子、リコ、ルカ……蒼澄の人となりを知っているありとあらゆる人が、彼の心変わりに戸惑っていた。蒼澄の捨て去った夢をなんとか拾いあげてもらおうと、必死に彼とコミュニケーションを図ろうとする者も少なくなかった。


 だが、彼は、夢を切り捨てたその理由を決して語らなかった。


 表向きは、『自分に限界を感じた』からとして本当のことは語らなかった。実際、語ったところで誰も本気にしてくれるとは蒼澄は思っていなかったのだ。自分自身でもどこか他人事のように感じてしまうのに。


 蒼澄の変化を受け入れたのは、二人だけだった。


 一人は義母である藤田ノザーテ。


「聡明な蒼澄が決めたことよ、間違いであるはずない。残念ではあるけど、背中は押すわ。何かあったら、いつでも相談してね」


 そう言ったノザーテは、蒼澄を優しく抱きしめてくれた。血の繋がりは無くとも、ノザーテは間違いなく蒼澄の母だった。


 そして、もう一人は蒼澄がお世話になっている黒川流柔術道場の師範、黒川龍ニであった。


「今までのあなたは、どこか心が居付いついていて、それが身体の硬さに繋がっていました。今のあなたはとても柔らかい、心も身体も脱力している証拠です」


 黒川は柔和な笑みをもって蒼澄の変化を受け入れていた。周りからはネガティブな意見が噴出している中、彼だけは蒼澄の変化にポジティブなものを見出したようである。


 上の二人のかけてくれた言葉は、蒼澄が感じていた重みのようなものを軽くしてくれたのは間違いない。当時の蒼澄にとっては本当にありがたい話だった。


 しかしながら、ほとんどの人物は蒼澄の変わりように反対の立場を取っていたのである。その中で、誰よりも何よりも、蒼澄の変化について納得のいってない人物が一人いた。


「蒼澄」


「あっ……朱音ちゃん」


「今日こそ聞かせてもらうわよ」


 幼馴染の大和朱音である。


「えと……何を?」


「とぼけんじゃないわよ! なんでいきなり普通科を受験することにしたの!? ヒーロー科はどうしたのよ!?」


 朱音が、蒼澄を見つけるや否や凄まじい勢いでがなり立てた。蒼澄の心変わりを知って以降、会うたびにこんな感じである。おかげで蒼澄は意識して朱音を避けようとしているのだが、家が隣同士なこともあるので限界があった。


 実際、この場面も、蒼澄があえて登校する時間をずらしてなるべくはち合わせないようにしたのだが、朱音にはお見通しの上で待ち伏せされたがゆえのことだった。


 冬の冷たい風が蒼澄の頬を突き刺している。季節はもう12月だ、学生達にとっては受験シーズンである。


「だから、その、何度も言ってるじゃない……自分に限界を感じたんだよ。僕は生まれながら特別な力を持ってる訳じゃないしね」


 蒼澄は、何か特別に才能があるという人物ではない。学業も運動も優秀ではあったが、それらは全て努力の結果だ、特出して何かに秀でるという訳ではなかった。


「超能力もなければ、魔術も使えない、生まれ持っての特異体質でもない。ヒーローとして持ち合わせた方が良い才能を、何も持ち合わせていないんだ」


 そして、彼が今言ったように、蒼澄は生まれながらにして特殊な力を持ち合わせる訳でもなかった。日々戦いに身を置くことになるヒーローは、これらがあるだけでがぜん戦いやすくなる。ヒーローを目指すならあった方が良い才能なのは間違いない。


「嘘!! 蒼澄は今までそんな言い訳一度だってしなかったじゃない!!」


「今まで黙ってただけだよ」


「それも嘘っ!! だって蒼澄、いっぱい努力してきたじゃない!! それに、才能を言うなら私だって無かったわよ!! 生まれ持っての才能がなくったってヒーローにはなれるわよ!! 私が証明してるじゃない!!!」


 朱音が必死に主張する。そうなのだ、ヒーローになるには才能があった方が良いのは間違いない。だが、それが無かったからといってヒーローになれない訳ではない。後天的な要因でヒーローになれる人物も少なくない。努力の末にヒーローの席を勝ち取った者もいる。


 何より、大和朱音自身が、後天的にヒーローとなれた身なのだ。人生は何が起こるか分からない。なのに、蒼澄はもう見切りをつけようとしている。朱音は、それが許せないのかもしれない。


「それは、朱音ちゃんに才能があったんだよ」


「そんなことっ!」


「あるわけないって言うの? 伝説のヒーローに選ばれたのに?」


 蒼澄の言葉に、朱音が一瞬口をつぐむ。


「皆が皆、朱音ちゃんのようになれるはずがない。その人にはその人なりのやれることは決まってる。僕はヒーローはやれない、そう思っただけだよ」


 吐き捨てるように蒼澄が言った。その言葉を聞いた途端、朱音は嘘のようにしおらしくなり、目尻に涙をためる。


「私の……私のせいなの?」


 朱音が、弱々しく問いかける。蒼澄はそれの表情を直視出来ずに目をそらしてしまった。寒空の下、落ち葉が風に舞ってカサカサと音を立てる。蒼澄は、身体の奥底が冷えてきている感覚を覚えたが、果たして、これは気温のせいであったのだろうか。


「私が、私が先にヒーローになっちゃったから、蒼澄はヒーローになること諦めちゃったの?」


「それは違う!」


 静かに涙を流しながら放った朱音の言葉を、蒼澄は否定する。


「朱音ちゃんがヒーローになったのは、本当に嬉しかった! 誇らしかった! そこに嘘はないんだよ!!」


「じゃあ……じゃあなんであきらめちゃったの!!」


 今度は、蒼澄が口をつぐむ番だった。


 言ってしまった方が良いのは、蒼澄も分かっているのだ。


 朱音と蒼澄にとって、お互いに抱いた【立派なヒーローになりたい】という夢は、何よりも大事なものであったはずなのだ。蒼澄は、そのことをセレモニーの日に朱音から聞いたばかりである。彼女のことを考えれば、そうした方が良いことは分かっているのだ。


 だが、蒼澄は、どうしても言えなかった。


 怖かったのだ、あの日、頭から浮かんでくる言葉を否定出来なかった蒼澄自身が。


 そして、もっと怖いのは、他ならぬ朱音に否定されることだった。


 【】。


 その言葉を、彼女に言われてしまうのが、何よりも怖かった。


 もしそんな風に言われてしまったら……あの日、あの言葉を振りほどけなかった自分はどうだというのか。蒼澄は、蒼澄自身を否定されることが怖かった。それを、誰よりも朱音にされるのが恐ろしくてたまらなかった。


「…………」


「どうして黙ってるの?」


「ごめん」


「……嘘つき」


 ダムが決壊したかのように、朱音が涙をボロボロ流しながらそう呟いた。


「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つきぃ!!!」


 朱音の非難を、蒼澄は黙って受け入れるしかなかった。


「嫌い……大っ嫌い!」


 最後は、頬に平手打ちだ。痛々しい音を鳴って響く。蒼澄の右頬が赤々と染まった。


 朱音が走り去っていく。蒼澄を振り切るように、全力で。


 蒼澄は、それを、悔悟かいごを混じえた視線で見送るしかなかった。風が、いよいよ強く吹いてきた。凍えているのは、寒さのせいだ。蒼澄はそう思い込むことにした。


 このことがあってしばらく後に、蒼澄は受験に合格した。国立東雄高等学校の普通科に入学することを決めたのである。


 ここに、蒼澄と朱音、二人の道は永遠に分かれ、交わることはなくなった。少なくとも、蒼澄は、後になってもずっとそう思っている。

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