第17話
秘策と言ったが、たいしたものではなかった。要するに、狂言脅迫だ。静杯会の名前を使い、エピークに殺害予告をしてほしい、という話だった。
貸し会議室の椅子に座ったハイルは、担当の女性の前で心細く黙っていた。彼女が言うには、そうすることで、静杯会に監視がつき、静杯会はやりすぎた行為に走ることもなくなり、記憶カタログ会社は被害を受けることがなくなり、上手くいけば、今週にも投票が行われる、記憶売買規制法案を否決に持って行くこともできるかもしれないということだった。
「もちろん、報酬は与えます。記憶をあなたにあげます」
「記憶を?」
ハイルは、どうしてこんなことになってしまったのだろうと考えていた。
「あなたは逮捕されることになるでしょうけど、その前に、好きなだけ記憶を無償であげます。あなたが一番欲しいものでしょ?」
「でも、犯罪ですよね?」
この前のことは、犯罪とは知らなかった。でも、これは違う。
記憶売買規制法案を廃案にしなければ、エピークを殺すと声明を出す。立派な犯罪だ。
「被害者はいないんですよ。これは、社長の案なんですから」
「じゃあ、どうしてエピーク本人が話してくれないんですか?」
「それは、万が一のリスクを考えてのことです」
「万が一のリスク?」
「社長が直接こんな話をするわけがないじゃないですか」
投げやりな口調から、彼女もこれが本意ではないことが伝わってきた。彼女は息を吸い込んでから、早口に続ける。
「ひどい提案をしているのはわかっています。でも、社長にとっては、これはたいしたことではないんです。違法なことも平気でやる人です。問題をもみ消す手段も持っています。今回のクラッキング騒ぎは、警察は重要視していないんです。未遂ですし、静杯会は暴力集団ではないことをわかっているからでしょう。でも、社長は静杯会を嫌っていて、できることならつぶしたいと思っています。そして、暴力的な手段で記憶売買規制法案に反対する集団がいるということを世間にアピールすることで、可能性は低いながら、法案否決をだめもとで狙う価値はあると考えているんです」
ハイルは目をしばたたく。よくわからなかった。
「社長はリスクを恐れず、少ない可能性に平気で賭ける人です。道徳意識は低い。それで、今まで勝ってきたんです。逮捕されたあと、あなたが社長を訴えたところで、あなたの発言は信用されないことも見越しています。ただ、約束は守ります。あなた一人に大量の記憶を提供することなんて、うちの企業にとっては造作もないことです」
「造作もないこと……」
簡単ということだろうというのはわかった。
「どうしますか。社長は、あなたは記憶以外はなにもいらないはずだと言ってましたが」
「あの、どうしてエピークに殺害予告しなきゃいけないんでしょうか」
「はい?」
「例えば、廃案にしなければ静杯会は集団自殺する、とか、もっと被害者がいない感じの脅しじゃだめなんでしょうか」
「そんなのは脅しにならない可能性が高いです。記憶カタログ会社が守られることが大切なので。社長に世間の同情を集める狙いもあります。クラッキングが上手くいかなくて怒って、記憶カタログ会社の社長を狙ったってことで成り立ちますよ。親戚だってことも明かしていいと思います。正直、確執があったことは事実なんでしょ?」
「かくしつってなんですか?」
「とにかく、言う通りにしてもらえれば、記憶をあげます。問題は、あなたがどれだけ記憶が欲しいか、それだけです」
「記憶は欲しいですけど……」
大量の記憶を買えば、幸せになれると教えられてきた。心という水を増やすことで得られる、本当の凪。それが手の届きそうなところにある、ということなのだろうか。
でも、それは本当に必要なものなのだろうか。今の自分も、十分幸せではないのか? リージがいる。両親と兄も、すぐに帰ってくる。それ以上、自分はなにを望んでいるのだろう。
いや、そんなのは、見せかけの幸せだ。だって、つい昨日は、死にたい気分になっていたじゃないか。リージがその気持ちをぬぐってくれたけれど、今朝は、よくわからない理由で機嫌を損ねて出て行ってしまった。今までと同じように生きていれば、これからも何度も同じような気持ちに襲われるだろう。これから先のことがわかるわけではないけれど、そのことは否定できない気がする。それは、本当の幸せと言えるだろうか。言えるはずがない。
幸せは、環境ではない。心だ。心を変えるしかないのだ。科学的な方法で。
「あの、わたしだけじゃなくて、家族にも記憶をわけてもらえないでしょうか」
ハイルの言葉に、彼女は、意外にもあっさりとうなずいた。
「わかりました。いいでしょう」
こんなに簡単なことだったのか?
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