第18話

 記憶売買規制法案採決の日。ハイルは一人、エピークの会社の前に立っていた。手には、シュンリから預かり、まだ返せていない携帯端末。周囲を見回す。昼間のオフィス街には、誰もいない。

 ハイルは再びエピークに電話をかけた。やはり出ない。そして再び周囲を見回す。

 どうして出てくれないのだろう。どうして自分は逮捕されないのだろう。

 三日前、エピークの指示通り、脅迫のメールをエピークへ送った。そうすれば、記憶をくれると約束したのに、エピークからも、担当の社員からも連絡はない。まったくの音信不通。そして、先生は保釈されたという話がほかの静杯会の会員からあったけれど、まだハイルの家族が釈放される見込みは立っていない。

 不安で押しつぶされそうだ。警察が接触してくる気配もなければ、なにもない。いても立ってもいられず、こうして会社の前にやってきたけれど、ここにエピークがいるわけではない。でも、エピークの自宅の場所は知らないから、どうしようもない。会社に乗り込んで、エピークと話をさせろと要求することも頭をよぎったけれど、そんな勇気はひとかけらもわいてこなかった。

 裏切られたのだろうか。きっとそうだ。もとから、記憶をくれるつもりなんてなかったのだ。

 でも、帰る気になれなかった。逮捕するなら早くしてほしい。

 その時、携帯端末が震えた。シュンリからの電話だ。

「もしもし」

 すぐに取ると、「ハイルさん」と落ち着いた声が聞こえた。シュンリではない。

「……先生?」

「はい。突然お電話してすみません。今、お話しできますか」

「も、もちろんです」

 ハイルは驚きのあまり、意味もなく動き回る。

「先生、あの、大丈夫ですか?」

「わたしは大丈夫です。エピーク社長から連絡がありました。ハイルさんから脅迫されたので、ハイルさんとそのご家族を脱会させないと、通報すると。我が会から脅迫犯が出たとなると、今後行う予定の活動がさらに難しくなるので、ハイルさんとご家族には、脱会してもらいます」

「え?」

「エピークさんの指示でやったことなんでしょう? 彼は、ハイルさんたちを脱会させたかったんですね。我が会を嫌っているからでしょう。脱会させれば通報しないとは、おかしなことですからね」

 ハイルの頭の中は真っ白になってしまった。

「ご家族にも、わたしからお話をしますので。では、そういうことで、よろしくお願いします。今までありがとうございました」

「ちょっと待ってください」

 なんとか言葉を絞り出す。

「そんなつもりはなかったんです。エピークに騙されて。これからも、一生懸命働いて、お金をお支払いします。だから、捨てないでください」

「ついさきほど、記憶売買規制法案は可決されました」

「え?」

「活動方針を変えます。これからは、規制解除へ向けて、本格的に政治活動を行います。そのためには、犯罪歴のある会員はリスクになります」

 先生が、自分がしたことを棚に上げていることには、ハイルは思い至らなかった。

「それに、エピークさんのことを調べました。なかなか恐ろしいかたのようなので、逆らわないほうがいいと考えました」

 今のハイルにとっては、先生のほうが恐ろしい。

「すみません、すみません」

 涙を浮かべながら、必死に謝る。

「せめて家族だけでも、残らせてください。お願いします」

「エピークさんの条件は、ご家族全員です。こちらは、交渉できる立場ではありません。わたしも心苦しいのですが、仕方ないんです。わかっていただけますね」

 これは本当に現実なのだろうか? 静杯会がない生活なんて、想像できない。

 ハイルは、こわばる口をどうにか意志の力で動かした。

「先生、先生は以前、生きることが恐ろしいとおっしゃっていましたね」

「……はい」

「わたしは馬鹿だし、先生のことがわかるなんて、思いません。先生の苦しみがわたしにわかるなんて、思いません。でもそれを聞いた時、わたし、こわいならこわいって思ってもいいんだって、思ったんです。生きるのはこわいから、生きてるだけで、すごいってことなんじゃないかって思って、救われたんです。わたし、先生のこと、応援したいんです。先生についていきたいんです。お願いします」

「ありがとう。わたしは、自分がほかの人を救えるなんて、思っていないんです。でも、あなたのように救われたと言ってくださるかたがいるから、初めて自分に価値を感じることができるんです」

「じゃあ――」

「わたしは誰も救おうなんて思っていません。自分の価値を高めようとも思いません。自分が得たい安心のことしか考えていない、利己主義者です。自分の目的を達成することを最優先します。そういうことです」

 ハイルには、利己主義者の意味がわからなかった。しかし、先生の穏やかながら有無を言わせぬ口調から、どう言っても決定が覆ることはないのだと、わかった。

 ハイルは射すくめられたように硬直し、なにも言えなくなった。

「それでは、今までお世話になりました」

 それだけだった。先生の最後の言葉。今まで納めた会費の返金の話などは、一切なかった。

 ひどすぎる、と思った。あまりにも非情。しかし、これが先生なのだ。会のためなら、これくらいのことはするだろう。もっと恐ろしいことだって、するかもしれない。

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