第19話
法案可決後も、ニュースに映る首相は、いつも通り、綺麗で堂々としていた。表情豊かで、衒いなく笑顔を見せる。
フレジャイルに、あんなに熱心に静杯会のことを説明したのが馬鹿みたいだ。わかってくれるはずがなかったのだ。別世界の人なのだから。
首相だとわかっていたのに、なぜ、フレジャイルの言葉に従ってしまったのだろう。あと数分あれば、先生たちは記憶データを盗むことができたかもしれないのに。
自分が犯罪を容認する思考をしていることに、ハイルは気づいていた。しかし、それがなんだっていうのだろう。ハイルを裏切ったエピークは、そもそもハイルの仕事を犯罪まがいのものだと考えているらしいし。
ハイルの家族は三人とも、執行猶予判決を受けて帰ってきた。家族がそろったことは喜ばしかったが、みんな、静杯会から強制脱会させられたショックから立ち直れなかった。両親は職場から解雇され、兄は自ら退職してしまい、部屋に引きこもった。ハイルは、数日無断欠勤をしても、解雇されなかった。ただ、結婚の話を持ち出せるような雰囲気ではない。
ハイルは久しぶりに職場の更衣室でアオに会い、思わず彼女の手を握っていた。アオの手はべとべとしていた。
「これからお風呂入るところなんだから」
アオは手を振り払おうとしたが、ハイルは離さなかった。
「アオ、わたし、これからどうしたらいいんだろう」
ハイルは、エピークに騙され、静杯会から追い出されてしまったことを話した。
アオは静かに話を聞いたあと、「それってさ」と言った。
「普通になったってことだよね? これからは、普通に生きればいいんじゃない?」
「そんなこと言われても……静杯会がないなんて、想像したこともなかったし」
「でも、エピークに記憶をあげるから脅迫しろって言われて従ったってことはさ、自分と家族が記憶をもらえれば、静杯会はどうなってもいいって思ったってことじゃない?」
ハイルは数秒沈黙してから、うなずいた。
「そう、そうだよ。わたしって卑怯だよね。だからこんな目に遭ってるんだよね」
「こんな目って、そんなにひどいとは思えないけどな」
「ごめんね、愚痴っちゃって」
「いや、いいんだよ。そんなに記憶が欲しいなら、本当にエピークを脅迫して、記憶をもらえばいいんじゃない?」
「え?」
あまりにも意外な言葉に、ハイルは目を丸くした。
「冗談だよね?」
「冗談じゃないよ。ゆすれるネタは持ってるんだよね?」
いつかアオに、なぜ親戚がお金持ちになったのかを話したことがあった。そのことだろう。
「でも、そんなことできない」
「そうだよね。エピークは彼なりにハイルたちのことを考えて、会から抜けさせてあげようって考えたんだろうし」
「そうなのかな? じゃあ、どうして連絡がつかないのかな」
「もう縁を切ったつもりかも」
「そっか……」
それならそれでもいい。全部忘れてしまいたい。自分の馬鹿さは特に。
「ハイル」
アオはハイルの肩を叩こうとしたが、汚れた手を気にしたようにやめた。
「本当に、どうしても欲しいものがあるんだったら、なにがなんでも頑張ってつかみ取るんだよ」
「え?」
「そんな暗い顔してる暇ないんじゃない? 人間の人生は短いんだから」
アオは、虹色のラメが散った顔で微笑むと、「お風呂に入らなきゃ」と出て行った。
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