第1話 北へ

 メルス大陸最南端の国家。リヴレ王国。その国土を縦断するシャイベンタン鉄道に乗って、王立図書館図書館司書にして、国家機密の存在・図書迷宮ビブリオラビリンスの管理人であるメル・アボットは、上司のセシリア・ヘインズと共に北を目指していた。


 多くの乗客を乗せた蒸気機関車は、長い尾を引きながら田園風景の海を突き進んでゆく。


 王都ロワペールのある南方面に向かって扇状に広がったこのシャイベンタンの平野は、農耕に非常に向いており、今、メルが車窓から見える景色一帯は、すべてが小麦畑になっている。夏の収穫を終え、次の収穫に向けて秋の初めに巻かれた種子が発芽し、短いながらも緑の葉が伸びた光景が広がる。王都で暮らしていては見ることのできない開放的な景色に、メルの心も自然と弾むが、今は仕事中であることを向かいの席で書を読んでいる上司の姿を見て思い出し、弾む心はいくらか萎む。せめて一緒に来ていたのが一番仲良しのシャーロットならば、彼女の楽しいお喋りに耳を傾けながら、旅行気分を味わえたかもしれないのだが。


 メルは車窓から目をそらすと、蓋つきのバスケットの中で寝息を立てている黒猫の寝顔をそっと窺った。どう見てもただの猫にしか見えないが、その正体こそが「図書迷宮」そのものであった。


「図書迷宮」とは、王立図書館に伝わる怪談の一種として世間には認知されている。メルも、つい半年前まではそうだった。怪談の内容は、「王立図書館の最奥部の書庫までたどりつくと、そこには果てもなく書庫が連なり、迷ったまま二度と帰ってこれなくなる」というものだ。単なる与太話の一種だったはずの「図書迷宮」。それが実在するものであるとメルが知ったのは、アーサーという「図書迷宮」を探す少年との出会いがきっかけだった。


 だが、本物の「図書迷宮」の実態は、メルが思っていたのとは少し違っていた。図書迷宮は王立図書館に存在しているわけではなく、正確に言えば、この世界ではない場所、魔法で生み出された全くの異空間にあったのだ。さらに言えば、その異空間そのものが「図書迷宮」とも言えた。要は、図書迷宮とは無数の書を保有した異次元の空間を指すのだ。その場所は、すべて魔法によって構成されており、長い年月をかけてその魔法は自我を得た。今、バスケットの中で丸まったこの柔らかい生き物こそ、自我を得た魔法・ヴェスターであった。


「館長はなぜ、その猫を連れて行くよう言ったのか、あなたは本当に何も知らないのですか。ミス・アボット?」


 いきなりヘインズに沈黙を破られ、メルはぎくりとした。あまり長い事ヴェスターの寝顔を眺めすぎただろうか。


「え、ええ、本当に何も知りません」


 最初だけ少し声が上ずったが、メルは平静を装って答えた。ヘインズは、ほんの僅かにずれた銀縁の眼鏡を、鼻当てを人差し指で押し上げて正しい位置へ戻す。


それから、眼鏡のレンズを通して、彼女の細い目はますます細められた。


「猫を連れて、寄贈予定の書物の確認及び引き取りの業務へ赴くのは前代未聞です。館長は一体何をお考えか。その猫が何の役に立つのか」


 業務的な冷たい響きを含んだ彼女の言葉に、メルは内心縮み上がる。


 現在、メルとヘインズは王都からずっと北にあるコレス・ヴェルトを目指して北上中だ。理由は、ヘインズが述べた通り、寄贈予定の書物の状態確認とその収集である。

 

 数日前、コレス・ヴェルトの名家であるソルヴィ家の当主・トーマス・ソルヴィが、蔵書狂ビブリオマニアであった祖父の遺品の一冊を王立図書館に寄贈したいという旨の文書を、コレス・ヴェルト図書館の館長の紹介状付きでソフィ・マクレガン館長宛に送達してきた。ただの本ではない。世界でたった一冊しかない、非常に価値の高い稀覯本である。本の種類としては、仕掛け絵本に分類される。約七百と三十年前、現在のリヴレ王国とシュフルヴ王国の国境沿いに栄えた王朝に仕えていた製本職人の一族が、その持てる技術を全て注ぎ込んだ仕掛け絵本の最高傑作にして、大陸に広く流布している御伽噺の原本。その存在は確かに認められていたが、あくまで個人の所有物であり、人の目に触れることはなかった。それが今回、祖父の死とともに所有権を譲られたトーマスの善意により、王立図書館に所蔵されるかもしれない。

 

 メルたちが今回赴くのは、その書物の状態の確認と収集、寄贈するに際し必要な手続きをソルヴィ氏に行ってもらうためである。その業務に、果たしてヴェスターはどんな風に役に立つにか、と問われれば、「役に立たない」というほかない。

 


 そもそも、今回、館長がヴェスターを二人に同行させたのは、ヴェスター自身が行きたいとねだったからだ。館長は、ヴェスターの正体を知っている。ヴェスターの存在を容認している国王にお伺いを立ててから、良い社会勉強にもなるだろうと、彼を送り出したのだ。もちろん、ヘインズはそんな事情は露ほども知らない。彼女は図書迷宮が実在することは知っているが、それがまさかこんな猫の姿で目の前にあるとは全くもって知らない。


メル、シャーロット、館長以外の図書館関係者も彼女と同様だ。そんな彼女が館長の下した判断をおかしく思うのは当然だろう。


 ヘインズはフンと鼻を鳴らして、たまたま目についたスカートの上の埃をさっと手で払う。メルやシャーロットなどの年若い司書が身につけているスカートと比べると、三十歳の誕生日を迎えたヘインズのスカートは色味もずっと落ち着いていて丈も長く、より上品で洗練された大人の女性の気品が漲っている。制服はすべて支給品であり、デザインも統一されているが、一定の職務経験を積むといくらか自由が利くのだ。


「本当に、館長の判断といい、この猫といい、おかしなことが続く世の中になりましたね。半年前のあの恐ろしい出来事なんて、心臓が止まるんじゃないかと思いました」


 ヘインズの言う「半年前の恐ろしい出来事」とは、コルキアの襲撃事件のことだろう。禁忌の魔道書を保有する「図書迷宮」を奪おうとする魔女・コルキアと、それに反撃し、黒猫から黒龍へと転じたヴェスターにより繰り広げられた王都上空での両者の争いは、否応なく世間の注目を集めることになった。


 現代においては既に過去の遺産でしかない魔女と龍、双方のぶつかり合いは、王都の時計塔を真っ二つにして終結を迎えた。奇跡的に死人は出なかったものの、この事件が世間やあらゆる機関に与えた衝撃と影響は半年を経てなお未だに冷めたとは言えない。


 そんな騒動に思い切り関わっていたメルは、「そうですね、血が凍るかと思いました……」と同意する。最もメルとヘインズでは、血が凍る思いをした対象は異なるだろうが。


「そうでしょうとも。ま、そう考えれば、猫一匹くらい……」


 ちょうどヴェスターが狭い籠の中で寝返りを打った。小さな顔がこちらに向いて、柔らかな被毛に覆われた口がむにゃむにゃと動く。不意に、ヴェスターへ向けられたヘインズの眼差しが柔らかくなる。だがそれも一瞬のことで、いつもの生真面目な表情に戻るとヘインズはメルへ向き直った。


「ミス・アボット。到着まで、まだまだ時間はかかります。私の前だからと遠慮しないで、そこの猫みたいにリラックスして過ごしなさい。私も、少し眠ります」


 そう言うと、ヘインズは膝上に広げてあった書を閉じてカバンにしまい、代わりに眼鏡入れを取り出して、そこに外した眼鏡を入れた。そのまま腕を組んで、早速寝息を立て始める。あまりの寝つきの良さにメルはしばし呆気にとられた。


 メルは特別眠気を感じなかったので、先ほどのヘインズのように本を読むことにした。鞄の中から小ぶりの大衆小説を取り出し、栞を挟んでいた箇所を開いて文字を追い始める。それから一時間は経っただろうか。規則的な列車の振動に、メルもついうつらうつらしてきて、しまいには膝の上に本を置いた状態で眠ってしまった。コンパートメント内に、二人と一匹の寝息が柔らかく響いた。

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